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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第二章

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第4話 野宿

 それから二人は再び車を走らせ、分屯地を目指して北へ進んだ。


 市街地を離れるにつれて周囲の建物は少なくなり、道路の両側には雪に覆われた田畑や林が目立つようになっていた。途中、放置された車両や倒木を避けるために何度か速度を落としたものの、それ以上大きな問題が起きることはなく、気づけば空は夕暮れの色へと変わり始めている。


 春前の日暮れは早い。


 ただでさえ道路の状態が悪いうえ、この先に何があるのかも分からない。完全に暗くなってから無理に移動を続けるより、まだ周囲を確認できるうちに休む場所を確保した方が無難だった。


「今日は野宿だな」


「そうね。もう暗くなってきたし、ここで車の中に泊まるの?」


「いや。今はいつ車が通るか分からない。道路の近くは避けた方がいい」


「じゃあ、どうするつもり?」


「少し目立たない場所へ移動する」


 蓮は速度を落としながら周囲を確認し、しばらく進んだところで道路脇から林の中へ続いている細い道を見つけた。


 かつては農作業か林業にでも使われていた道なのだろう。雪に覆われているため、もう車では入れなくなっていたが、人が歩くには十分な幅がある。


 蓮は周囲に人影がないことを確認して車を止めると、朝霧とともに外へ降りた。


「ここからは歩くぞ」


「ええ、分かったわ」


 朝霧がリュックを背負い直している間に、蓮は二人が乗ってきた車へ手を触れる。その姿が一瞬で消えて《パンドラ》へ収まるのを確認すると、二人は雪に覆われた細い道を歩き始めた。


 道路から離れるにつれて、周囲は急速に静かになっていった。


 聞こえるのは雪を踏みしめる二人の足音と、ときおり木々の間を抜けていく風の音くらいだ。葉を落とした木々の向こうにはまだわずかに夕暮れの光が残っているものの、この明るさも長くは続かないだろう。


 それからしばらく歩いたところで、林の中にぽっかりと開けた場所が現れた。


 周囲を木々に囲まれているため道路側からはほとんど見えず、中央にはまとまった広さの平地がある。雪はかなり積もっているが、それさえ取り除けば十分に使えそうだった。


 蓮は周囲を一通り確認してから足を止めた。


「まあ、ここならいけるか」


 朝霧も立ち止まり、何もない雪原のような場所を見回す。


「テントかなんかも事前に収納してるの?」


「まあ、似たようなものだ」


「似たようなもの……?」


「少し離れてろ」


 朝霧が言われた通りに後ろへ下がると、蓮はまず目の前に積もっていた雪を《パンドラ》へ収納した。


 大量の雪が一瞬にして消え、それまで白一色だった場所に地面が露出する。蓮は十分な広さを確保すると、地面の状態を確認しながら位置を決め、何もない空間へ右手を向けた。


 次の瞬間――。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ――。


「…………え?」


 重いものが地面へ据えられるような低い音とともに、何もなかったはずの空間へ巨大な建物が姿を現した。


 高さは二階建ての建物ほどもある。


 外から見えるのは、ほとんどが剥き出しの金属だった。分厚い鋼板で覆われた巨大な箱の上に、さらに一回り小さな金属製の構造物が載っている。窓もほとんどなく、マンションの一室だった面影など外側からはまるで感じられない。


 住宅というより、二つの巨大な鋼鉄の箱を上下に重ねたような姿だった。飾り気のない金属の壁が夕暮れのわずかな光を鈍く反射し、林の中に突然現れたそれは、小さな建物というより、そのまま地面へ据え付けられた巨大な金属製の要塞に見える。


 朝霧はしばらく言葉を失ったまま、その異様な二階建ての構造物を見上げていた。


「……こんなものも事前に用意してたの?」


「中に入れば分かる」


「中に?」


「ああ。行くぞ」


 蓮はそれ以上説明せず、巨大な建物へ向かって歩き始めたため、朝霧もそのあとを追い、二人で剥き出しの金属壁に沿って正面へ回る。


 そして、入口らしき場所まで来たところで、朝霧の足がわずかに止まった。


「…………」


 分厚い金属の壁には、その外観に負けないほど重厚な扉が取り付けられていた。家庭用どころか、銀行の金庫にでも使われていそうな巨大な金属扉。取っ手の形も、その異様な厚みも、朝霧には見覚えがあった。


「……ちょっと待って」


 朝霧の中に、嫌な予感が浮かぶ。


 もう一度、目の前の扉を見る。それから、その扉を囲む巨大な金属の建物をゆっくりと見上げた。


「これ……」


「入るぞ」


 蓮は朝霧の反応など気にすることなく、見覚えのある重い扉を開いた。


「ちょ、ちょっと蓮――」


 そのまま中へ入っていく蓮を追って、朝霧も扉をくぐる。


 そして、その先に広がっていた光景を見た瞬間、今度こそ完全に足を止めた。


「…………え?」


 何度も蓮と食事をしたリビング。いつも腰を下ろしていたソファ。その向こうには、料理に何度か挑戦したあのキッチンまであった。


 コーヒーを飲みながら日々の出来事を記録していたテーブルも、廊下の先にある自分の寝室も、何一つ変わっていない。


 扉を見た時に浮かんだ嫌な予感が、目の前の光景によって確信へと変わっていく。


 朝霧はゆっくりと室内を見回し、最後に蓮へ顔を向けた。


「ここって……まさか!?」


「ああ」


「2501……なの?」


「そうだ」


「…………」


 朝霧はもう一度、室内を見回した。


 間違いない。


 似たような内装の避難施設でもなければ、蓮が別に用意していた建物でもない。


 自分があのマンションで蓮とともに生活していた、あの2501そのものだった。


「……ちょっと待って。なんでここにあるのよ……」


「持ってきたからだ」


「持ってきたって……部屋を!?」


「ああ」


 あまりにも当然のように答える蓮を前に、朝霧はしばらく言葉を失った。


「……どこから突っ込んでいいのかしら?」


「何が?」


「全部よ!」


 朝霧は額に手を当てながら、もう一度周囲を見回した。


「そもそも、こんなものまで《パンドラ》に入るの?」


「入るかどうかは、俺も実際にやるまでは分からなかった」


「……分からなかった?」


「ああ」


 蓮はリビングへ向かいながら、何でもないことのように続けた。


「俺がこの部屋を改装した時、四方の壁をかなり補強していたのは知ってるか?」


「ええ。それは知ってるわ。柴田たちがここへ入ろうとしてた頃、かなり噂になってたもの」


 朝霧自身、工事をしていた当時の詳しい事情までは知らない。それでも、あれだけ異常な部屋について住民たちの間で話が広がらないはずがなかった。


「壁だけじゃなくて床や天井まで補強されていて、隣や下の階からも入れなかったって聞いたわ。屋上のシェルターなんて、そもそも壊せるようなものじゃないって」


「ああ。もちろん侵入を防ぐためでもあった。だが、それだけじゃない」


「それだけじゃない?」


「最初から、この部屋そのものを《パンドラ》へ収納できる可能性も考えてた」


 朝霧の表情が変わった。


「壁だけじゃない。床も天井も全部だ。六面をそれぞれ独立した鋼板で補強して、接する部分はすべて溶接するように指示した。最終的に部屋全体が一つの巨大な金属の箱として完成するよう、設計の段階からそうしてもらってる」


「……箱?」


「ああ。その金属の箱を作った上で、さらに内側へ壁や床、天井を作って、普通に生活できるように仕上げてもらった。だから今見えてる壁のさらに向こうに、あの金属の外壁がある」


 朝霧はそこでようやく、外から見た異様な姿を思い出した。


 マンションにいた時には内装に隠されていたため意識することもなかったが、先ほど外から見えた剥き出しの金属壁こそが、この部屋を包んでいた本当の外殻ということになる。


「そこまで徹底してたのね……」


「ここだけは設計の時からかなりこだわった。壁を厚くしただけじゃ、建物から切り離した時にどうなるか分からないからな。俺が欲しかったのは補強された部屋じゃなく、単体でも一つの構造物として成立する箱だった」


「それで、上のシェルターまで繋げたの?」


「そうだ。監視室から上へ続く部分も含めて、最終的に全体が一つの構造物になるようにしてある。もちろん、ここまでやったから《パンドラ》に収納できるという保証があったわけじゃない」


「あくまで、できる可能性を考えて?」


「ああ。《パンドラ》を最初に検証した時、俺が一つのものとして認識できるほど連なっていれば、十メートルを超えていても収納できることは分かってた。なら最初から完全に一つの箱として作ってしまえば、部屋ごと収納できる可能性はあると思った」


「でも、実際に試したことはなかったのよね?」


「ああ。さすがに自分が生活してる場所で試すわけにもいかないだろ」


「それはそうだけど……じゃあ、本当にぶっつけ本番だったのね」


「駄目なら駄目で諦めるつもりだった。《パンドラ》には他の物資もあるし、これがなくても生きていく方法はいくらでも考えられるからな」


 蓮はそこで一度室内を見回した。


「まあ、結果はこの通りだ」


「……本当に滅茶苦茶な能力ね」


「今さらだろ」


「それはそうなんだけど……」


 朝霧はまだ完全には驚きから抜け出せていないようだったが、やがて別の問題に気づいたらしく、少し表情を変えた。


「でも……これを持ってきたってことは、あのマンションは今どうなってるの?」


「どうって?」


「あの部屋のことを知ってる人、かなりいたんじゃないの? それもマンションを出る理由の一つだったって言ってたじゃない」


「ああ、そうだな」


「そこへ誰かが行って、二十五階の部屋が丸ごとなくなってたら、それこそ普通じゃないわよ。余計に怪しまれるんじゃない?」


「その可能性はあるな。だから少し小細工してきた」


「……小細工?」


「あれだけ補強した部屋だからな。工事をした時、業者からも、これ以上やると重さに建物側が耐えられなくなる可能性があるとは言われてた」


 蓮はソファの近くまで歩くと、そこで足を止めた。


「だから2501を収納したあと、残った空間には似たような家具や生活用品を出しておいた。あとは補強に使ってたのと似た鉄板や金属、コンクリートなんかの資材もな」


「……そこまで?」


「いや、それだけじゃないぞ。それっぽくするために、予備の発電機や貯水タンクも置いてきた。配線や配管なんかも適当に混ぜてある」


「発電機まで?」


「ああ。掘り返した時に家具しか出てこなかったら、逆に不自然だからな。資材なんかは事前に大量に収納してたし、予備もいくつか用意してあった」


「徹底してるわね……」


「俺にとっても、小細工にしては結構痛い出費だぞ。特に発電機や貯水タンクは、今となっては金を出せば簡単に買い直せるものでもないからな」


「それはそうでしょうけど……」


「中途半端にやるくらいなら意味がない。それに、最後に雪を落としたら、本当に下の階まで崩れた」


「下の階まで?」


「ああ。2401まで一部抜けてた」


「……ああ、そういえば柴田たち、あなたの部屋に下から入ろうとして、2401の天井をかなり削ってたわね。それも原因だったのかもしれないわ」


「かもな。まあ、24階全体でもう人はいないからどうでもいいだろ」


「そうね……皆出て行ったものね」


「結果的には都合がよかった。二十五階だけ綺麗に空っぽになってるより、下の階まで巻き込んで崩れてた方が、何かの拍子に重さに耐えられなくなったようには見えるからな」


「……小細工って言ってたけど、やってることが全然小細工じゃないわよ」


「そうか?」


「そうよ。これだけやったら、かなり時間もかかったでしょう?」


「まあな」


 その返事を聞いて、朝霧は出発する前のことに思い当たった。


「なるほどね。出発する時、私だけ先に下で待ってろって言ったのも、そのためだったってわけね」


「ああ」


「結構待たされたから、何してるんだろうとは思ってたのよ」


「収納するだけならすぐだった。偽装する方に時間がかかった」


「でしょうね……」


 朝霧は呆れたように返したものの、すぐに何かを思い出したように蓮を見る。


「そういえば、雪を補充するって言ってたけど……」


「ああ」


 それだけで朝霧にも分かったらしい。


「……これのことだったのね」


「そうだ」


「一体どこであんな量の雪を使ったのかと思えば……」


「最後に残った空間へ大量に落としてきた。今頃は中まで雪と氷で埋まってるだろうな」


 家具や生活用品だけではない。発電機も貯水タンクもあり、補強材だったと思わせる鉄板やコンクリートも残されている。その上から大量の雪と氷に埋められていれば、最初に見た人間が何を想像するかはある程度誘導できる。


「……重さに耐えられなくなって、崩れたと思わせるため?」


「そう思ってくれれば都合がいい」


「そこまでやったら、なかなか気づかれないわね」


「まぁ、分かる可能性もあるだろうけどな」


 蓮は、ここまでやっても、それで完全に誤魔化せるとは思っていなかった。


 建物について詳しい人間が調査すれば、不自然な点はいずれ見つかるかもしれない。寒波以前の設計図や工事記録まで残っていれば、単純な崩落だけでは説明できない部分も出てくるだろう。


「だから時間稼ぎだ。何も残さず消えるよりはだいぶマシだろ」


「じゃあ……もしバレたらどうするの?」


「別にどうもしない」


「どうもしないの?」


「ああ。寒波が来る前から派手にやってたからな」


 蓮はそれを困ったことのようには言わなかった。


「倉庫の物資もそうだし、各料理や食材、生活用品、この部屋の工事もそうだ。この部屋がなくてもいつか俺のところまで辿り着く可能性は最初からある。だからあそこから移動した」


「あなたが出る前に言ってたのって、こういうことだったのね」


「そうだ。それに、だからこそ次はもっと安全な場所が必要になる」


 いつまでもバレないことを期待しながら、あのマンションに籠もり続けるつもりは最初からなかった。


 自分の存在や《パンドラ》へ近づく者がいつか現れる可能性があるのなら、見つからないことだけを安全の前提にはできない。


「多少バレる可能性が上がったとしても、外での安全を考えれば、こいつは持ってきたかった」


 蓮はそう言って、見慣れた室内を見回した。


「普通に野宿するより安全だろ?」


「…………」


 朝霧もつられるように周囲を見る。


 つい今朝まで過ごしていたリビングがあり、ソファがあり、テーブルがある。自分が料理したキッチンも、コーヒーを飲みながら記録を書いていた場所も、廊下の先にある自分の寝室も、何一つ失われていない。


 けれど、今ここにある2501は、もう高層マンションの二十五階にはない。


 分厚い壁の向こうに広がっているのは、崩壊した街でも、マンションの廊下でもなく、夕暮れに沈み始めた雪の林だった。


「……蓮」


「今度はなんだ?」


「これ、野宿っていうのかしら」


「外で寝るんだから野宿だろ」


「建物ごと持ち歩いてる人が言う台詞じゃないと思うけど……」


 朝霧はもはや反論する気も失せたように息を吐くと、住み慣れた2501の中をもう一度ゆっくりと見回した。


 ◇


 自衛隊車両が臨時拠点へ到着したのは、それから更に30分ほど経った頃だった。


 黒崎恒一は助手席の窓から外を眺めながら、先ほどまで自分たちが走っていた場所との違いに気づいていた。


 ここへ来る途中では、道路脇に集まった人々から罵声を浴びせられ、車体には何度も石や空き缶が投げつけられた。「政府の犬が」「家族を返せ」という叫び声も、まだ耳の奥に残っている。


 だが、臨時拠点の周辺にはそれほど張り詰めた空気はなかった。


 元々は公共施設だったらしい建物の敷地を利用し、周囲には土嚢や簡易柵が設置されている。数台の自衛隊車両が並び、隊員たちが忙しそうに行き来しているものの、銃を構えて警戒している者ばかりではない。敷地の一角では住民らしい人々が列を作っており、その先で段ボール箱に入った食料や生活物資が配られていた。


「着いたぞ」


 運転席から声をかけられ、黒崎は慌てて視線を戻した。


「はい」


「降りるぞ。まずは搬入だ」


 班長に続いて車を降りると、荷台を開けるより先に数人の隊員がこちらへ近づいてきた。その中央にいた四十代ほどの男が班長を見つけ、短く手を上げる。


「ご苦労さん。途中はどうだった?」


「いつも通りですよ。石を何発かもらいましたけど、車両に問題はありません」


「そうか」


 男は慣れているのか、それ以上驚く様子もなく車体を一瞥した。


 班長も特に気にすることなく搬入する物資について報告し、必要な確認を終えると、一歩後ろに立っていた黒崎へ顔を向けた。


「それと、こいつは今日から現地任務に入った新人です」


 突然話を振られ、黒崎は反射的に背筋を伸ばした。


「第二輸送小隊第三班、黒崎です。本日から現地任務に同行しています。よろしくお願いします」


「黒崎か」


 男は黒崎を上から下まで一度眺めた。


「俺はここの責任者を任されている。初任務らしいな」


「はい!」


「なら最初に一つだけ覚えておけ。ここへ来る途中でも見ただろうが、自衛隊や政府に反感を持ってる連中は少なくない。保護地域に入れなかった奴もいれば、家族を失った奴もいる。俺たちにその責任があると思ってる奴だっている」


 先ほど車へ石を投げていた人々の姿が脳裏に蘇り、黒崎は黙って頷いた。


「ただ、この辺りはまだマシな方だ。定期的に食料と生活物資を配ってるからな。少なくとも周辺の地区と比べれば治安はそれなりに安定してる」


「そうなんですか」


「ああ。もちろん揉め事がないわけじゃないが、今のところ大きな問題は起きてない。まあ、初日なら一度見ておいた方がいいだろう」


 男が視線を向けた先には、先ほど車内から見えた住民たちの列があった。


「搬入が終わったら、配給所を見ていけ。お前たちが運んできたものが、どこへ行くのか分かる」


 その言葉の通り、物資の搬入を終えた黒崎は班長とともに敷地の一角へ向かった。


 そこでは百人近い市民が列を作り、数人の隊員が世帯ごとの人数を確認しながら食料を配っていた。米や缶詰、保存食だけでなく、紙類や衛生用品なども少量ずつ分けられているらしく、受け取ったものを大切そうに抱えて帰っていく人々の姿があった。


 列の中には老人もいれば、小さな子供を連れた母親もいる。


 誰もが痩せ、疲れ切った顔をしていたが、先ほど道路で見た人々とは違っていた。怒鳴り声もなければ、物資を奪い合っている様子もない。順番を待ち、自分たちに割り当てられた分を受け取って帰っていく。


「……ちゃんと届いてるんですね」


 黒崎が呟くと、隣に立っていた班長がこちらを見た。


「何がだ?」


「俺たちが運んできた物資です。こうやって、本当に必要としてる人たちに」


「まあな。今は保護地域だって、新しい人間をほとんど受け入れられなくなった。だからって外にいる連中を全部放っておくわけにもいかん」


 班長は配給を待つ人々へ目を向けた。


「警察もまだまともに機能してないからな。政府が維持できる地域にはこういう拠点を作って、俺たちが最低限の物資を配ってる。食料が定期的に届けば、人もここに留まるし、略奪や暴動の抑止にもなる」


「……なるほど」


「だからこの辺りは、他と比べりゃまだ安全な方だ」


 黒崎も改めて人々の列へ目を向けた。


 少なくともここでは、自分たちが運んできた物資によって、今日を生き延びられる人たちがいる。その事実に、黒崎は少しだけ救われたような気がした。


 その時だった。


 列の後方から、突然大きな怒鳴り声が上がった。


 何事かと黒崎が振り返るより早く、並んでいた人々がざわめき始める。


「なんだ?」


 班長の声色が変わった。


 騒ぎは一瞬で大きくなった。


 列の後ろにいた人々がこちらへ押し寄せるように走り始め、その向こうから、顔を布やマスクで隠した男たちが次々と姿を現す。十人や二十人ではない。手には鉄パイプやハンマー、工具、斧のようなものまで握られていた。


「襲撃だ!」


 誰かの叫び声が響いた。


「門を閉めろ! 配給を中止しろ!」


 それまで穏やかだった空気が、一瞬で消えた。


 隊員たちが動き始めるのと、武装した男たちが市民の列へ突っ込んだのはほとんど同時だった。


「どけぇ!」


 先頭の男が鉄パイプを振り回し、逃げ遅れた男性を殴り倒した。


 鈍い音がした。


 男が雪の上へ崩れ落ちる。


 すぐそばにいた女性が悲鳴を上げ、その声に押されるように列全体が崩れた。人々が一斉に逃げようとして互いにぶつかり、転倒した者を後ろから来た者が踏み越えていく。


 黒崎は、その場から動けなかった。


「止まれ! 武器を捨てろ!」


 隊員の警告など、もはや誰も聞いていない。


 襲撃者たちは積み上げられた物資へ向かって殺到し、その途中にいる人間を次々と殴りつけていた。市民だからと避ける様子もない。逃げるのが遅れた老人が突き飛ばされ、別の場所では子供を抱えた女性が必死に人混みから抜け出そうとしている。


 目の前を一人の隊員が駆け抜けた。


 その直後、横から飛び出してきた男が持っていた鉄パイプを振り下ろし、隊員の頭部を強く打った。ヘルメットが弾けるようにずれ、隊員の身体がその場へ倒れ込む。


「黒崎!」


 どこかから班長の声が聞こえた。


 だが、身体が動かない。


 少し離れた場所では、二人の隊員が襲撃者ともみ合っている。その一人へ別の男が横から近づき、手にしていた斧のような刃物を振り下ろした。


 そして、その刃が肩口へ食い込んだ。


「ぐああああっ!」


 聞いたことのないような悲鳴が上がり、黒崎の呼吸が止まった。


 噴き出した血が制服を濡らし、そのまま白い雪の上へ落ちていく。


「黒崎! 聞こえてんのか!」


 また班長の声がした。


 それでも黒崎は動けない。


 訓練では何度も聞いた。現場では何が起きるか分からない。命令を待つだけではなく、周囲を見ろ。状況を判断しろ。何度も、何度も教えられた。


 だが、こんなものは知らない。


 目の前では人が人の頭を殴り、刃物を身体へ振り下ろしている。その間にも隊員たちの警告する声が飛び交い、直後には耳をつんざくような銃声が立て続けに響いた。


 悲鳴と怒号、乾いた発砲音が重なり合い、鼻を刺すような火薬の臭いまで漂ってくる。誰が襲撃者で、誰が逃げ惑う市民なのかさえ、人の波が激しく動くたびに分からなくなった。


 人が争い、命を奪われる光景なら、黒崎もこれまでに見ている。あのマンションでも、外から来た者たちとの争いによって何人もの人間が死んだ。


 だが、今目の前で起きているものは、それとはまるで違っていた。


 あまりにも多くの人間が同時に叫び、逃げ、襲いかかり、その中で銃声まで絶え間なく響いている。次の瞬間にどこで誰が倒れるのかさえ分からない光景は、現実の出来事というより、映像の中でしか見たことのない戦場そのものだった。


 ほんの数分前まで、ここでは人々が静かに食料を受け取っていた。


 その場所が今、黒崎にはまるで別の世界に見えていた。


「黒崎!」


 突然、視界が大きく揺れた。


 乾いた音と同時に左頬へ強い痛みが走り、黒崎はようやく目の前に立っている班長の顔を見た。


「しっかりしろ!」


「……班長」


「ここじゃ新人もクソもねえんだよ! 早く動かなきゃもっと人が死ぬぞ!」


「で、でも……俺……」


 何をすればいいのか分からなかった。


 その黒崎の胸元を掴み、班長がもう一度怒鳴る。


「第二輸送小隊第三班、黒崎!」


 自分の所属と名前を呼ばれた瞬間、身体が反射した。


「はい!」


 背筋が伸びる。


 考えてやったことではない。訓練の中で何度も繰り返し、身体に叩き込まれていた反応だった。


「負傷者を救出しろ! 動ける市民は建物の裏へ誘導! 生命に危険が迫った場合は武器の使用も許可する!」


「……はい!」


「返事だけしてんじゃねえ! 動け!」


「はい!」


 今度こそ黒崎は走った。


 最初に向かったのは、先ほど鉄パイプで頭を殴られた隊員だった。


「大丈夫ですか!」


 呼びかけると、男の口から小さな呻き声が返ってくる。意識はある。黒崎は脇へ腕を入れて身体を起こすと、その腕を自分の肩へ回し、ほとんど引きずるようにしてその場から離れた。


 重い。


 訓練で人間を運んだことは何度もある。それでも、意識が朦朧として自分ではほとんど動けない人間を、足場の悪い雪の上で運ぶのはまるで違った。


「もう少しです! しっかりしてください!」


 ようやく建物の陰まで辿り着き、救護に当たっていた隊員へ引き渡す。


 黒崎は息を整える暇もなく、再び配給所へ戻った。


 次に目に入ったのは、市民だった。


 五十代ほどの男性が雪の上に倒れ、頭を両手で押さえている。指の隙間から血が流れていたが、黒崎が声をかけると自分で身体を起こそうとした。


「立てますか?」


「……あ、ああ」


「肩に掴まってください。ここから離れます!」


 男性を安全な場所まで運び、近くにいた隊員へ引き渡すと、黒崎はすぐにまた配給所へ戻った。


 まだ助けを必要としている人間はいくらでもいる。


 目についた負傷者へ駆け寄っては身体を支え、騒ぎの中心から離れた場所まで運ぶ。それを繰り返しているうちに、黒崎の耳にも少しずつ周囲の声が戻ってきた。


 隊員たちの怒鳴り声。市民の悲鳴。負傷者を呼ぶ声。そして時折、それらすべてを切り裂くように響く銃声。


 怖くないわけではなかった。


 むしろ、足はずっと震えている。


 それでも、何をすればいいのか分からず立ち尽くしていた時とは違った。目の前に倒れている人間を見つけたら助ける。それだけに意識を集中させれば、身体は動いた。


 次に見つけたのは、右脚を負傷した黒崎と一緒にここへ来た隊員だった。


 自力で立ち上がろうとしていたが、足に力が入らないらしく、何度も雪へ膝をついている。


「掴まってください!」


 黒崎が駆け寄ると、隊員は一瞬だけ驚いたように顔を上げた。


「黒崎……」


「話は後です。立てますか?」


「……悪い」


 隊員の腕を自分の肩へ回し、腰を支えながら立たせる。


 かなり体格のいい男だった。先ほどの市民よりもはるかに重く、雪に足を取られるたびに二人揃って倒れそうになる。それでも黒崎は歯を食いしばり、一歩ずつ建物の方へ進んでいった。


「もう少しです。あそこまで行けば――」


「おい!」


 突然、肩を借りていた隊員が叫んだ。


「銃を構えろ!」


「え?」


「前だ!」


 黒崎が顔を上げる。


 顔の下半分を布で覆った男が、こちらへ向かって走ってきていた。


 両手には鉄パイプが握られている。


 男はこちらが負傷者を運んでいることなど気にも留めず、鉄パイプを頭上へ振り上げたまま、雪を蹴散らして真っ直ぐ距離を詰めてくる。


「銃だ! 早く構えろ!」


「で、でも……」


 腰へ手を伸ばしたところで、黒崎の指が止まった。


「早くしろ!」


 負傷した隊員が黒崎の肩を強く掴んだ。


「お前はもう軍人だろうが!」


「――っ!」


 その言葉を聞いた瞬間、黒崎の身体が動いた。


 考えてからではなかった。迷っている意識を置き去りにするように、訓練で何度も、何十回も繰り返した動作を身体が勝手になぞっていく。銃を抜き、両手で構え、こちらへ迫ってくる男へ銃口を向けた。


 照準の向こうに男の姿が収まったが、それでも黒崎の指は動かなかった。


 銃口を向けられていることに気づいていないのか、それとも気づいていてなお止まるつもりがないのか、男は鉄パイプを振り上げたまま雪を蹴散らし、見る間にも距離を詰めてくる。


 訓練なら、ここで迷うことなど一度もなかった。照準を合わせ、引き金を引く。ただそれだけの動作だったはずなのに、その向こうにいるのが人間だというだけで、指一本がどうしても動かない。


「黒崎! 撃て!」


 肩を借りている隊員の叫び声が耳元で響いた。その直後、迫ってきた男がさらに速度を上げ、振り上げた鉄パイプをこちらへ叩きつけようと大きく踏み込んだ。


 もう、迷っている時間はなかった。


 黒崎の指に力が入る。


 そして――発砲した。

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― 新着の感想 ―
ダークヒーローとヒーローかな?
 まだ甘ちゃんだなあ黒崎氏は。  まあ訓練といっても付け焼き刃だろうしなあ⋯⋯。  野宿の概念w
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