第2話 新たな社会
しばらく歩き続けたところで、二人はようやく車が通れそうな広い道路へ出た。
細い路地や建物の陰には今も深い雪が残っていたが、大通りには何度も車が通ったらしい轍が続き、中央付近には一台が走れるだけの道ができている。路肩には雪に埋もれた車が何台も放置され、場所によっては倒れた街路樹や壊れた看板が道を塞いでいたものの、徒歩だけで移動するよりは遥かにましだった。
蓮はすぐに車を出そうとはせず、道路の前後だけでなく、周囲の建物にも視線を向けた。誰もいないことを確認してから道路脇へ移動し、ようやく《パンドラ》から一台の雪上走行に適した車両を取り出す。
「……慣れたつもりではいたけど、やっぱりその力、とんでもないわね」
朝霧は突然目の前に現れた車を眺めながら、改めて感心したように呟いた。《パンドラ》についてはすでに何度も目にしているが、何もなかった空間から車一台が現れる光景は、今でも驚かされる。
「歩きの方がいいなら、先に行ってるぞ」
「乗るわよ。誰も歩きたいなんて言ってないでしょう。本当、そういうところよ」
呆れたように答えながら朝霧が助手席へ乗り込むと、蓮も運転席へ座り、車を北へ向けて走らせた。
もちろん、百日前までのように好きな道を選べるわけではない。除雪されていない場所もあれば、放置された車や雪の重みで倒れた街路樹が道を塞いでいる場所もあり、ときには一本隣の道路まで大きく迂回しなければならなかった。それでも徒歩に比べれば圧倒的に速く、二人を乗せた車は雪に覆われた街の中を少しずつ進んでいく。
最初のうちは人影もほとんど見当たらなかったが、やがて遠くの道路を歩く人間が一人、二人と現れ始めた。
それに気づいた蓮はすぐに速度を落とした。
相手との距離はまだかなり離れていたものの、そのまま近づこうとはせず、交差点で進路を変えて一度人影から離れてから、別の細い道路へ車を入れる。
「ここから歩くぞ」
「もう降りるの? まだかなり距離がありそうだけど」
「この車で人が集まってるところまで行けば、降りたあとも見られる。車を出すところも消すところも見せたくないし、後をつけられるのも面倒だ」
「……なるほどね。車で移動できるようになったからって、好きなところまで乗っていけるわけじゃないのね」
「《パンドラ》を知られたくないならな」
蓮が車体へ手を触れると、それまで二人を運んできた車は跡形もなく消えた。
再び歩き始めた二人の前には、百日前とはまるで違う街が広がっていた。雪に埋もれたまま放置された車や、シャッターをこじ開けられた店舗、窓の割れた住宅が並んでいる一方で、道路には明らかに最近ついた足跡がいくつも残っている。
「こうして歩くと、窓から見てたときとは全然違うわね」
朝霧は周囲を見渡しながら、少し感慨深そうに言った。
「雪が止まってからもうだいぶ経ってるし、人も思ってたより動いてるみたいね。少しずつでも、以前みたいな生活に戻り始めてるのかしら」
「どうだろうな。人が動けるようになって、また集まり始めてるのは間違いないだろうけど、それが以前の社会に戻り始めてるかどうかは、見てみないと分からない」
以前の蓮なら、そこで話を切り上げていたかもしれない。しかし今は少し考えたあと、朝霧へ視線を向けて言葉を続けた。
「それに、マンションで食料がなくなれば人がどう変わるか見ただろ。外へ出た途端、全員が元通りになるとは思わない方がいい」
「分かってるわ。私だって、あそこで百日近く過ごしてきたんだから」
「ならいい。お前に何かあったら俺も困る」
その言葉に朝霧は一瞬黙り、隣を歩く蓮の横顔を見た。
「……それ、私のことを心配してるって受け取っていいの?」
「当然だろ。お前は俺の専属医なんだから」
「そこは素直に心配してるって言えばいいじゃない」
「同じことだろ」
「そこは全然違うでしょ……」
朝霧が呆れたように笑っている間にも、蓮は少しずつ前へ進んでいく。もっとも、マンションを出た直後とは違い、今度は朝霧が普通に歩いてついていける程度の速度だった。
それに朝霧が気づいていたのかどうか、蓮には分からなかった。
◇
さらに進むにつれて、二人がすれ違う人間の数は明らかに増えていた。
最初に現れたのは大きな袋を背負った二人組で、一人は手に金属製の棒を持っていた。蓮たちを見つけた瞬間には警戒するように距離を取ったものの、それ以上何かをしてくることはなく、互いに視線だけを交わして通り過ぎていく。
その後も荷物を載せたソリを引く男や、大きなリュックを背負った女とすれ違い、やがて道路の先から人の話し声まで聞こえてきた。
「思っていたより、ずっと人がいるのね」
「ああ。何かあるみたいだな」
二人が辿り着いたのは、寒波以前にはいくつもの店舗が並んでいた商業区画だった。
建物そのものは酷く荒れており、ガラスの割れた店やシャッターをこじ開けられた跡のある店舗も珍しくない。しかし、その一角には何十人もの人間が集まり、板や木箱を台代わりにして様々な品物を並べていた。
「……市場?」
「みたいだな」
もちろん、以前のように値札を見て金を払う場所ではない。
小分けにした米を並べている者の前では、別の男がいくつもの缶詰を取り出し、互いに量を確かめながら交換の条件を話し合っている。少し離れた場所では厚手の上着や手袋、靴といった衣類が並べられ、その隣では乾電池や懐中電灯、工具、鍋、石鹸といった日用品まで取引されていた。
決まった価格表など存在せず、あちらでは缶詰三つと乾電池を交換しようとして断られ、こちらでは灯油を求める男が自分の持ってきた米を少しずつ追加しながら交渉を続けている。
「灯油まであるのね。あっちは……ガソリンかしら」
「発電機や車を使える連中なら、食料と同じくらい欲しがるだろうな。逆に燃料だけ持ってても、それだけじゃ腹は膨れない」
「だから交換するのね」
朝霧が特に興味を示したのは、薬を扱っている一角だった。風邪薬や解熱鎮痛薬、消毒液、包帯といったものが少量ずつ並べられており、それを求める者の中には貴重な食料を差し出している人間までいる。
「ちゃんと薬も流れてる……。種類は少ないけど、これだけでも助かる人はかなりいるはずよ」
「一つの場所に何でも揃ってるわけじゃないんだろ。米を持ってる奴が薬まで持ってるとは限らないし、燃料を確保した奴が食料も十分にあるとは限らない。人が動けるようになれば、余ってる物を持ってきて、足りない物と交換するようになるのは自然な流れだ」
誰か一人が計画して作った市場ではないのだろう。余っている物を持つ者と、それを必要とする者が集まり始め、そこへ別の物資を持つ人間も加わった。そのうち、ここへ来れば何かと交換できるという話が広がり、さらに多くの人間が集まるようになった。
朝霧は目の前で行われているやり取りを眺めながら、少しだけ表情を和らげた。
「こういうのを見ると、少し安心するわね。もっと酷い状態を想像してたから。形は違っても、人が集まって、また社会みたいなものを作り始めてる」
「ああ、この世界で生きるための、別の形でだけどな」
「……別の形、か」
朝霧はその言葉を確かめるように呟き、再び周囲へ視線を向けた。
米があり、缶詰があり、衣類や燃料、薬まである。百日前までなら店へ行って金を払えば手に入ったものを、今では誰もが自分の持っている物と交換しながら手に入れている。
それでも、何も手に入らなかった頃よりは確実に前へ進んでいた。
そう思いながら歩いていた朝霧の足が、一つの台の前で止まった。
「……肉まであるのね」
簡素な板を台代わりにしたその場所には、いくつかの肉の塊が並べられていた。
この状況で生肉が流通していること自体が珍しい。朝霧は少し迷ったあと、台の向こうに座っている男へ声をかけた。
「これ、何の肉ですか?」
汚れた防寒着を着た男はすぐには答えず、朝霧をじっと見たあと、並べられた肉へ視線を落とした。
「……長豚だ」
「長豚?」
聞いたことのない言葉だった。
「そういう種類の豚がいるんですか?」
男は答えなかった。
朝霧が困惑したように蓮を見ると、蓮は並べられた肉と男を交互に見たあと、何も聞かずにその場を離れた。
「蓮?」
「行くぞ」
いつもよりわずかに低い声だったため、朝霧もそれ以上尋ねることなく後を追った。
肉を売っていた男から十分に離れたところで、ようやく朝霧が声を落とす。
「ねえ、さっきの長豚って何なの? あなた、知ってるの?」
「……人だ」
朝霧の足が止まりかけた。
「人って……まさか、人間の肉ってこと!?」
「ああ、その隠語だ。あの男の反応を見る限り、間違いないだろう」
朝霧は思わず振り返った。
先ほどの台の前にはすでに別の客が立っており、男が肉の一つを持ち上げ、相手が差し出した何かと交換している。
「どこでそんなものを……」
「今なら、そこら中にあるだろ」
蓮の言葉の意味を理解するまで、朝霧には少し時間がかかった。
この百日の間に、どれだけの人間が死んだのか。凍死した者もいれば、飢えて死んだ者もいる。誰かに殺された者もたくさんいる。深い雪の下に埋もれていた遺体も、気温が上がり雪が減り始めれば、少しずつ姿を現す。
「……でも、あれだけの量を用意するのも容易ではないはずよね」
「どっかで加工しているはずだ。もっとも一人や二人でできる作業じゃないな」
朝霧は再び肉を売っていた場所へ目を向けたが、胃の奥から込み上げてくる感覚に思わず口元を押さえ、すぐに視線を逸らした。
遺体を集める人間がいて、それを加工する者がいて、ここまで運ぶ者がいるのかもしれない。そして最後には、それを必要とする人間へ売る者がいる。
誰か一人が飢えに耐えきれず、それを口にしたというだけの話ではない。
それが商品として流通し始めているのだとすれば、この百日の間に人々の価値観そのものが変わっている。
人と物が集まり、確かに新しい秩序が生まれていた。
ただし、それは朝霧が知っている社会の秩序とは、すでに同じものではなかった。
◇
その後も市場を見て回っていた朝霧は、やがて別の違和感に気づいた。
「でも、これだけ食べ物や薬が並んでるのに、大きな騒ぎがないわね。交換条件で言い争うぐらいはさっき見たけど」
市場を歩いている者の中には、満足に食事を取れていないことが一目で分かる者もいるが、目の前の米や缶詰を掴んで逃げようとする者はいない。
「治安はいいみたいだな。俺も以前はここまで見てない」
朝霧は一瞬だけ蓮を見たが、その『以前』が何を意味するのかを尋ねることはなかった。
一度目の人生で蓮は寒波の途中で死んでいる。
今こうして目の前に広がっている光景は、蓮にとっても初めて見る世界なのだ。
「お前ら、ここに来るのは初めてか?」
横から声をかけられ、二人がそちらを見ると、五十代ほどの男が自分の品物を並べたままこちらを見ていた。使い込まれた防寒着を着込み、足元には缶詰や乾電池、それに工具らしきものが置かれている。
「ええ。今日初めて来ました」
「だったら一つだけ覚えといた方がいい。ここじゃ揉め事は起こすなよ。交換条件が気に入らなくても、相手を脅して奪おうなんて考えない方がいい」
「私たちはそんなことしませんけど……何かあるんですか?」
「まあ、普通にしてりゃ何もねえよ。ただ、知らずに馬鹿やる奴もいるからな」
男の口調が妙に真剣だったため、朝霧は改めて市場を見回した。
「ここは雪が止んでからできたんですか?」
「ああ。最初は何人かが物を交換してただけだったらしいが、ここへ来れば食い物や薬が手に入るって話が広がって、だんだん人が増えた。俺もここがなきゃ困るよ」
「それで、みんなでこの場所を守ってるんですね。だからこれだけ物があっても――」
「いや、そんな綺麗な話じゃねえよ」
男は苦笑しながら朝霧の言葉を遮り、少し離れた場所へ顎を向けた。
「あっち見てみろ」
言われた方向へ目を向けると、人混みの向こうを数人の男たちが歩いていた。どの男も体格がよく、厚手の服から覗く首や手には刺青が見え、品物を探すでもなく周囲の人間を見回しながらゆっくりと市場を巡回している。
彼らが近づくと、周囲の人間は意識している様子すら見せず、自然に道を空けていった。
「……なるほどな」
蓮が小さく呟いた。
「何が?」
「あいつらだよ。寒波が来る前はこの辺りをシマにしてた連中だ」
答えたのは中年の男だった。
「暴力団ってことですか?」
「ああ。今じゃあいつらがここの警備をやってるようなもんだ。盗みをしたり、交換相手を脅したり、喧嘩を始めたりすればすぐに出てくる。俺も何度か見たが、容赦なんてしねえよ。酷い場合はそのあと姿を見せなくなったこともある」
警察も行政も機能していないこの場所で、市場の秩序を維持しているものは法律ではなかった。ここで問題を起こせば、より強い暴力によって排除される。その単純なルールがあるからこそ、飢えた人間の目の前に食料を並べても取引が成立している。
朝霧は巡回する男たちを見ながら、何かに気づいたように中年の男へ尋ねた。
「でも、それなら当然……ただで守ってるわけじゃないんでしょう?」
「……お姉さん、なかなか頭が回るな」
男は笑ったあと、自分の前に並べた品物を指した。
「まあ、その通りだ。ここで店を出したけりゃ、売る物の一部をあいつらに納める。食い物を売ったなら食い物、燃料なら燃料。昔と呼び方が変わったところで、やってることは大して変わらねえ」
「……みかじめ料ね」
「そういうことだ」
「それでも、皆それを払ってここで商売を続けてるんですね」
朝霧の問いに、男は少しだけ表情を曇らせた。
「取られて嬉しい奴なんていねえよ。でも、あいつらがいなくなったら商売そのものができなくなる。ここへ来れば交換できる、持ってきた物をいきなり奪われることはないって分かってるから、遠くから物を持ってくる奴もいるんだ」
「嫌われてはいるけど、今は必要でもあるってことね」
「ああ。ほかの奴がどう考えてるかまでは知らねえけどな」
朝霧は複雑そうな表情を浮かべた。
寒波以前なら、それを正しいと考える者などほとんどいなかっただろう。しかし警察も行政も届かず、自分たちの財産を守ってくれる存在がいなくなった今、その暴力が市場を維持するための力にもなっている。
善人になったわけではない。人々を救うために立ち上がったわけでもなく、自分たちの利益になるから市場を守り、その対価として物資を取り立てている。
それでも結果として、その力に助けられている人間がいるのも事実だった。
「ありがとうございました。気をつけます」
「ああ。余計なことさえしなきゃ、ここは他よりよっぽど安全だ。ゆっくり見ていきな」
男と別れたあとも、朝霧は先ほどの刺青の男たちを気にしていた。
「なんだか複雑ね。やってることだけ見れば以前と同じ暴力団なのに」
「正しいかどうかなんて、今は誰も決めてくれないだろ」
蓮は巡回する男たちを一度だけ見た。
「少なくとも、ここではあいつらが一番強くて、その力で決めたルールを皆が守ってる。その結果として市場が回ってるなら、それがここの秩序なんだろ」
人間は無秩序のままでは生きられない。
誰かがルールを作り、それを破った者に罰を与え、その代わりに人々が安心して物を交換できる場所を維持する。
国家と呼ぶには、あまりにも小さく粗暴なものだったが、少し前まで存在しなかった新しい秩序が、この街には確かに生まれ始めていた。
◇
市場を一通り見終えた二人は、再び北へ向かって歩き始めた。
しばらくは背後から交渉する人々の声や物を運ぶ音が聞こえていたが、二つほど角を曲がる頃にはそれもかなり遠くなり、周囲を歩く人間の数も急に少なくなった。
「思ったより長く見ちゃったわね。少し寄るだけのつもりだったのに」
「お前があちこちで立ち止まるからだろ」
「仕方ないでしょう。今の世界を見るのは初めてなんだから。それに、あなたも結構見てたじゃない」
「俺は必要だから見てたんだ。何が流通してるか分かれば、周辺で何が不足して、何が残ってるのかもある程度は分かる」
「相変わらずね。私は久しぶりに人がたくさんいるところを見られてよかったって思ってたんだけど」
朝霧が軽く笑いながら歩いていると、不意にコートの裾を後ろから引かれた。
「え?」
足を止めて振り返ったものの、目線の高さには誰もいない。気のせいかと思いかけたところでもう一度裾が引かれ、今度は視線を下へ向けると、そこに小さな子供が立っていた。
「あら……どうしたの?」
六歳か七歳くらいだろうか。身体には明らかに大きすぎる防寒着を着込み、袖から出た小さな手で朝霧のコートを掴んでいる。頬は汚れ、髪も長い間まともに整えられていないようで、厚い服の上からでも身体がかなり痩せていることが分かった。
朝霧が腰を落として目線を合わせると、子供は何も言わず彼女の顔を見上げたあと、その視線を背中のリュックへ移した。
「……お腹が空いてるの?」
小さく頷く。
「お父さんかお母さんは近くにいる?」
「……いない」
朝霧の表情が曇った。
「市場ではぐれたの? それとも、誰かほかに一緒にいる大人がいる?」
子供は首を横に振ったあと、何も答えなくなった。
その様子を見た朝霧はそれ以上聞くことができず、背負っていたリュックへ手をかける。
「ちょっと待っててね。何か食べられるものを――」
「朝霧」
背後から蓮の声が飛び、朝霧はリュックを下ろしかけた手を止めた。
「何?」
「やめとけ」
予想していなかった言葉だったのか、朝霧は少し眉を寄せた。
「……どうして?」
「そいつが本当に一人なのかも分からないし、市場を出てから近づいてきたのも気になる。食い物を渡す必要はない」
「何者かって……まだこんな小さな子よ?」
「子供なら信用できるのか?」
返された言葉に、朝霧は一瞬黙った。
目の前にいるのは、どう見ても空腹に苦しんでいる幼い子供だった。乾いた唇や痩せた身体まで演技だとは思えず、少なくとも何日も満足に食べていないことだけは、医者である朝霧の目にも明らかだった。
「あなたが言いたいことは分かる。でも、この子がお腹を空かせてるのも本当だと思うわ。少しくらいならいいでしょう?」
「俺はやめろと言ったぞ」
「……わかってる。でも、まだこんなに小さな子よ」
蓮は朝霧を数秒見つめたあと、それ以上説得しても考えを変えないと判断したのか、小さく息を吐いた。
「……好きにしろ。ただし、周りから目を離すな」
「ええ、分かったわ」
朝霧はリュックを下ろして携帯用の食料を取り出したが、その間にも蓮は子供ではなく、閉ざされた建物の窓や路地の奥、市場へ戻る道へ視線を巡らせていた。
「はい。慌てなくていいから、ゆっくり食べるのよ」
差し出された食料を前に、子供はすぐには手を伸ばさなかった。朝霧の顔と食べ物を何度か見比べてから、おそるおそる両手で受け取る。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ようやく言葉を聞けたことで朝霧の表情が少しだけ柔らかくなったが、子供はその場で食べようとはせず、受け取ったものを素早く防寒着の中へしまった。
そして、朝霧ではなく蓮を見る。
ほんの一瞬だけ視線が交わったあと、子供は身を翻して建物の間へ走り去った。
「……行っちゃった。こんな子が今はいっぱいいるんでしょうね」
「朝霧、リュックを背負え」
蓮から返ってきたのは、まったく別の言葉だった。
「え?」
「早くしろ」
先ほどより低い声に、朝霧もようやく蓮の様子がおかしいことに気づいた。地面へ置いていたリュックを持ち上げようとしたところで、少し離れた建物の陰からこちらを窺っている小さな人影が目に入る。
反対側にもいた。
さらに路地の奥には二人、その後ろにも何人かの子供が隠れており、先ほどの子より年上の者もいれば、同じくらい幼い者もいる。最初から近くにいたのか、食料を受け取った子供が呼んできたのかまでは分からなかったが、全員の視線が朝霧の足元にあるリュックへ向けられていることだけは明らかだった。
「……こんなにいたのね。みんな、食べるものがないの……?」
「朝霧、早く背負え」
「でも――」
「だから言っただろ。そいつらが見てるのはお前じゃない。リュックだ」
蓮に言われて改めて子供たちの顔を見ると、朝霧にもようやく違和感が分かった。
誰一人として朝霧の顔を見ておらず、視線はすべて、食料の入っているリュックへ向けられていた。
朝霧が慌てて持ち上げようとした瞬間、それまで距離を取っていた子供の一人が走り出し、それを合図にするように物陰にいた子供たちが一斉に飛び出してきた。
「ちょっと待って! 話を聞――」
朝霧は咄嗟にそう呼びかけたものの、子供たちは止まらなかった。
数人が一度に押し寄せ、一人が朝霧のコートを引っ張っている間に別の子供が腕へしがみつき、その隙を狙って年上の少年が背後へ回り込む。
朝霧が転ばないよう踏ん張りながら子供たちを落ち着かせようとしている間にも、少年の指先がちょうどリュックの肩紐へ届こうとしていた。
その瞬間、その手首を横から伸びた蓮の手が掴む。
「やめとけ」
少年の動きが止まった。
蓮は必要以上に力を加えることもなく、ただ逃げられない程度に手首を押さえていたが、少年は泣きも謝りもせず、怯えた様子さえほとんど見せなかった。それどころか掴まれた自分の手と朝霧のリュックを交互に見ながら、まだ奪う機会が残っていないか探している。
「もう一度だけ言う。離れろ」
蓮の低い声が響くと、朝霧へしがみついていた子供たちも一人、また一人と手を放し、少しずつ距離を取り始めた。
全員が十分に離れたことを確認してから蓮が少年の手首を放すと、少年は素早く数歩後ろへ下がった。それでもすぐには逃げず、最後まで朝霧のリュックを見ていたが、やがて仲間の一人が路地へ駆け込むと、それを追うように身を翻した。
残っていた子供たちも次々に散っていき、ほんの十数秒後には、先ほどまで何人もの子供がいたとは思えないほど静かになっていた。
朝霧はリュックを抱えたまま、子供たちが消えていった路地をただ見つめている。
「……最初の子も、最初からそのつもりだったの?」
「たぶんな。食料を持ってるか確かめる役だったのかもしれないし、最初から全員で俺たちを見てた可能性もある」
「最初から……?」
「市場の中じゃやらなかっただろ」
蓮に言われ、朝霧は背後を振り返った。
市場はすでに建物の向こうに隠れ、ここからでは姿も見えない。
「さっき聞いたばかりだ。あそこで盗みや強奪をすれば、警備してる連中が出てくる。あいつらがそれを知ってるなら、市場の中でわざわざ仕掛ける必要はない。俺たちが警備の目が届かないところまで出てくるのを待てばいい」
「でも……あんな小さな子たちが、そんなことまで考えてるの?」
「日本じゃ馴染みがないだけだ。戦争が続いてた国なら、似たような話はいくらでもあるだろ」
蓮は子供たちが消えた路地へ視線を向けたまま、淡々と続けた。
「親を失った子供同士で集まって、自分たちだけで生きる。物乞いもするし、盗みもする。毎日それで食っていかなきゃならないなら、なんだってする」
朝霧はしばらく何も言わなかった。
最初に自分の服を引いた子供の顔を思い出す。
痩せた身体も、空腹も、おそらく嘘ではなかったのだろう。だからこそ、朝霧は疑うことができなかった。
「日本では、こんな子たちを見ることなんてほとんどなかったものね」
「ああ。だが、ここももう以前の日本じゃない」
蓮はそう言って歩き出そうとしたが、朝霧はまだその場を動かなかった。
「待って、蓮」
「なんだ?」
「私、あの子たちを責める気にはなれないわ……」
蓮は少しだけ朝霧を見たが、その表情が和らぐことはなかった。
「生きるために必要なのはわかる。けど同情するつもりもない」
「……分かってる。世界が……変わったんだもの」
「お前も嫌というほど見てきただろ」
その一言で、朝霧の表情が止まった。
「善意だけで誰かを助けようとしても、もう何も救えない。相手が困ってるから、可哀想だからって、それだけで手を差し出し続けてたら、救うどころか自分を危険に晒すだけだ」
朝霧は何も言い返せなかった。
蓮に言われるまでもなく、それはすで嫌というほど見てきた。
朝霧はしばらく子供たちが消えた路地を見つめていたが、やがて抱えていたリュックを背負い直し、肩紐をしっかりと握った。
「……そうだったわね」
蓮はそれ以上何も言わず、朝霧も一度だけ背後を振り返ってから、その隣へ並んで歩き始めた。
市場では、人々が物々交換を行い、その片隅では人間のものかもしれない肉まで商品として売られていた。
そこで人々の財産を守っているのは警察ではなく暴力団であり、商売をする者たちはその対価として物資の一部を差し出している。
そして、その秩序が届かなくなる場所まで離れれば、親を失った子供たちが集まり、物乞いや盗みをしながら今日を生き延びている。
人々は再び集まり始めていた。
物資も動き、交換が生まれ、その場所ごとに新しいルールさえ作られつつある。だが、それは百日前まで二人が知っていた日本が戻ってきたということではない。
崩れた社会の上に、人間が生き延びるための別の社会が生まれ始めている。
そこには以前と同じ善意もあれば、以前なら許されなかった暴力もあり、生きるためなら人の肉さえ商品になった。そして、まだ幼い子供たちでさえ、その世界の中で生き残る方法を覚え始めている。
世界は変わった。
蓮の言ったその一言を、朝霧は先ほどまでとは少し違う意味で理解しながら、雪の残る道を歩き続けた。




