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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第二章

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第6話 最初の取引

 朝霧が目を覚ました時、寝室の中にはいつもと変わらない静けさがあった。


 見慣れた天井に、見慣れた壁。枕元に置かれた小さな時計も、昨日までと何一つ変わっていない。暖房の効いた室内は暖かく、布団から出ることを少しためらってしまうほど快適だった。


 だからこそ、ベッドから起き上がった朝霧は、一瞬だけ自分たちが今どこにいるのか分からなくなった。


 けれど寝室を出てリビングへ向かい、窓を覆っていたカーテンに手をかけたところで、昨日の出来事を思い出す。


 ゆっくりとカーテンを開いた。


 朝の光が差し込み、その向こうに白い世界が現れる。


 昨日まで窓の外に広がっていた高層マンションからの景色は、もうどこにもない。


 目の前にあるのは雪に覆われた森だった。


 木々の枝には白い雪が積もり、その隙間から差し込む朝日が雪面を淡く照らしている。人の姿はなく、建物も見えない。耳を澄ませても、聞こえてくるのは時折風に揺らされた枝から雪が落ちる音くらいだった。


「……本当に森の中にいるのね」


 分かっていたことなのに、朝霧は思わず呟いた。


 昨日まで暮らしていた部屋とまったく同じ場所に立っている。それなのに、窓の外だけがまるで別の世界へ入れ替わってしまったようだった。


 そんな光景をしばらく眺めているうちに、朝霧は昨日見たものを思い出した。


 あのマンションを出てから初めて、自分は今の世界をまともに見たのかもしれない。


 わずかな食料や物資を求めて集まる人々。使えそうなものを持ち寄り、それぞれが必要なものと交換する即席の市場。たった一つの食べ物を求める子供たち。


 自分が神崎蓮と出会わず、あの部屋へ入れてもらえなかったなら、きっと自分も彼らと同じ場所にいた。


 それどころか、今まで生きていられたかどうかすら分からない。


 朝霧は視線を窓から室内へ戻した。


 暖房の効いたリビング。蛇口を捻れば出てくる水。座り慣れたソファに、昨日も使った食器。冷蔵庫を開けば食べ物があり、少し待てば温かい料理まで食べられる。


 外では、それらの一つ一つを手に入れるために人々が必死になっている。


 それなのに自分は今、雪に覆われた森の真ん中で、昨日までとほとんど変わらない生活をしていた。


(私、本当に恵まれてるのね……)


 一瞬罪悪感が胸を締め付けつける。


 以前の自分なら、外で苦しんでいる人がいるのに自分だけがこんな生活をしていていいのかと悩んでいたかもしれない。


 けれど今は、少し違う。


 この場所にいられるのは蓮が自分を受け入れてくれたからだ。


 ならば、そのことを悩み続けるより、自分も蓮に何かを返したかった。


 医者としてなら、やれることはある。


 蓮の体調には普段から気を配っているし、もし彼が怪我をすれば、自分にできることはすべてするつもりだった。たとえどんな状態になっても、可能性がある限り助ける。


 けれど、それだけではなくなっていた。


 医者としてではなく、同じ場所で生活する人間としても、少しくらい役に立ちたいと思う。


 昨日料理を作ろうとしたのも、その一つだった。


 もっとも、結果については思い出したくない。


「……シチューだったんだけどな」


 小さく呟きながら、朝霧は昨日の光景を思い出した。


 自分だって馬鹿ではない。


 蓮は気を遣って何も言わなかったが、あの料理を美味しいと思わなかったことくらい分かっている。結局、蓮は途中で料理を《パンドラ》へ収納し、代わりにどこかの店で作られたカレーを出した。


 あれ以上分かりやすい答えもないだろう。


 そもそも、自分が料理を苦手としていることくらい昔から知っていた。


 医者になってからは仕事に追われ、いつ病院へ呼ばれるか分からない生活が続いていた。食事はコンビニやデリバリーで済ませることが多く、料理をする機会などほとんどなかった。


 食べられればいい。


 腹が満たされればいい。


 そんな食生活を長く続けていたせいか、料理ができないだけでなく、いつの間にか味そのものにも少し鈍感になっていたのかもしれない。


 それでも、昨日の失敗で諦めるつもりはなかった。


(次はちゃんともっとおいしいものを作ろう)


 いつか蓮が《パンドラ》にも持っていない料理を作って、本当に美味しいと言わせてみたい。


 それがいつになるのかは、朝霧自身にも分からなかったが。


「おう、もう起きてたのか」


 背後から聞こえた声に振り返ると、寝室から出てきた蓮がこちらを見ていた。


「おはよう。ええ、いつもと同じ寝室なのに、外だけ森に変わってるでしょう? なんだか少しワクワクしちゃって、いつもより早く目が覚めたみたい」


「ああ、そうか、確かにこれはこれで気持ちがいいな」


 蓮も窓の外へ目を向ける。


 昨夜から特に変わった様子はない。


 雪の上にも人が近づいたような痕跡はなく、周囲は静かなままだった。


「顔洗ってくる。朝飯にしよう」


「ええ」


 二人は順番に洗面所で顔を洗い、簡単に身支度を済ませると、いつものようにリビングのテーブルについた。


 蓮が《パンドラ》から取り出したのは、白いご飯に味噌汁、焼き魚、卵焼きといった、ごく普通の和食だった。


 湯気の立つ味噌汁を前にして、朝霧は思わず笑ってしまう。


「本当、あなたといるといつか常識を忘れそうで怖いわ」


「それは今更だろ」


「それはそうだけど……」


 朝霧は箸を手に取りながら、もう一度窓の外を見た。雪に覆われた森の中で、温かい味噌汁と焼き魚を食べている。


 改めて考えれば、十分おかしな光景だった。


 しばらく二人で食事を続けていたが、朝霧はふと以前から気になっていたことを思い出した。


「ねえ、蓮。一つ聞いてもいい?」


「なんだ?」


「この部屋ごと持ち運べるなら、もう新しい拠点を探す必要ってないんじゃない?」


 蓮の箸がわずかに止まった。


「なんでそう思う?」


「こうやって森の中に置いておけば、外から見つかる可能性も低いでしょう? 誰かに見つかりそうになったら、また収納して別の場所へ移動すればいいじゃない。わざわざ危険を冒して新しい拠点を探さなくても、それで十分なんじゃないかと思って」


 朝霧としては当然の疑問だった。


 昨日、この部屋そのものを蓮が《パンドラ》から出した時には驚かされたが、考えてみればこれほど便利なものもない。


 危険になれば家ごと移動できて、場所を知られても、翌日には別の場所へ行けばいい。


 だが蓮は首を横に振った。


「それじゃ足りない」


「足りない?」


 蓮は味噌汁を一口飲んでから、窓の外へ視線を向けた。


「昨日、外を見てどう思った?」


「どうって……」


「人が増えてただろ」


 朝霧は昨日の光景を思い返す。


 確かにそうだった。


 雪が降り続けていた頃とは違い、道路には人がいた。市場のような場所まで生まれ、人々が物資を持ち寄っていた。


「気温が上がって、ようやく人が動けるようになった。雪に埋まってた倉庫や工場、店なんかにも入れるようになってる。今まで取りに行けなかった物資も回収できるようになった」


「ええ」


「だから今は、前より状況が良くなったように見える」


 朝霧は蓮の言葉を聞きながら、少しずつその意味に気づき始めた。


「……違うの?」


「何も作ってないだろ」


 その一言で、朝霧の表情が変わった。


「今みんなが食ってるのは、寒波が来る前に作られたものだ。倉庫に残ってた食料、店に残ってた商品、誰かが家に備蓄してたもの。それを見つけて使ってるだけだ」


「……そうね」


「今はまだ残ってる。だから動けるようになった分、物資も見つかる。でも新しく作ってないなら、いつかなくなる」


 雪が止み、気温が上がった。


 それだけを見れば、世界は少しずつ元へ戻り始めているようにも思える。


 だが実際には違う。


 今の人々は、寒波が訪れる前の世界が残したものを掘り起こしながら生きているだけなのだ。


「2501で起きたことが、今度はもっと大きな範囲で起きる」


 朝霧は箸を置いた。


 食料が減れば誰かが管理を始める。


 配給を巡って不満が生まれ、奪う者が現れ、力を持った者が秩序を作る。


 そして最後には、その秩序すら崩れた。


「しかも今度は、みんな動ける」


 蓮は続けた。


「マンションの時は、外に出られなかったから問題があの建物の中だけで済んだ。でも今は違う。物資があると分かれば、どこまでも人が来る。個人だけじゃない。集団で動く連中も増えるだろうし、そのうち政府や軍みたいな組織とぶつかる可能性だってないわけじゃない」


「だから、この部屋だけじゃ足りない……」


「ああ。ここは便利だし、二人で生きるだけならかなり使える。でも結局は一つの箱だ。長く生きるなら、ある程度の攻撃を受けても守れて、自分たちで生活を維持できる場所が必要になる」


 食料、水、電気。


 それだけではない。


 これから先、世界がどう変化するのか誰にも分からない。


 そもそも、一度はあり得ないほど気温が下がった世界なのだ。今の気温がこのまま続く保証すらなかった。


「なるほど……確かにその通りかもね」


 朝霧は納得したように頷き、蓮は残っていたご飯を口へ運ぶ。


「生き残る可能性が少しでも上がるなら、俺は妥協するつもりはない」


「あなたらしいわね」


 朝食を終えると、二人は出発の準備を始めた。


 もっとも、準備といっても朝霧がやることはほとんどない。


 必要なものの大半は《パンドラ》に入っている。


 二人が外へ出ると、朝の冷たい空気が頬に触れた。室内との温度差に朝霧がわずかに肩を縮める横で、蓮は昨日まで二人が過ごしていた巨大な金属の箱へ手を向ける。


 次の瞬間、二階部分まで含めた2501が、その場所から丸ごと消えた。


 昨日初めて見た時なら、朝霧も声を上げていたかもしれない。


 だが今は、何も言わなかった。


 蓮と一緒にいると、驚いてばかりでは身が持たないことを、いい加減理解し始めていた。


 巨大な2501が消えたことで雪のない地面が露出していたが、蓮は《パンドラ》に収納していた雪をその場所へ戻し、不自然にならない程度に表面を覆っていく。


「じゃあ、行くぞ」


「ええ」


 二人は昨日車を収納した道路まで歩き、周囲に人がいないことを確認してから蓮が車を取り出した。


 朝霧が助手席に乗り込み、蓮も運転席へ座る。


 エンジンがかかり、暖房から少しずつ温かい風が流れ始めた。


「もう、そんなに遠くないんじゃない?」


「ああ。午後までには着きたいな」


 蓮がアクセルを踏み、車は再び雪の残る道路を走り始めた。


 昨日とは違い、その日の道中は驚くほど静かだった。


 何度か人の姿を見かけたものの、どれも数人程度の小さな集団だった。大きなリュックを背負い、雪の残る道路脇を黙々と歩いている。


 彼らも車には気づいた。


 けれど手を振る者も、道路へ出て止めようとする者もいなかった。


 むしろ車が近づくと少し距離を取り、互いに視線だけを向けながら通り過ぎていく。


 それだけだった。


 昨日のように誰か止められることもなければ、襲ってくる者もいない。


 関わらない。


 それもまた、この世界で生き残るための方法の一つになり始めているのかもしれない。


 昼を少し過ぎた頃、蓮は車の速度を落とした。


「そろそろだ」


 道路の先、雪と木々の向こうに人工物が見え始め、ついに目的地である自衛隊の分屯地の姿が見えた。


 ただし蓮は、そのまま入口まで向かおうとはせず、まだ少し距離を残した場所で車を止める。


「どうしたの?」


「先に少し様子を見る」


 蓮が《パンドラ》から双眼鏡を取り出した。


 倍率を調整しながら分屯地の方向を確認していく。


 やがて、その動きが止まった。


「……人がいるな」


「自衛隊の人?」


「いや」


 しばらく観察したあと、蓮は双眼鏡を朝霧へ渡した。


「見てみろ」


 朝霧も言われた方向へ双眼鏡を向けると分屯地の入口付近には確かに人がいた。


 だが、制服を着た自衛隊員には見えない。


 若い男たちが多く、中には若い女の姿もある。髪を明るく染めた者や、首元からタトゥーのようなものが覗いている男もいた。服装にも統一感はなく、思い思いの防寒着を着ている。


「本当だ。何人かいるわね。見た目は……確かに軍人という感じではないわね」


「……やっぱりここは国から一時放棄されてる可能性があるな」


「どうするの? 人がいるなら、ここは諦める?」


 蓮はすぐに答えず、もう一度双眼鏡を受け取った。


「思った以上に簡単にここまで来れてしまったから、拠点としてはなしだな」


「簡単だったから?」


「比較的簡単に来れるなら他の奴らも来れる。それに、もう他人が使ってる場所を、わざわざ長期拠点にする必要はない。あいつら以外にも、ここを知ってる連中がいるかもしれないしな」


「じゃあ次の候補に行くの?」


「いや、ここには別の目的もある。行くには行く」


 朝霧は少し意外そうに蓮を見る。


「珍しいわね。あなたがそこまでリスクを冒してまで欲しがるものなんて」


 それから分屯地へ視線を戻し、少し考える。


「自衛隊の施設で欲しいものとなると……武器?」


「……いや。防具の方だ」


「防具?」


「ああ」


 蓮は双眼鏡を下ろした。


「攻撃するだけなら、今の俺にも十分な手段がある。目の前の相手ならば、大抵はどうにかできる」


 朝霧は昨日、雪の塊によって一瞬で人間が押し潰された光景を思い出した。


 確かに攻撃力だけなら、蓮が銃より劣るとは思えない。


「でも俺自身は普通の人間だ」


「……なるほど」


「見えてない場所から撃たれれば死ぬ。気づく前に攻撃されても同じだ。だから欲しいのは、そういう時に少しでも生き残る可能性を上げられるものだ」


「防弾チョッキとか?」


「ああ、ついでに軍用ヘルメットも欲しい。あとは夜に使える装備なんかが残ってればありがたいな」


 朝霧は小さく笑った。


「あなたにもちゃんと弱点があったのね」


「だから安全な拠点と防具を探してるんだろ」


「でも、自衛隊の施設なら銃もあるんじゃない?」


「期待はしてない。ほとんど持ち出されてるはずだ。残っていたとしても、簡単に取れる状態にはしてないだろ」


 撤退するなら、一般人の手に渡れば危険なものほど優先して運び出すはずだ。


 蓮自身、ここで銃器が手に入るとは最初から期待していなかった。


「もう少し詳しく見るか」


 蓮は《パンドラ》から小型のドローンとモニターを取り出した。


「……ドローン? こんなものまで持ってたの?」


「当たり前だろ。空から情報収集はそれこそ軍でもやっているぞ」


「本当に用意周到なのね……」


「軍の施設に知らない連中が入り込んでるんだ。人数と装備くらいは確認してから近づいた方がいい」


 朝霧はドローンを見ながら、分屯地までの距離を確認する。


「でも、この距離から飛ばせるの?」


「ああ。こいつは特注品だ」


 蓮が車の窓を開け、ドローンを外へ出す。


 小さな機体はすぐに高度を上げ、分屯地へ向かって飛んでいった。


 蓮の手元にあるモニターには、ドローンから送られてくる映像が映し出されている。


 朝霧も助手席から身を寄せるようにして画面を覗き込んだ。


 上空から見ると、施設全体の様子が先ほどよりはっきりと分かった。


 入口付近に集まっているのは十数人ほど。


 しかも、見える範囲では全員が若い。


 男の方が多いが、女も何人か混じっている。施設全体に散らばっているわけではなく、ほとんどが入口付近の一か所に集まっていた。


「思ったより少ないわね」


「見える範囲ではな。建物の中にもいるかもしれない」


 蓮はドローンを移動させ、別の建物や駐車場、その裏側まで確認していく。


 だが、新しい人影はなにも見つからなかった。


 その途中で、蓮の指が止まる。


 画面に映っている男の一人が、私服の上から明らかに周囲とは違うものを身につけていた。


 さらに別の男はヘルメットを被っている。


 蓮は画面を拡大した。


「……あたりだな」


「え?」


「あいつらの装備だ」


 朝霧も画面へ目を凝らす。


「自衛隊のもの?」


「多分な。少なくとも俺が欲しかった類のものは残ってる」


「じゃあ、これからどうするの?」


 蓮はドローンを旋回させ、こちらへ戻し始めた。


「まずは取引だな」


「……取引?」


「あいつらが敵だと決まったわけじゃない。欲しいものを交換してくれるなら、それでいい」


 戻ってきたドローンを回収して《パンドラ》へ収納すると、蓮は再び車を発進させた。


 先ほどまで遠くに見えていた分屯地が徐々に近づき、やがて入口付近に集まっていた若者たちも、こちらの車に気づいた。


 何人かが立ち上がり、こちらを指差している。


 蓮は速度を落としながら、そのまま入口付近まで車を進めた。


 数人の男がこちらへ歩いてくる。


 手には鉄パイプや、大型の工具らしきものが握られていた。


 武器として使うつもりなのだろう。


 だが、ドローンで確認した時と同じく、銃器らしいものを持っている者はいない。


「おい! 止まれ!」


 先頭を歩いていた若い男が大声を上げた。


 蓮は少し手前で車を止める。


「何もんだ! 何しに来た!」


 蓮は窓を少しだけ開けた。


「たまたま通りかかってな。何か物資がないかと思って立ち寄ったんだ」


 男は蓮を見たあと、助手席の朝霧へ視線を移す。


「お前ら二人だけか?」


「ああ、そうだ」


「なら残念だったな。ここには大したもんはもうねえよ。残ってるもんは俺らが全部確保した。よそを当たりな!」


「何がある?」


「あぁ?」


「お前らと取引したい」


 男は一瞬きょとんとしたあと、鼻で笑った。


「取引だぁ? 言っとくけど、銃とか探してるならねえぞ。俺らも欲しいくらいだからな」


「お前らが着けてるような防具でいいぞ」


「あ? こんなもんでいいのか?」


 男は自分たちの後ろを振り返った。


「なら、まだ結構あるぞ。で、お前は何を出せるんだよ?」


「食料ならまだ少しある。どうだ?」


「食料か……まあ、それでもいいけどよ。こっちの言い値になるぞ。俺らも食いもんはまだ結構あるからな」


 その答えに蓮がわずかに眉を動かした。


「食料には困ってないのか? それもこの基地にあったのか?」


「いや、ここの開けられる倉庫にはもう何もなかったぞ。建物ん中の部屋とか、寮みてえなところに残ってたもんくらいだ。あとは別のところから持ってきた」


 蓮はその言葉を頭の中に留めた。


 開けられる倉庫には何もなかった。


 ならば、自衛隊が撤収する際に必要な物資を持ち出した可能性は高い。


 少なくとも目の前の若者たちは、この施設で大量の食料を手に入れたわけではないらしい。


「なら酒はどうだ?」


「……あ?」


 それまで面倒そうに話していた男の表情が変わった。


「おい、酒まで持ってんのかよ!」


「ああ。少しだけどな。どうだ?」


「酒なら話は別だな」


 男の後ろにいた若者たちも反応した。


「マジかよ!」


「何の酒?」


「ビールとかあんの?」


 急に騒がしくなった彼らを見ながら、蓮は続ける。


「それなら何と交換できる?」


「何が欲しいんだ?」


「防弾チョッキにヘルメット。あとは暗視装置みたいなものがあれば、それも欲しい。交換できるものは一通り持ってきてくれ」


「お前、そんなに酒あんのかよ?」


 蓮は答える代わりに、右手を後部座席へ伸ばした。


 もちろん、そこに酒など置いていない。


 車内から取り出したように見せながら《パンドラ》から数本の酒瓶を出し、そのままついでにタバコを二カートン取り出す。


「酒なら数本ある。タバコも少しあるぞ」


「おいおい、マジかよ……タバコまであんのか」


 男の表情が明らかに変わり、後ろにいた仲間たちからも歓声が上がる。


「分かった。ここで待ってろ。持ってきてやる」


 男たちは何かを話しながら施設の奥へ戻っていった。


 そして、蓮は車の窓を閉め、助手席にいた朝霧が、彼らの後ろ姿を見送った。


「……意外と普通に取引できたわね」


「まだ終わってない」


「警戒してるの?」


「当たり前だ。知らない相手だからな」


 それ以上、蓮は何も言わず、しばらく待っていると、施設の奥から再び人影が現れた。


 先ほど話していた男が先頭を歩き、その後ろでは二人の若者が大きなケースを運んでいる。


 さらに、その後ろにも人がいた。


 先ほど入口付近に集まっていた若者たち全員が、こちらへ向かって歩いてくる。


 朝霧もそれに気づいたらしく、わずかに表情を変えた。


「……ずいぶん来たわね」


「ああ」


 蓮はそれだけ答え、近づいてくる彼らを見ていた。


 やがて先頭の男が車の前まで来ると、後ろを振り返った。


「おい、持ってきたぞ!」


 二人の男が運んでいたケースを地面へ下ろす。


「お前もブツ持って車から降りろ」


 蓮は男を数秒見たあと、後部座席へ手を伸ばし、先ほど見せた酒とタバコは、すでにバッグへ入れてあった。


 蓮はそのバッグを手にすると、朝霧には何も言わず車から降りた。


「それをこっちに置け。中身も見せろ」


 男が足元から少し離れた場所を指差し、蓮は言われた通りそこまで歩いてバッグを地面へ置いた。


 チャックを開く。


 中に入っている酒瓶とタバコが見えた瞬間、後ろに集まっていた若者たちから歓声が上がった。


「うおっ、マジじゃん!」


「タバコあるぞ!」


「酒も結構あるじゃん!」


 蓮は騒いでいる彼らには目を向けず、先頭の男だけを見る。


「これでいいか?」


「ああ、上等だ」


「なら、そっちのも車に積んでいいんだな?」


 その言葉を聞いた男が、笑った。


「何言ってんだ?」


 蓮の表情は変わらない。


 男は地面に置かれたバッグを足元へ引き寄せると、今度は蓮たちが乗ってきた車へ目を向けた。


「あと、その車も置いてけ」


 蓮は男を見たまま、何も答えなかった。


「聞こえなかったのか? その女連れて消えろ。酒とタバコ持ってきた礼だ。お前ら二人は見逃してやるよ」


 その言葉を聞いて、車内に残っていた朝霧の表情がわずかに変わった。


「……取引すると言っただろ」


「あぁ?」


 男は一瞬ぽかんとしたあと、大声で笑い始めた。


「ちゃんと約束通り持ってきてやったじゃねえか! ぎゃははは!」


 その笑い声につられるように、後ろにいた若者たちも一斉に笑い始める。


「こいつ、まだ取引とか言ってるぞ!」


「状況分かってねえのかよ!」


 蓮は無表情のまま、怒鳴りもせず、ただ、目の前にいる男たちを静かに見ていた。


「……お前らはこれで全員か?」


「あぁ? そうだけど、それがどうし――」


 蓮は、それ以上聞かなかった。


 そのまま右手を上げ、目の前の若者たちへ向ける。


「俺は本当に、取引でもよかったんだがな」


 一瞬だけ間を置いた。


「残念だ」


 轟音が響いた次の瞬間、分屯地の入口付近を凄まじい量の雪と氷が埋め尽くした。


 つい先ほどまでそこに立ち、蓮を嘲笑っていた若者たちの姿は、もう一人たりとも見えない。


 最後の悲鳴さえ、何も聞こえなかった。

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― 新着の感想 ―
命をうしなったな!
 この環境下だと智能の浅さより体力ある方が生き残れる可能性が若干高いでしょうから、こんな連中が多いでしょうね。  これで全滅してくれていれば手間がかからず良いのですが。
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