第5話 英雄
引き金を引いた瞬間、黒崎恒一の肩にこれまで訓練で感じたものとはまるで違う衝撃が走った。
乾いた銃声が響き、こちらへ駆けてきていた男の頭が大きく揺れる。振り上げられていた鉄パイプが手から離れ、男の身体は勢いを失ったまま雪の上へ崩れ落ちた。
「…………」
黒崎は銃を構えた姿勢のまま動けなかった。
男はもう動かない。雪の上へ倒れた頭の周囲から赤いものが広がり、それまで真っ白だった地面をゆっくりと染めていく。
撃った。
自分が、人を撃った。
訓練では何度も引いたはずの引き金だった。標的へ照準を合わせ、呼吸を整え、教えられた通りに撃つ。その動作自体は身体に叩き込まれていたはずなのに、今までとは何もかもが違った。
標的ではない。
今、自分が撃ったのは人間だった。
「黒崎!」
「……っ」
すぐ近くから飛んできた声で、黒崎の意識が現実へ引き戻される。
先ほどまで肩を貸していた負傷兵が、雪の上に片膝をついたままこちらを見ている。脚からは血が流れ続けていたが、それでも男は自分の傷より周囲の状況を気にしていた。
「俺はいい! 向こうに手を貸せ!」
「でも、その脚……」
「死にゃしねえ! それより見ろ! 数はこっちの方がはるかに少ねえんだ!」
怒鳴られ、黒崎は反射的に周囲へ目を向けた。
戦いはまだ終わっていなかった。
あちこちで怒号が飛び交い、軍人と襲撃者が入り乱れている。逃げ遅れた住民を誘導する者もいれば、負傷して雪の上に倒れている者もいる。銃声は先ほどより減っていたが、それでも完全には止んでおらず、何かがぶつかる鈍い音や悲鳴が絶えず耳へ飛び込んできた。
自分一人だけが立ち止まっている場合ではない。
「……はい!」
黒崎は倒れた男から視線を引き剥がすと、すぐさま走り出した。
どこへ向かえばいいのか、一瞬迷った。だが、少し離れた場所で倒れている一人の隊員が目に入り、その周囲を三人の男が取り囲んでいることに気づく。
一人は鉄パイプを持ち、もう一人は大きなレンチのような工具を握っている。最後の一人も何かを手にしていたが、遠目ではよく分からない。
「危ない!」
黒崎は叫びながら走った。
しかし、まだ距離がある。
三人のうち一人が、倒れている隊員へ向かって鉄パイプを振り上げる。その光景を見た瞬間、黒崎の中から戦場の音が消えた。
代わりに、別の光景が脳裏へ蘇る。
あのマンションだった。
外から来た者たちとの争い。怒号と悲鳴が飛び交う中、一人の住民が襲撃者に捕まり、目の前で頭を殴られた。鈍い音がして、その身体が崩れ落ちた。
助けられなかった。
次に浮かんだのは、保護地域を出た後の記憶だった。
自分と一緒に休憩していた四人。
食料を分け、寒さを凌ぎながら、ほんのわずかな時間を共に過ごした人たちだった。
その一人が、複数の男たちに囲まれて殴られた。
何度も何度も。動かなくなっても、殴られ続けた。
そして二人目、三人目、最後には、あの女性まで――。
結局、黒崎は何もできなかった。
自分自身も頭を殴られ、意識を失い、目を覚ました時にはすべてが終わっていた。
誰一人として助けられなかった。
そして今、記憶の中で倒れていった彼らの姿に、目の前で雪の上に倒れている隊員の姿が重なった。
違う、まだこの人は生きている。
そう思った瞬間、遠ざかっていた怒号と銃声が一気に耳へ戻ってきた。視界の中では、鉄パイプを握った男がすでに腕を振り上げているところだった。
◇
「――以上が、現在までに上がっている報告です。総理」
岩森副司令が資料を閉じると、部屋の中に短い沈黙が落ちた。
国家非常時継続施設第七号、地下深くに設けられた会議室の壁際には複数のモニターが並び、その一つに現在の日本列島を示す気象データが表示されていた。
机の向こうに座っていた総理は、しばらく資料へ視線を落としたまま何も言わなかった。
「……つまり、まだ何も分からないのね」
「はい、特定できていません」
「予兆も?」
「既存の観測記録から、今回の現象へ直接つながるものは発見されていません」
総理は小さく息を吐いた。
「それ、前に聞いた報告とほとんど変わってないじゃない」
「はい、その通りです」
岩森は否定しなかった。
「気象学だけではなく、海洋、大気、地質、太陽活動を含め、考えられる限りの分野から検証を続けています。しかし現時点でも、今回の現象を一つの自然現象として説明できるモデルは構築できていません」
「これだけ世界中の専門家が調べてるのに?」
「だからこそ問題なんです」
岩森の返答に、総理が顔を上げる。
「どういう意味?」
「今回の寒波は、通常の気象現象として考えると、どうしても説明できない部分が残ります。大気の流れや海水温、緯度や地形など、本来なら地域ごとに異なる条件があるにもかかわらず、それらを無視するように広範囲で急激な気温低下と降雪が発生している。観測された現象と、従来の気象モデルが噛み合わないんです」
「……じゃあ、一体この世界で何が起きてるの?」
岩森はすぐには答えなかった。
軍人として報告するには、あまりにも馬鹿げた言葉だった。
それでも、今はその馬鹿げた言葉以上に現状を表せるものがない。
「極端な言い方になりますが……自然現象を無視して、何かが無理やり地球全体に雪を降らせた。現状では、そう表現した方が近いほどです」
総理の眉がわずかに動いた。
「あなた、自分が何を言ってるのか分かってる?」
「自覚しています」
岩森は表情を変えなかった。
「その上で、今ここで報告しています。各分野の専門家も、従来の科学だけではこれ以上どこから手をつければいいのか分からない状態です」
「……お手上げってこと?」
「少なくとも、これまでと同じ方向から調べ続けるだけでは、同じ場所を回り続ける可能性があります」
総理は椅子へ深く身体を預け、しばらく天井を見上げた。
世界を壊すほどの災害について、《第七方面統合運用群》の副司令を務める岩森陸将補から出てきた言葉が、「科学では説明できない」では困る。
だが、それを責めたところで答えが出てくるわけでもない。
「それなら、一体どうするつもりだと言うの?」
「そこで、これまでとは別の方面からも調査を進めることになりました」
「別の方面?」
「既存の科学分野だけではなく、異常事象の記録や、各地域に残されている伝承、神話、宗教的記録なども含めて調査します。過去に類似する現象が記録されていないか、分野を限定せず洗い直す予定です」
「……ちょっと待って」
総理が何かに気づいたように眉を寄せた。
「それってまさか……」
「すでに特異事象調査室に調査協力を要請しています」
「……あったわね。過去に散々税金の無駄遣いだって叩かれてた部署が」
「彼らがこれまで収集してきた資料も、今の状況では無視できません」
「まさか本当に、あそこを頼る日が来るとはね……」
岩森は何も答えなかった。
「まあいいわ。今は使えるものは何でも使いなさい。神話だろうが昔話だろうが、今はどんなものでもいいから手掛かりが欲しい」
「はい、その予定です」
岩森が頷き、そこで話が一段落したところで、総理は手元の資料を閉じた。
「あ、そうだ」
「はい?」
「あなたが気にかけてた、あの子はどうしてるの?」
一瞬、岩森が何の話か分からないような顔をした。
「ああ、黒崎のことですか?」
「そう。あなたの弟に似てると言ってた黒崎君。もう訓練も終わったんでしょう?」
「はい。今日、ちょうど初めての現地任務に出ています」
「そう。ちゃんとついていけそう?」
「ええ……」
岩森の返事がわずかに遅れたのを総理は見逃さなかった。
「何よ。歯切れが悪いわね」
「いえ、訓練を始めた当初から、同年代の平均と比べても身体能力は高い方でした」
「あら、すごいじゃない」
「ええ。ただ、その後が少し気になることがありまして……」
「気になる?」
「後から提出された記録を見て気づいたのですが、数値が日に日に向上していたんです。それも、通常の訓練による成長としては少し不自然なほどに」
総理の表情から、先ほどまでの軽さが少し消えた。
「怪我が治って回復したからじゃなくて?」
「それももちろん考えました。ですが、そういうレベルではありません。走力、筋力、持久力、反応速度。測定できる複数の項目が、ほぼ同時に上昇しています」
「……どれくらい?」
「例えるなら、中学生が訓練を始めたと思ったら、短期間で高校生と同じ速度で走るようになった。そんな成長の仕方です」
「少し大袈裟じゃない? その成長ってまだ続いてるの?」
「訓練後は今の部隊に配属されたため、以前の定期測定はもう行っていません。ただ、配属先の班長にだけ事情を伝え、任務中の行動と身体能力について観察、記録するよう指示しています」
「そう……」
総理は少し考えるように指先で机を叩いた。
「いい子なんでしょう?」
「はい、正義感が非常に強く、人格については私が保証します」
そこだけは岩森の返事に迷いがなかった。
「じゃあ、もしその子がこのまま成長して……あなたの例えで言えば、中学生が高校生どころか、オリンピック選手みたいな身体能力を身につけたら?」
岩森は数秒だけ考えた。
「もし、その例えを黒崎に置き換えるなら……」
――化け物です。
◇
間に合わないと頭では理解していた。
この距離では、今からどれだけ必死に走ったところで、あの鉄パイプが振り下ろされる方が早い。
それでも黒崎は走った。
もう、目の前で誰かが死ぬところを見たくなかった。
(もう嫌だ……)
マンションで死んだ人間の顔が浮かぶ。
(もう――)
一緒にいた四人の姿が浮かぶ。
(……誰も死なせたくない!)
強く雪を蹴ったその瞬間だった。
「――っ!?」
黒崎自身も、自分の身体に何が起きたのか理解できなかった。
一歩踏み込んだだけのはずなのに、景色がそれまでとはまるで違う速度で後方へ流れていく。身体が軽いという感覚とも違う。足が雪を蹴るたびに、これまで経験したことのないほどの力が地面へ伝わり、その反動で身体そのものが前へ弾き出されていた。
遠かったはずの三人の姿が、信じられない速度で大きくなる。
「うおおおおっ!」
黒崎は鉄パイプを振り上げていた男へ、そのまま身体ごとぶつけた。
「ぐっ――!」
止めるつもりだった。
倒れている隊員との間に入り、男を押し退ける。それだけのつもりだった。
だが、肩から伝わってきた衝撃は黒崎が想像していたものとは違った。
男の身体が地面から離れた。
「え――」
声を上げたのが黒崎だったのか、それとも周囲の誰かだったのかも分からない。
ぶつかった男はその場で転ぶのではなく、身体ごと後方へ弾き飛ばされ、そのまま数メートル先の雪の上へ激しく転がった。
黒崎自身も勢いを止めきれず、数歩前へ進む。咄嗟に足を踏ん張って身体を止めたところへ、二人目の男が大きなレンチを振りかぶった。
「この野郎!」
考えるより先に身体が動いた。
踏ん張った足を軸に身体を反転させ、その勢いのまま拳を男の腹へ叩き込む。訓練で何度も繰り返した、ごく基本的な動きだった。
しかし、その結果だけが基本から大きく外れていた。
「がっ――」
拳が腹部へ食い込んだ瞬間、男の身体がくの字に折れた――だけでなく、両足が雪から浮いた。
男は呻きながら一歩下がることさえできず、そのまま身体ごと後方へ飛ばされて背中から雪の上へ落ちた。
「……っ!」
残った一人が目を大きく見開く。
黒崎も何が起きているのか理解できていなかったが、立ち止まることだけはしなかった。
最後の男が手にしていた棒状の工具を振り上げようとした瞬間、黒崎は正面から踏み込み、訓練で教わった通りに身体を安定させると、相手の胸元へ向かって前蹴りを放った。
足の裏が男の胸へ触れた瞬間、何か硬いものが砕けるような感触が返ってきた。
「ぐはっ……!」
男の身体が後ろへ吹き飛び、雪の上へ叩きつけられる。
普段なら、その感触に黒崎も動きを止めていただろう。
だが今は、それどころではなかった。
「大丈夫ですか!?」
黒崎はすぐに倒れていた隊員のそばへ膝をついた。
「しっかりしてください! どこをやられました!?」
「あ、ああ……」
隊員は身体を起こそうとしながら、黒崎ではなく、その向こう側を見ていた。
数メートル離れたところに一人。
さらにその向こうに一人。
そしてもう一人。
ほんのわずかな時間で、三人とも地面に倒れている。
「俺は大丈夫だ。それより……お前……」
「はい?」
「すげえな……」
「え?……何がですか?」
黒崎は本気で分からないという顔をしていた。
隊員はそんな黒崎を見上げ、それからもう一度、倒れている三人へ視線を向ける。
「何がって……今の、どうやった?」
「どうやったって……普通に……」
「普通じゃねえだろ。なんていうか……映画みたいな動きだったぞ。お前、さっきあそこにいたよな?」
「何言ってるんですか。冗談言ってる場合じゃないですよ」
「え、ああ……そうだな」
隊員自身、自分でも何を言っているのか分からなくなったのか、頭を振った。
「何言ってんだ、俺……」
その時、少し離れた場所から大きな声が上がった。
「こっちは制圧した!」
「負傷者を運べ! まだ動ける奴は周囲を確認しろ!」
「医療班! こっちにも一人いる!」
それまで断続的に響いていた銃声も、いつの間にか止まっていた。
まだあちこちで怒鳴り声や負傷者の呻き声は聞こえるものの、襲撃者たちが新たに向かってくる気配はない。武器を捨てて雪の上に伏せている者もいれば、すでに拘束されている者もいる。
戦いは、ようやく終わった。
それを見て黒崎は大きく息を吐いた。
その時になって初めて、自分の手が少し震えていることに気づいた。
先ほど撃った男の姿が頭をよぎる。
自分が人を撃った。
人一人を撃ち殺し、その直後に三人の人間を戦闘不能にした。
だが、黒崎はまだ知らなかった。
この日、自分の身体に起きた異変が、ただの興奮や偶然などではなかったことを。
一方、戦いが終わった現場では、負傷者の救護が続いていた。
黒崎も休む暇はなく、倒れている者を探しては安全な場所まで運び続けている。軍人も民間人も関係なかった。助けを必要としている人間を見つければ駆け寄り、肩を貸し、必要なら抱えるようにして運んだ。
今は不思議なほどに身体は疲れていなかった。
それどころか、先ほどまで戦っていたとは思えないほど身体が軽い。
「黒崎!」
「はい!」
「こっち手伝え! 一人じゃ持ち上がらん!」
「分かりました!」
呼ばれた黒崎はすぐに駆け寄り、倒れていた巨漢の身体へ手を回した。
「せーので行くぞ。せーの――」
相手が力を入れようとした時には、黒崎はすでに男の上半身を持ち上げていた。
「……おい」
「え? どうしました?」
「いや……なんでもねえ」
黒崎は首を傾げたが、すぐに負傷者へ意識を戻した。
少し離れた場所では、あの班長がその様子をじっと見ていた。
◇
「……化け物ってあなた、物騒ね」
総理が苦笑する。
「いえ。以前なら、ただ正義感だけが強すぎて、甘い――そう評価していました」
「じゃあ、今は?」
「もし、その正義感に化け物じみた力まで加わったなら――」
「……なら?」
岩森はわずかに口元を緩めた。
「英雄ですよ」
◇
朝霧はリビングの大きな窓の前に立ち、ガラス越しに外を眺めていた。
マンションにいた頃、そこから見えていたのは雪に埋もれた街だったのに、今の窓の向こうにあるのは、雪を被った木々が広がっている。
「……今、私たち森の中にいるのよね」
「ああ、歩いてきたろ」
ソファに座っていた蓮が答える。
「……ある意味キャンプね」
「確かにな」
住んでいた部屋そのものを森の中へ持ってきている時点で、一般的なキャンプとはかなり違う気もする。それでも、街を離れ、木々に囲まれた場所で一晩を過ごすという意味では間違ってはいない。
そこで朝霧は、ふと何かに気づいたように窓から蓮へ視線を移した。
「ねえ……蓮」
「なんだ?」
「ものすごく大事なことに気づいたんだけど」
「何だ?」
「トイレよ。水はタンクがあるからいいとしても、流した後はどこに行くの?」
「ああ、それか」
何を言い出すのかと思った蓮は、ようやく朝霧が気にしていることを理解した。
「もともと災害時に下水が使えなくなった場合を想定して、生活排水を一時的に溜めるタンクを作ってある。トイレだけじゃなく、風呂やキッチンの排水もそっちに切り替えられる」
「そんなものまで作ってたの?」
「長期間籠城するつもりだったからな。水だけあっても、排水できなきゃ生活できないだろ」
「それはそうだけど……じゃあ、そのタンクがいっぱいになったら?」
「俺が収納する」
「…………」
朝霧はしばらく蓮を見つめた。
「……あなた、本当に何でも収納するのね」
「必要ならな」
「それ、《パンドラ》の中にずっと残るの?」
「…………」
「……蓮?」
「考えないことにしてる」
「そう……私もそうするわ」
朝霧は再び窓の外へ視線を戻した。そして雪に覆われた森をしばらく眺めているうちに、今度は別のことを思いついたように振り返る。
「そうだ、キャンプといえば料理よね!」
「……おい」
「せっかくだし、今日は私が作ってあげるわ」
蓮の表情がわずかに固まった。
「蓮?」
「……なんだ?」
「今、ものすごく失礼なこと考えてない?」
「いや、別に……」
「嘘。今、一瞬だけ空気が変わったもの」
「気のせいだ」
「大丈夫よ。今日はお手軽料理にするから。失敗するようなものじゃないわ」
その言葉を聞いても、蓮の警戒は解けなかった。
「……何を作る気だ?」
「内緒」
「余計に不安なんだが」
「失礼ね。でもまあ、キャンプといえばあれでしょ?」
朝霧は少し嬉しそうにそう言うと、キッチンへ向かっていった。
その背中を見送りながら、蓮の脳裏には、これまで朝霧が作り出した料理の数々が否応なく蘇ってくる。
最初に作ったものは、スクランブルエッグのようなものと、やけに黒く焼けたウインナーだった。
あれも十分すぎるほどお手軽料理だったはずなのだが、一口食べてみれば卵は異様なほど甘く、そこへなぜか大量のケチャップまで添えられていた。焦げたウインナーの苦味まで加わり、口の中では甘味と酸味と苦味が互いに主張し合い、もはや何を食べているのか分からない味になっていた。
次に作ったものは、なぜか正反対だった。味がしない。調味料を入れ忘れたというだけならまだ理解できるのだが、肉や野菜が本来持っているはずの味まで、どこかへ消えてしまったかのようだった。
三度目はさらに酷かった。
本人は炒め物だと言い張っていたが、皿に載っていたものは肉も野菜も等しく茶色に染まり、何が何なのか見た目では判別できなかった。蓮はあの時初めて、料理というものは火を通せば安全になるとは限らないことを知った。
あれらを思い出せば、今日の夕食に不安を覚えるのは当然だった。
とはいえ、今回は朝霧自身がキャンプの「お手軽料理」と言っている。
(……カレーか)
それなら、さすがに大丈夫だろう。
肉と野菜を切って炒め、水を入れて煮込み、最後にルーを入れるだけ。さすがの朝霧でも、それくらいなら大きな失敗をする方が難しいはずだ。
キッチンからは、包丁がまな板へ当たる音が聞こえてくる。時折その間隔が妙に不規則なのが少し気になったが、蓮はあえてそちらを見ないことにした。
料理が完成するまでには、まだ時間がかかるだろう。
それなら、その間にやっておくことがある。蓮は朝霧に一声かけて2501の外へ出ると、周囲の様子を確認しながら建物から少し距離を取った。
雪に覆われた森の中では、むき出しの鋼鉄でできた二階建ての要塞はあまりにも目立つ。街から離れた場所を選んだとはいえ、誰もここへ来ない保証などないし、遠くから偶然発見される可能性もゼロではない。
蓮は《パンドラ》から必要なだけ雪を取り出し、2501の外壁や屋根、それに建物の周囲へ少しずつ被せていった。完全に埋めてしまうのではなく、遠目には周囲の積雪や雪の塊と区別しにくくなる程度に形を崩し、金属の外壁がなるべく露出しないよう調整していく。
これで絶対に見つからないわけではない。それでも、何もしないよりはいい。
蓮は生き延びることに関してだけは、どんな小さな可能性も軽く考えるつもりはなかった。わずかでも発見される確率を下げられるのなら、そのための手間を惜しむ理由はない。
最後に少し離れた場所から全体を確認し、周囲の雪景色にある程度紛れたことを確かめてから、蓮は2501へ戻った。
扉を閉めてリビングへ入ったところで、キッチンの方から煮込み料理らしい匂いが漂ってくる。
「……?」
蓮は足を止め、わずかに眉を寄せた。
カレーの匂い……ではない。
少なくとも、蓮がこれまで食べてきたどのカレーとも違っていた。
香辛料の匂いとは違う、甘さとも酸味ともつかない何かが鼻に届き、その奥から別の調味料らしき匂いまで追いかけてくる。
(……俺が知ってるカレーの匂いじゃない)
嫌な予感がした。
だが、ここまで来た以上、もう今更料理は止められない。
それからしばらくして、キッチンから朝霧の明るい声が聞こえてきた。
「ジャジャーン! できたわよ。どう? 蓮!」
朝霧が上機嫌で二人分の皿を運んでくる。
蓮はテーブルへ置かれた料理を見た。
とろみのある茶色いルー。その中には、じゃがいも、人参、玉ねぎ、それに肉がごろごろと入っている。切り方はかなり豪快で、大きさも形もまるで揃っていないが、それもアウトドア料理ならではということなのだろう。
しかし、 見た目はどう見てもカレーだったにもかかわらず匂いだけは気になる。
「お、おぉ……やっぱりカレーだったか」
「……シチューよ」
「…………」
蓮は目の前の皿に盛られた茶色い料理をしばらく見つめたあと、確認するように朝霧へ視線を戻した。
「……え?」
「だから、シチューよ!」
「……これが?」
「何よ、その顔……」
朝霧が不満そうに眉を寄せる。
「いや……シチューって、こんな色だったか?」
「途中まではもっと白かったわよ」
「途中までは?」
蓮はその言葉を聞き逃さなかった。
「……何を入れた?」
「普通の材料よ。鶏肉とじゃがいも、人参、玉ねぎ。それから牛乳でしょう?」
「そこまでは普通だな」
「失礼ねえ。でも味見したら少し物足りなかったから、ちょっとだけ隠し味を足したの」
「……何を?」
「まずお味噌」
「おい」
「まだあるわよ」
「…………」
「コクが足りなかったからお醤油を少しとケチャップも入れたわ」
蓮は再び皿へ視線を落とした。
先ほどから鼻を刺激していた正体不明の匂いが、少しずつ理解できてきた。
「……それでこの色になったのか」
「そうね。でも全部隠し味だから大丈夫よ」
「いや……隠れてないだろ」
「でも味は大丈夫よ? ほら、一口食べてみて」
「いや、俺は――」
「いいから」
朝霧は蓮が断るより先に、スプーンで茶色いシチューを一口分すくうと、そのまま有無を言わせないように差し出した。
蓮は差し出されたスプーンと朝霧を交互に見たが、どうやら逃げられそうにない。覚悟を決めてスプーンを受け取ると、朝霧が期待に満ちた目で見守る中、ゆっくりと自分の口へ運んだ。
味噌が来た。
その直後に牛乳が来た。
醤油が追いかけてきたと思ったら、最後にケチャップの酸味がすべてを押し流した。
それぞれ単体なら決して不味いものではないはずなのに、一つの皿の中で出会った結果、誰も譲ろうとしていない。
「どう?」
「…………」
「ちょっと。なんで黙るのよ」
蓮は答えなかった。
代わりに右手を皿へ向ける。
次の瞬間、目の前に置かれていた茶色いシチューが皿ごと消えた。
「ちょっと! どういう意味よそれ!」
「いや、俺は……」
「何よ!」
蓮は少し考え、そして、ようやく答えを見つけた。
「……キャンプはカレー派だ」
「え?」
蓮は《パンドラ》へ手を伸ばし、以前レストランの出前をまとめて収納していたカレーを取り出した。
まだ熱を保ったカレーから湯気が立ち上り、今度こそ蓮の知っている香辛料の匂いがリビングへ広がる。
「もう、そうなら先に言ってよ!」
「……あぁ」
「私はシチュー派だけど、カレーも好きなのに」
「なら、お前も食うか?」
「んー、同じものがいいね。なら私もいただくわ」
即答だった。
蓮はもう一皿取り出そうとして、朝霧の前に残されている皿へ目を向けた。
そこには、先ほどと同じ茶色いシチューがたっぷり残っている。
「じゃあ、これは?」
「…………」
朝霧も自分の作った料理を見る。
数秒の沈黙。
「……いつかのために取っておきましょ」
「……何のために?」
「いつか食べるためよ」
「……そうだな」
蓮はテーブルへ残されていた皿へ右手を向ける。
次の瞬間、いつ、どこで、何の役に立つのかまるで分からないカレーもどきのシチューは、《パンドラ》の中へと消えていった。
そして蓮は何事もなかったように、本物のカレーを朝霧の前へ置く。
「ありがとう。やっぱりキャンプはこういうのがいいわね」
「ああ、そうだな」
嬉しそうにカレーを食べ始めた朝霧を横目に、蓮は先ほど収納したばかりの謎の料理を思い浮かべた。
(……あんなもん食えたら、英雄だな)




