第8話 新しい秩序
「それは……」
蓮はそこで言葉を止めた。
「……どこなのよ。もったいつけるわね」
「まあ、着いてからのお楽しみにしとくか」
「何よそれ……余計に気になるじゃない」
「そのうち分かる」
「あっそう……聞いた私が馬鹿だったわ」
朝霧は呆れたように息を吐くと、シートへ背中を預けた。
車は雪の残る道路を進んでいく。
しばらく窓の外を眺めていた朝霧だったが、やがて先ほど立ち寄った分屯地のことを思い出したのか、再び口を開いた。
「それにしても、防具を取りに行ったはずなのに、まさか武器まで回収しちゃうなんてね」
「使えそうなものがあったんだから仕方ないだろ」
「本当、《パンドラ》の中はもう何でもありね。食料も水も、車も家もあって、今度は銃まであるんでしょう?」
「生きていく上で必要なものは、それなりに揃ってるはずだ。元々、自分一人でも生きていけることを前提に集めたからな」
「そうね……」
朝霧はそこで言葉を切った。
何気なく始めた話だったはずなのに、何か引っかかったのか、少し考えるように視線を窓の外へ向ける。
「でも、今は私もいるんだし……医療面はもう少し補強しておきたいわね」
「……医療面?」
「蓮が寒波の前に回収したのって、薬とか一般的な治療に使うものが中心でしょう?」
「ああ。ちょうどあの倉庫に医薬品関係のものもあったからな。使えそうなものはまとめて収納した」
「それなら、普通の怪我や病気にはある程度対応できると思う。でも、この先の万が一を考えると、それだけじゃ少し不安なのよね」
蓮は運転を続けながら、僅かに眉を寄せた。
「まだ何か足りないのか?」
「……手術よ」
思ってもいなかった言葉だったのか、蓮が僅かに眉を寄せる。
「薬があれば何でも治せるわけじゃないもの。大きな怪我をした時に必要な器具もそうだし、状態を調べるためのものだって欲しいわ。この先、何があるか分からないでしょう?」
そう言われれば、蓮にも反対する理由はなかった。
これまで《パンドラ》へ収納してきた医薬品のほとんどは、寒波前に必要になりそうなものを片っ端から集めた結果でしかない。何がどれだけ必要なのかを判断できる人間がいなかった以上、専門的なものまで十分に揃っている保証はなかった。
だが、今は違う。
隣には、それを判断できる人間がいる。
「それなら、目的地へ行く前に一度寄ってみるか」
「どこか心当たりがあるの?」
「この先に小さな町がある。確か病院もあったはずだ」
「病院があるなら話は早いわ。寄って」
「即決だな」
「当たり前でしょう。こういう時くらい、私の専門を信用してもらわないと困るわ」
「そうだな。必要なものは任せる」
「ええ。そこは私に任せて」
それからしばらく走ると、道路沿いに建つ建物の種類が少しずつ変わり始めた。
住宅に混じって小さな工場や整備工場が目立つようになり、その間には倉庫らしき建物も点在している。巨大な物流施設こそ見当たらないものの、町へ近づくにつれてその数は増え、中には周囲の雪が踏み固められ、何度も人や車が出入りした跡が残っている場所もあった。
やがて町へ入ると、その理由も少しずつ見えてきた。
「……ここ、今までの町と随分違うわね」
朝霧が助手席から外を眺める。
道路脇には人の手で寄せられた雪が積み上げられ、その横では数人の男たちがスコップを手に残った雪を片付けていた。少し先では建物から運び出したらしい木箱を何人かで車へ積み込み、別の場所では台車に荷物を載せた男が道路を横切っていく。
何より蓮の目を引いたのは、動いている車の数だった。
一台の車とすれ違ったあと、それほど間を置かずに荷物を積んだ別の車が現れる。さらに先の交差点にも、ゆっくりと曲がっていく車の姿が見えた。
「車も結構走ってるのね」
「みたいだな」
「周りは山だし、ここに来る前の町ともかなり離れてたでしょ? 途中に倉庫も結構あったし、物資はそれなりに余裕があるのかもしれないわね」
蓮も同じことを考えていた。
だからといって、寒波以前の町がそのまま残っているわけではない。
閉ざされた店は多く、割れた窓を板で塞いだ建物もある。通りを歩く人間の中には腰に工具や刃物を下げている者もおり、見慣れない車が入ってきたことに気づけば、何人かは警戒するようにこちらへ視線を向けてきた。
この町も、あの七十二日間を無傷で乗り越えたわけではないのだろう。
それでも、人が雪を片付け、物を運び、車を走らせている。
「こんな町もあるのね……」
「ああ。ただ、これだけ人がいると病院も誰かが管理してそうだな」
「でしょうね」
「こっそり入って収納するのは難しそうだ」
「……最初は勝手に持っていくつもりだったの?」
「誰もいなければな」
「やっぱり……」
朝霧が呆れたように蓮を見る。
その視線を横目に、蓮は道路脇で雪を片付けていた男たちの近くへ車を寄せた。
エンジンを止めるまでもなく、一人の男が作業の手を止めてこちらを見る。警戒している様子はあったが、いきなり武器へ手を伸ばすようなことはなかった。
蓮は窓を少し開けた。
「ちょっと聞きたいんだが、ここでも物々交換はできるのか?」
「ああ、できるよ。この先をもう少し行けば市場があるから、そこで聞いてみるといい」
「……ここにも市場があるのか?」
「ああ、あるぞ。この街の商会がやってるやつだよ」
「商会?」
蓮が聞き返すと、男は二人が外から来た人間だと気づいたらしい。
「あんたら、この辺の人じゃないのか」
「ああ。通りがかっただけだ」
「なら知らないか。ここは元々、町工場が多いところでな。倉庫や運送屋なんかも結構あったんだ。まあ……寒波が始まってからいろいろあったけど、今は残った連中を商工会が中心になってまとめてる」
男はそれだけ言うと、手にしていたスコップを持ち直した。
「市場ならこの道を真っすぐだ。人が増えてくるから、行けば分かるよ」
「助かった」
窓を閉め、再び車を走らせる。
「商工会が町をまとめてるのね」
「元々知り合いだった連中も多いんだろ。ゼロから集まった連中よりはまとまりやすかったのかもな」
「それだけじゃないと思うけどね」
朝霧は窓の外で雪を片付けている人々を見ながら、小さく息を吐いた。
「この人たちだって、あの七十二日間を過ごしたんでしょうし」
「……まあな」
その間に何があったのかは分からない。
だが、少なくとも今の町には、人が勝手に物を奪い合っている様子はなかった。
しばらく進むと、先ほどの男が言っていた市場はすぐに見つかった。
元は広い駐車場だったらしい敷地にいくつもの区画が作られ、その前には手書きの看板が立てられている。食料、燃料、衣類、工具、部品、生活用品と大まかに分けられ、並べられた品物を前に交渉している者もいれば、必要なものを書いた紙を掲げている者もいる。
初日に見た物々交換の場所よりも遥かに規模が大きく、何より雑然としていない。
「随分ちゃんとしてるわね」
「町全体で管理してるなら、あそこより規模も大きくなるんだろ」
蓮がゆっくりと車を進めていると、朝霧が一つの看板を見つけた。
『医療・衛生』
「あっ……あそこ見て」
二人は近くに車を停めると、その区画へ向かった。
並べられていたのは包帯や消毒用品をはじめとした比較的簡単な医療用品が中心で、朝霧はざっと眺めただけで首を横に振った。
「薬が欲しいのか?」
区画にいた男が尋ねる。
「いいえ。薬じゃなくて、もっと専門的な医療器具や設備が欲しいんだけど」
「……設備? そんなもんどうすんだ?」
「ええ。ちょっとね。ここに病院があるでしょう?」
男は僅かに眉を寄せたものの、それ以上は追及しなかった。
「ああ。それならここには置いてない。病院には残ってると思う」
「譲ってもらうことはできる?」
「俺じゃ決められないな。ちょっと待っててくれ」
男が近くにいた別の人間へ声をかける。
それから少しして現れたのは、四十代ほどの男が二人だった。
一人は話を聞くなり病院の方へ視線を向けた。
「薬じゃないなら、別にいいんじゃないか? どうせ使ってないものばかりだろ」
しかし、その隣にいた男は露骨に眉をひそめた。
「今使ってねえからって、これからも使わねえとは限らんだろ」
「でもよ、置いといたって使える奴がいないじゃないか」
「だからって勝手に決めていい話じゃねえ。病院に残ってるものも町の財産だ」
言い方こそ強かったが、蓮には男の言っていることが間違っているとは思えなかった。
この町では、残された物資を管理することで何百人もの人間が生活している。外から来たばかりの人間に、使っていないという理由だけで好きに持っていかせる方がおかしい。
「なら、交換ならどうだ?」
蓮が口を挟むと、二人の視線がこちらへ向いた。
「……交換?」
「食料でも生活物資でもいい。そっちが必要なものを出す。その代わり、こっちは病院から必要なものを譲ってもらう」
先ほどの人当たりのいい男は「それなら」と頷いたが、もう一人はまだ納得しきれないようだった。
そのやり取りを、朝霧は少し離れた場所から黙って見ていた。
正確には、途中から男たちを見ていなかった。
頑固そうな男のすぐそばに、一人の少年が立っている。
十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
厚手の上着を着込み、父親らしい男の横で大人しく待っている。時折小さく咳をしていたが、それだけなら今の環境では珍しいことでもない。
だが、朝霧の視線は少年から離れなかった。
やがて交渉がまとまりかけたところで、朝霧が突然口を開いた。
「……ねえ」
「ん? なんだお嬢さん」
男が振り向く。
朝霧はその男ではなく、隣にいる少年を見ていた。
「その子、最近ずっと熱が続いてない?」
「……え?」
「特に夜になると上がるんじゃない? 咳も何日か続いてるでしょう」
男の表情が変わった。
「なんで……」
朝霧は少年へ近づき、その顔色と呼吸の様子を確かめる。
「前より息が苦しそうになってない?」
「……なんでそれ知ってんだ?」
「ちょっと診せてもらっていい?」
「診るって……」
「私、医者なの」
その一言で、周囲にいた人間たちの視線が朝霧へ集まった。
男は驚いたように朝霧を見ていたが、すぐに少年の肩へ手を置いた。
「ただの風邪じゃねえのか? 咳が出て、熱もあるけど……こいつ、普通に歩けてるし」
「まだ断定はできない。でも、呼吸が少しおかしいわ。病院にまだ診療器具があるんでしょ? そこへ行きましょう」
先ほどまで医療設備を巡って話していた男たちも、今度は反対しなかった。
病院は市場からそれほど離れていなかった。
中は寒波以前の姿を完全に残しているわけではなく、使われていない区画には物が散乱したままになっている場所もあったが、一部は今でも町の人間たちが医療用品の保管場所として利用しているらしい。
朝霧は少年を椅子へ座らせると、残されていた聴診器を手に取り、父親からこれまでの症状を聞きながら診察を始めた。
その表情は、つい先ほどまで蓮の隣で話していた時とは明らかに違っていた。
必要なことだけを短く尋ね、少年の呼吸音を何度も確認する。
やがて朝霧は聴診器を外した。
「肺炎の可能性が高いわ」
「肺炎……?」
「このまま放っておいたら危なかったかもしれない。でも、今ならまだ治療できると思う」
父親の顔から血の気が引いた。
「薬は……?」
「ここに残ってるものを確認させて。使えるものがあれば、すぐに治療を始めるわ」
朝霧はそう言うと、周囲に残された医薬品を確認し始めた。
幸い、この町では薬も共同で管理されていたため、必要なものはまだ残っていた。朝霧は少年の状態を見ながら治療を始め、父親には今後注意すべきことを一つずつ説明していく。
すぐに熱が下がるわけでも、咳が消えるわけでもない。
それでも一通りの処置を終える頃には、朝霧の表情から先ほどまでの緊張は薄れていた。
「これなら大丈夫だと思う。しばらくはちゃんと様子を見る必要があるけど、治療を続ければ良くなるはずよ」
「……本当か?」
「ええ。ただ、しっかり休養を取ることね。もう外に連れ回すのはよした方がいいわ。今使った薬も勝手に止めないで」
男は何度も頷いた。
それからしばらく少年を見つめたあと、朝霧へ向き直って深く頭を下げた。
「あぁ……ありがとう。うちはもうこいつと二人になっちまったから、心配でつい……この後ちゃんと部屋で休ませる」
「その方がいいわ。お礼は元気になってからでいいわよ」
男は返事をしなかった。
ただ、先ほどまでとはまるで違う表情で朝霧を見ていた。
「ここ、今は医者はいないの?」
朝霧が尋ねると、近くにいたもう一人の男が少し表情を曇らせた。
「看護師は何人かいるが医者はもういない。元々いた先生たちは、寒波が酷くなった頃にはほとんどいなくなった。最後まで残ってくれてた先生が一人いたんだが……雪が止む少し前に死んじまった」
「……そう」
「ちょっとトラブルがあってな……」
男はそれ以上話そうとはしなかったし、蓮も朝霧も、その先を聞かなかった。
あの七十二日間に何があったのか。
今となっては、それを一つずつ聞いて回ることに大した意味はない。
しばらくして、少年の父親が蓮たちのところへ戻ってきた。
「……さっきは悪かった」
「何が?」
「設備のことだ。好きなもの持っていってくれ。商工会には俺から説明する」
蓮は少しだけ男を見たあと、首を横に振った。
「いや、それはいい」
「……でも! しかも、お前らは息子の恩人だ」
「助けたのは俺じゃない」
蓮は朝霧へ視線を向ける。
「それに、最初に取引するって決めただろ。対価はちゃんと払う」
「いや、でもよ……」
「ここはそういうルールなんだろ?」
男は言葉に詰まり、やがて諦めたように頭を掻く。
「……あんた、変わった奴らだな」
「よく言われる」
「誰にー?」
横から飛んできた声に振り向くと、朝霧が何か文句でもありそうな目で蓮を横目に見ていた。
「……今のは言葉の綾だ」
「よろしい」
結局、最初に話していた条件のまま取引することになった。
朝霧は病院に残された器具や機材を確認し、その中から今後必要になりそうなものを選んでいく。ただし、何でも持っていけるわけではない。大型の設備は今の車には積めず、今後必要になる可能性が高いものも残した。
代わりに蓮は約束していた食料や生活物資を車から降ろした。
もちろん、それらは《パンドラ》から直接取り出したものではなく、人目のない場所であらかじめ車へ移しておいたものだ。
「本当にこれでいいのか?」
父親がまだ納得していない様子で尋ねる。
「ああ」
「でも、それじゃ俺の気が済まねえよ」
蓮は少し考えてから、朝霧が選んだ機材へ視線を向けた。
「……なら、運ぶのを手伝ってくれ」
「え……? そんなことでいいのか?」
「俺たち二人でやるより早い」
男は一瞬呆気に取られたあと、力強く頷いた。
「あ、ああ。もちろんだ。おい! 何人か手ぇ貸してくれ!」
声を聞いた男たちが集まり、朝霧が選んだ機材を次々と車へ運び始めた。
最後の荷物を積み終える頃には、後部のスペースはほとんど埋まっていた。
「これで全部か?」
「今日はこれくらいで十分よ」
「今日は、ねえ……」
父親が苦笑する。
「まだ欲しいものがあるのか?」
「あるにはあるけど、これ以上は車に積めないもの」
「なら、また来ればいい。次は最初から話を通しといてやるよ」
朝霧は少し驚いたように男を見たあと、笑みを浮かべた。
「その時はお願いするわ」
蓮が運転席へ乗り込もうとしたところで、男が呼び止めた。
「なあ。お前ら、このあとどこへ行くつもりなんだ?」
「ここ町のもう少し先だ」
「だったら……なんならお前らこの町で暮らさないか?」
思いがけない言葉に、蓮が振り返る。
「住むところならいくらでも余ってる。ここも楽なわけじゃねえが、食い物もまだあるし、仕事だってある。それに……」
男は朝霧を見る。
「先生がいてくれるなら、こっちとしてもありがたい」
朝霧は何も言わず、蓮へ視線を向けた。
だが、蓮の答えは決まっていた。
「いや、それは遠慮しておく。ただ、俺たちもそう遠いところに行くわけじゃない」
「そうか……」
男は残念そうにしたものの、無理に引き止めようとはしなかった。
代わりにポケットからスマートフォンを取り出す。
「なら、連絡先を交換してもいいか?」
「連絡先?」
「ああ。俺も一応、この町をまとめてる代表の一人なんだ。何かあった時には役に立てることもあると思う」
蓮は少しだけ考え、頷いた。
「それは助かる。俺も今後、必要になることがあると思う」
互いの連絡先を交換すると、今度こそ蓮と朝霧は車へ乗り込んだ。
すぐに何かを頼むつもりはない。
だが、物資だけでなく、機械を直し、車を整備し、必要なものを作れる人間がこれだけ集まっている場所は、今の世界ではそれだけで大きな価値がある。
この町とは、いずれまた関わることになるかもしれない。
町を離れてしばらく走ると、周囲の建物は次第に少なくなっていった。
やがて道路は緩やかな上りへ変わり、正面には雪を被った山が大きく見えてくる。
助手席で外を眺めていた朝霧が、ふと顔を上げた。
「ねえ……」
「ん? なんだ?」
「さっきからずっと山の方へ向かってるけど……目的地って、山の上にあるの?」
「ああ、そうだ。頂上まで行く」
「やっぱり……」
朝霧は前方の山を見上げたあと、少し不満そうに蓮へ視線を戻した。
「もう、結局そこは何なのよ? ここまで来たんだから、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
蓮は少しだけ考えた。
「……そうだな。もうすぐ到着するし、隠す必要もないか」
「最初からそうしてよ」
「これから向かう先は、この国で随一の頑丈さを誇ると言われている――」
朝霧は今度こそ何も言わず黙ったまま蓮の次の言葉を待つ。
蓮は正面へ視線を戻し、雪に覆われた山が、少しずつ近づいてくる。
「――刑務所だ」




