第1話 プロローグ
「ちょっと待ちなさいって! 蓮!」
少し先を歩いていた男、神崎蓮が足を止め、面倒そうに振り返った。
その数十メートル後ろでは、厚手の防寒着に身を包んだ朝霧詩織が、大きなリュックを背負いながら雪の残る道を歩いている。積雪そのものは以前に比べればずいぶん減っていたが、それでも除雪されていない場所には今も深い雪が残り、足を踏み出すたびに靴底が沈んだ。
百日近くもまともに外を歩いていなかった身体には、それだけでも思っていた以上に堪える。ましてや今日は、肩に食い込むほどの荷物まで背負っているのだ。
「もう少しゆっくり歩いてくれない? こっちはこんな荷物まで背負ってるのよ」
「遅い」
返ってきたのは、たった一言だった。
「私が遅いんじゃなくて、あなたが速いの」
抗議の声が届いていることだけは間違いないはずなのに、蓮はそれ以上何も答えなかった。それどころか、朝霧が追いつくのを待つこともなく、何事もなかったように前を向いて再び歩き始めてしまう。
「もう……少しくらい待ってくれてもいいでしょう?」
遠ざかっていく背中を恨めしそうに見つめながら、朝霧は肩に食い込んだリュックのベルトを持ち直した。
それにしても、どうして自分だけがこんな大きな荷物を背負わなければならないのか。
いや、その理由なら分かっている。
そもそもの原因を作ったのは、他でもない自分なのだから。
2501を出る直前、朝霧は出発の準備をしていた蓮を呼び止めていた。
「ねえ、蓮。一つ言っておきたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
蓮は手を止めることなく答えたが、朝霧は少しだけ表情を引き締めた。これは出発する前に、どうしても伝えておきたかったことだった。
「私、ただあなたについていくだけのお荷物になるつもりはないから。医者としてできることはもちろんやる。でも、それ以外にも私にできることがあるなら言って。あなた一人に全部やらせて、私は守られているだけなんて嫌なの」
この先、どこへ向かうのかも分からない。外にどんな危険が待っているのかも、そこでどんな人間たちと出会うのかも分からない。
それでも蓮についていくと決めたのは自分だ。
だったら、ただ守られているだけの存在にはなりたくなかった。医者として怪我人を治療するだけではなく、自分にできることがあるのなら、それが何であれ蓮の力になりたい。
朝霧なりに、そんな覚悟を込めた言葉だった。
蓮はその気持ちを汲み取るように朝霧の顔をしばらく見つめ――ることすらなく、ほとんど間を置かずに足元へ視線を落とした。
「じゃあ、これお前が背負え」
「…………」
蓮が指差した先には、出発用に用意された大きなリュックが置かれていた。
朝霧はその指先を見て、それから床のリュックへゆっくりと視線を落とし、最後にもう一度蓮の顔を見る。
「……そういう意味で言ったつもりはないんだけど」
「医者じゃなくてもできる仕事だろ」
「それはそうだけど……」
「なら頼んだ」
あまりにも迷いのない返事に、朝霧はしばらく何も言えなかった。
確かに、自分から言った。
医者としてだけではなく、他にもできることがあるならやりたいと、間違いなく自分の口で言った。
言ったのだが――もう少し他に何かなかったのだろうか。
そんなことを考えながら、朝霧は今も少しずつ遠ざかっていく蓮の背中を追いかけている。
――百日前。
突然訪れた寒波によって、この世界は大きく姿を変えた。
気温は瞬く間に下がり、空から降り始めた雪は一日経っても、二日経っても止まらなかった。道路は深い雪に埋まり、車は動けなくなり、やがて物流そのものが途絶えた。電気や水道といった、それまで使えて当然だと思っていたものまで一つ、また一つと失われ、当たり前だった日常は驚くほど簡単に崩れていった。
私たちは、そのほとんどの時間を一棟のタワーマンションの中で過ごしてきた。
けれど、最初からすべてが壊れていたわけではない。
寒波が始まったばかりの頃、人々はまだ互いに助け合っていた。持っている食料や水を分け、困っている人がいれば声をかけ、限られた物資をどう使うのかを皆で話し合っていた。
政府からの救助も物資の支給も思うようには届かなかった。それでも、同じマンションに暮らしている者同士で力を合わせれば、この異常事態もいつかは乗り越えられる。雪だって、そのうち止む。そうなれば以前の生活に戻れる。
あの頃は、まだ多くの人がそう信じていたのだと思う。
そんな空気に変化が見え始めたのは、寒波が始まってから二週間も経っていない頃だった。
備蓄していた食料が目に見えて減り始め、それでも外から助けが来ないことが分かるにつれて、人々の視線は少しずつ変わっていった。
誰かが食料を隠している。自分たちより多く受け取っている人間がいる。あの部屋には、まだ物資が残っているはずだ。
最初は口に出すことさえ躊躇っていた疑いが、やがて当然のように交わされるようになり、些細なことで争いが起きるようになった。昨日まで同じエレベーターに乗り、顔を合わせれば挨拶をしていた人間同士が、いつしか互いの持ち物や部屋の中を探るような目で見るようになっていった。
それと同時に、人の命まで少しずつ軽いものへと変わっていった。
食料を巡って誰かが傷つけられ、力を持った人間が物資を支配し、それに従わなければ食べるものさえ与えられない。以前なら警察を呼ぶような出来事が目の前で起きても、それを止めようとする人間は少なくなり、いつしか誰もが「生きるためには仕方がない」という言葉で目を逸らすようになった。
きっと、誰も突然別人になったわけではない。
ただ、明日の食事があるか分からない日々が続くうちに、自分や家族が生きること以外へ向けられる余裕が、一日ずつ削り取られていったのだ。
医者だった私も、その変化とは無関係ではいられなかった。
怪我をした人間がいれば治療し、手元にある薬を使い、自分にできることをしてきたつもりだった。けれど、それで何かが返ってくるとは限らない。
最後には、助けてきたはずの住民たちから薬と食料を奪うために襲われた。
私がこの男――神崎蓮と一緒に行動するようになったのも、その時だった。
蓮には、普通なら到底信じられない秘密がある。
彼は一度、この寒波の中で人生を終えている。
前の人生で、蓮は一ノ瀬美咲という一人の女性を信じていた。食料が尽きかけた彼女を助けようと、自分が持っていた食料を届けに向かったその日、蓮は彼女の部屋で別の男に襲われ、そのまま命を落とした。
ところが次に目を覚ましたとき、彼は死ぬ前の記憶を残したまま、寒波が始まる三十日前の世界へ戻っていたという。
初めてその話を聞いたときは、もちろん信じられなかった。
死んだ人間が過去へ戻り、もう一度同じ人生をやり直している。
医者である私にとって、それは荒唐無稽という言葉ですら足りない話だった。もし寒波以前の世界で患者からそんな話を聞かされたなら、私はきっと別の可能性を考えていただろう。
けれど、蓮は寒波が来ることを知っていた。
世界がこうなることを誰も知らなかった時期から大量の物資を集め、自宅である2501を要塞のように改造し、この寒波の中で起きることについても、まるで一度経験したことがあるかのような知識を持っていた。
偶然という言葉だけでは、説明できないことがあまりにも多すぎた。
そして何より、私自身がこの百日間で、これまでの常識では説明できない出来事をいくつも目にしてしまった。
だから今では、彼の話を疑う理由の方が見つからない。
そして蓮は、二度目の人生となったこの百日間を、ただ生き延びるためだけに過ごしていたわけでもなかった。
前の人生で信じ、そして裏切られ、自分が死ぬきっかけとなった一ノ瀬美咲。
二度目の世界でも蓮は再び彼女と向き合い、前の人生から続いていた因縁に、自分自身の手で決着をつけた。
あれほど長く蓮の中に残り続けていた復讐は、もう終わっている。
それでもなお、蓮が普通の人間とは決定的に違う理由がもう一つあった。
《パンドラ》。
それが、蓮の持つあまりにも常識外れな力に、私たちがつけた名前だった。
簡単に言ってしまえば、あらゆるものをどこか別の空間へ収納し、必要なときに好きなように取り出すことができる。
食料も、水も、家具も、車のような大きな物でさえ一瞬で目の前から消してしまう。しかも収納されたものは時間が止まったように状態を保ち続け、温かい料理なら何日、何十日経って取り出しても、収納した瞬間とほとんど変わらない。
それだけでも十分におかしな力なのに、《パンドラ》が収納できるのは形のある物だけではなかった。
火や衝撃といった、本来なら手で掴むことさえできない現象まで、蓮はその中へ収納することができる。
初めてその力を目の前で見たときは、さすがに自分の常識がおかしくなったのかと思った。
もっとも、これだけ長い間この男と一緒にいれば、人間というものは恐ろしいほど慣れるらしい。今では目の前にあった大きな物が突然消えたところで、以前ほど驚くこともなくなってしまった。
世界がおかしくなったのか、それとも私たちの方がおかしくなったのか。
たぶん、どちらも少しずつ正しいのだと思う。
そんな百日近い籠城生活にも、雪が止んだことで再び変化が訪れた。
寒波が訪れる直前、蓮は2501をまるで要塞のように改造している。誰もこんな世界になることを知らなかった時期に分厚い扉や壁を用意し、長期間籠城できるだけの設備まで整えていたのだから、当時その工事に関わった人間が今になって不審に思うのも当然だった。
実際、雪が止まり、気温が少しずつ上がって人々が再び街を移動できるようになると、寒波前に蓮と関わっていた人間が彼のもとを訪れるようになった。
しかも、問題はそれだけではない。
蓮は寒波が始まる前、この国でも一、二を争うほどの巨大な総合物流倉庫から、そこに保管されていた大量の物資を丸ごと《パンドラ》へ収納している。
蓮の友人である黒崎恒一の話によれば、政府もすでにその不可解な物資消失について調査を始めているらしい。
もちろん、今のところ政府が蓮を疑っているわけではない。
そもそも巨大な物流倉庫にあった膨大な物資を、たった一人の人間が誰にも気づかれず消してしまったなどと、普通なら想像すらしないだろう。
けれど、人が動けば物資だけではなく、情報も動き始める。
マンションの住民だけを相手にしている間なら、2501はこれ以上ないほど安全な場所だった。分厚い壁と扉に守られ、食料も燃料も大量にあり、外の寒さから身を守るための設備まで揃っている。少なくとも、あの雪に閉ざされた世界では、あそこ以上に安全な場所を見つける方が難しかったはずだ。
しかし、人々が再び街を移動できるようになった今では事情が違う。
2501という場所を知っている人間が訪れることもできれば、寒波が来る前の蓮の行動について誰かが話すこともできる。そうして一つずつ情報がつながっていけば、いつか誰かが蓮の持つ大量の物資へ辿り着く可能性も否定できない。
どれだけ頑丈な扉があっても、そこにいることを知られてしまえば絶対に安全とは言えない。
だから蓮は、百日以上暮らした2501を離れることを決めた。
あの部屋よりもさらに安全で、この先も生き延びるための新しい拠点を見つけるために。
そして今――私は、その蓮と一緒に外の世界を歩いている。
別についてきたことを後悔しているわけではない。
自分で決めたことだし、この先に何が待っているのかを、この目で見てみたいとも思っている。蓮がこれからどこへ向かい、どんな生き方をしていくのかを見届けたいという気持ちも、今では確かにあった。
ただ、一つだけ言わせてもらえるなら――。
「蓮ー! やっぱりこのリュック重すぎるわよ!」
朝霧が再び声を上げると、かなり先まで進んでいた蓮がようやく足を止め、仕方がないとでも言いたげに振り返った。
「これも《パンドラ》に入れればいいじゃない。全部が駄目なら、せめてもう少し減らすことくらいできるでしょう?」
「二人分の最低限の荷物しか入ってない。それすら持たずに二人で歩いてたら、余計に不審だろ」
「それは分かってるけど……」
朝霧は肩を軽く回しながら、ふと蓮の姿を見た。そこで今さらながら、こちらとは決定的に違うところに気づく。
自分はこれだけ大きなリュックを背負っているというのに、蓮の両手は空いていた。
「ねえ。だったら、最初から二人で分けて持てばよかったんじゃない?」
朝霧が恨めしそうな視線を向けると、蓮はわずかに間を置いてから答えた。
「……お前が持つと言ったんだろ」
「私はあなたの力になりたいって言ったの。力仕事を全部引き受けるって意味じゃないわよ」
「…………」
蓮は何も答えなかった。
朝霧はしばらくその顔を見つめていたが、本当にこれで話を終わらせるつもりらしいと分かると、呆れたように小さく息を吐いた。
「……まさか、それで終わり?」
それでも蓮は答えず、代わりに周囲へゆっくりと視線を巡らせた。
道路の先にも人影はなく、左右に並ぶ建物の窓にもこちらを見ている者はいない。それを確認してから《パンドラ》へ手を伸ばすと、次の瞬間、それまで何もなかった雪の上にもう一つのリュックが現れた。
「貸せ」
「……最初からそうしてくれればよかったのに」
朝霧が肩からリュックを下ろすと、蓮はその場にしゃがみ込み、中に入っていた荷物を二つへ手早く分けていった。
水、防寒用品、非常食、救急用品。どれも《パンドラ》の中には大量に入っているものばかりだが、外から見れば二人が普通に持ち歩いていても不自然ではない程度の物資だった。
やがて荷物を詰め終えると、蓮は二つのリュックを一度持ち上げて重さを確かめ、そのうち明らかに重そうな方を何も言わず自分の背中へ担いだ。残った方を朝霧へ差し出す。
「これならいいだろ」
「ええ。これなら問題ないわ」
受け取ったリュックを背負ってみると、肩へかかる重さは明らかに軽くなっていた。
ただ、二等分したはずなのに、蓮が自分の方へ少し多めに荷物を入れていたのは、たぶん朝霧の気のせいではない。
それをわざわざ指摘することはせず、朝霧は小さく笑ってリュックの位置を整えると、再び歩き始めた蓮の隣へ並んだ。
「それで、結局どこへ向かうの? 昨日はいくつか候補があるとしか聞いてなかったけど、そろそろ教えてくれてもいいでしょう?」
「まずは、ここから少し離れた自衛隊の施設を見に行く」
「自衛隊?」
予想していなかった答えに、朝霧は少し驚いたように蓮を見た。やがて記憶を探るように視線を上げると、思い当たったらしく北の方角へ顔を向ける。
「ああ……確か北の方にあったわね。そんなに大きなところではなかったと思うけど」
「ああ。分屯地だから規模はそれほど大きくない」
「でも、自衛隊の施設なら今も使われてるんじゃない?」
「その可能性もある。だから、まずは確認しに行く」
蓮は雪の残る道路の先へ視線を向けながら、歩調を少しだけ緩めた。今度は朝霧も無理なく隣を歩ける速さだった。
「国そのものがこんな状態だ。人員も物資も足りてないなら、すべての施設を以前と同じように維持し続けるのは難しいはずだ。重要な場所へ人員を集めているなら、小規模な分屯地はすでに放棄されている可能性がある」
「なるほどね。もし放棄されていて、まだ使える状態なら、そこを次の拠点にするつもりなのね?」
「候補にはなる。宿舎や倉庫もあるし、普通の建物より拠点として使える設備が残っている可能性も高い。ただ、寒波前の情報だけじゃ、今どうなってるかまでは分からない。放棄されていたとしても、俺たちより先に誰かが入り込んでる可能性もある」
「それもそうね。雪が止まって動けるようになったのは、私たちだけじゃないもの」
「ああ。だから近くまで行って、自分の目で確認する」
朝霧は納得したように頷いたものの、まだ聞きたいことは残っていた。
「それで、そこが使えなかった場合は?」
「その場合は別の候補に行くだけだ。分屯地は拠点以外にも目的があるしな」
「目的? なんなの?」
「まぁ、行ったらわかる」
やはり具体的な場所を言うつもりはないらしい。
朝霧は横を歩く蓮をしばらく見つめてから、半ば諦めたように息を吐いた。
「……名前で呼ばせるようになってから、少しくらい変わったのかと思ったんだけど。そういうところは相変わらずなのね」
「何の話だ」
「別に。教える気がないなら、着いてからのお楽しみにしておくわ」
今度は朝霧の方がそれ以上尋ねず、わずかに口元を緩めながら前を向いた。
二人はそうして肩を並べ、雪の残る街を北へ向かって歩き始めた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
氷河期ストレージ、いよいよ第二部スタートです!
第一部ではマンションという閉ざされた世界を舞台にしてきましたが、第二部ではついに蓮たちがマンションを飛び出し、外の世界へと足を踏み出します。
雪が止んだ世界で、人々はどう生き残っているのか。
崩れた社会の中で、どんな新しい秩序が生まれているのか。
そして蓮と朝霧が、この先どんな人々と出会い、どんな場所へ辿り着くのか。
第一部からずっと読んでくださっている皆さまはもちろん、第二部から初めて読んでくださる方にも楽しんでいただける物語にしていきたいと思っています。
もし「面白い」「続きが気になる」と思っておられましたら、
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それでは皆さま――。
新たな終末世界へ、ようこそ。




