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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第一章

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第113話 Day 100 外の世界

 雪が止んでから、約一ヶ月の時が過ぎていた。


 三ヶ月以上にわたって街を覆い続けた異常な寒気はようやく弱まり始め、外の気温も少しずつ上昇している。それでも昼間で氷点下十度を下回る日は珍しくなく、道路には今も大量の雪が残り、場所によっては放置された車の屋根さえ見えないほどだった。


 あの日、雪が止んだことに希望を抱き、マンションを出ていった住民たちは、結局誰一人として戻ってこなかった。


 食料を探しに向かった者たちは途中から連絡が途絶え、政府の保護地域を目指した者たちからも、無事に辿り着いたという知らせはない。マンションに残った住民たちは何度もグループチャットへメッセージを送り、名前を挙げて返事を求める者もいたが、外へ出た者たちから回答が返ってくることは一度もなかった。


 それでも、残された者たちは生きていかなければならない。


 住民同士で奪い合い、空き部屋を漁ってようやく手に入れた食料も、残った人数で消費すれば長くは持たなかった。最初に外へ出た者たちが帰ってこないことを知っていても、何も食べずにマンションの中で待ち続ければ、いずれ死が訪れるだけだった。


 やがて三人、五人と数人ずつの集団を作り、食料や使えそうな物資を求めて再びマンションを離れる者が現れ始め、五人で出て四人しか戻らない日もあれば、三人で出たはずなのに翌日の夜になって一人だけ帰ってくることもあった。それでも最初に出ていった者たちとは違い、わずかな食料や日用品を抱えて戻ってくる者もいた。


 彼らが持ち帰ったのは、物資だけではなかった。


 七十日以上もの間、マンションの中から断片的にしか知ることのできなかった外の世界が、帰還した者たちの口から少しずつ伝えられるようになった。


 道路には今も大量の雪と放置された車が残り、建物の中や道路脇には凍死した人間の遺体が溢れている。近隣の店や倉庫はすでにほとんど漁られており、食料を持っていると分かれば奪おうとする者もいる。雪が止まった直後より気温は上がっていたものの、それでも十分な防寒装備なしに長時間外を歩けるような環境ではなく、ほんの少し判断を誤れば、今でも簡単に命を落とす世界であることに変わりはなかった。


 政府の保護地域についても、以前とは状況が変わっていた。


 後から外へ出た住民たちは、道中で出会った避難民から、各地の保護地域がすでに大勢の人間で溢れているという話を聞いていた。施設の周囲で受け入れを待ち続ける者もいれば、いつ入れるか分からないまま食料を使い果たし、別の保護地域を目指して再び歩き始める者もいる。そこへ辿り着けば必ず助かるという場所では、もうなくなっていた。


 だが、帰還した住民たちが語った外の世界には、それまでとは明らかに違う変化もあった。


 人々が、再び集まり始めているのだ。


 ある大型商業施設では、生き残った数十人が出入口を塞ぎ、内部に残っていた物資を共同で管理しながら生活している。


 別の地域では工場に残った従業員と周辺住民が集まり、発電設備や工具を利用して一つの拠点を作っていた。


 郊外では複数の家族が倉庫に残った食料や燃料を共同で管理し、元警察官や消防関係者を中心に見張りを立て、外から来た人間を受け入れるかどうかまで自分たちで決めている場所もあるという。


 さらに、人が集まる場所では食料や医薬品、燃料や日用品を持ち寄り、それぞれが必要なものを交換する動きまで生まれ始めていた。以前のように金を払えば何でも買える社会ではない。米を持つ者は薬を求め、燃料を持つ者は食料を求める。それぞれが今持っているものを使い、生きるために必要なものを手に入れていた。


 もちろん、そのすべてが平和な場所とは限らない。暴力団の集まりや、物資を多く持つ者が支配者のように振る舞う集団、道路を塞いで通りかかった人間から食料を奪う者たちもいる。


 それでも、七十日以上の寒波によって一度ばらばらになった人間たちは、外を移動できるようになると再び他人を求め、集まり、その中で生きていくためのルールを自分たちで決め、国や自治体の秩序が届かなくなった場所で、人々は自分たちの手で新しい秩序を作り始めていた。


 ◇


 二十五階の窓際に立った朝霧は、遠くの道路を歩いていく数人の姿を目で追っていた。全員が厚い防寒着に身を包み、そのうち二人は荷物を載せた小さなソリのようなものを引いている。さらに遠くでは、除雪された道路を何台かの車両がゆっくりと進んでおり、雪が止んだ直後にはほとんど動くものがなかった街に、確実に人間の活動が戻り始めていた。


「最近、本当に増えたわね。今日だけでも、もう何組も見たわ」


 リビングのソファに座っていた蓮が、スマートフォンから顔を上げる。


「気温が上がったからな。これくらいまで戻れば、装備さえまともなら外を移動できる」


「少しずつ元に戻ってるってことなのかしら」


「いや、それはまだ無理だろうな」


 蓮はそう言ってスマートフォンをテーブルへ置くと、朝霧のいる窓際へ視線を向けた。


「電気は一部で戻り始めてるみたいだが、水道も含めて以前のようには使えない。警察や行政今だに機能してるわけじゃないし、食料が勝手に増えるわけでもない。変わったのは、人間が動けるようになっただけだ」


「でも、それだけでも大きいでしょう? 救助だって進むだろうし、離れた場所にいる家族を探しに行くこともできるようになるわ」


「奪いに行くこともできるけどな」


「……あなたは本当に、悪い方しか考えないわね」


「実際そうだろ」


 朝霧は呆れたように息を吐いたものの、反論はしなかった。


 雪が止まった直後、助かったと思って外へ出た人間の多くが命を落とした。だが、その後も気温が下がり続けたわけではなく、数日を境にゆっくりと上昇へ転じている。氷点下数十度の世界では建物から出ることさえ命懸けだったが、今なら十分な防寒装備と体力さえあれば、ある程度の距離を移動することも不可能ではない。


 その変化は、七十日以上もの間、建物の中に閉じ込められていた人間たちを一斉に外へ押し出していた。食料を探す者、政府の保護地域を目指す者、離れ離れになった家族を捜す者がいる一方で、複数人で集まり、自分たちの住む建物や手に入れた物資を守り始める者も増えている。


「外へ出た人たちの話、見た?」


「ああ」


「商業施設とか工場とか、いろんなところで人が集まって暮らし始めてるらしいわね。結局、人間って一人だけじゃ生きていけないのかしら……あなた以外の話よ」


「一人でできることには限界があるからな。食料があっても怪我や病気まで全部自分でどうにかできるとは限らないし、寝てる間まで周囲を見張ることもできない」


 朝霧はその言葉を聞くと、ゆっくり蓮の方を振り返った。


「あなたがそれを言うの?」


「俺だって全部一人でやってるわけじゃない」


「……それ、私も入ってる?」


「医者としてはな。少なくとも病気になった時に自分で診断するよりは役に立つ」


「……そういうところよ。たまには普通に『助かってる』って言えばいいじゃない」


「事実を言っただけだろ」


 朝霧は呆れながらも、どこか楽しそうに笑った。


 雪が止まったことで、止まっていた世界も再び動き始めている。ただし、それは以前の日本が戻ってくるという意味ではなかった。


 ◇


 雪の残る道路を、一台の車両がゆっくりと進んでいた。


 後部座席に座る黒崎は窓の外へ視線を向けながら、膝の上に置いた手を何度か握っては開いていた。車内には自分を含めて数人が乗っているが、周囲の人間に緊張した様子はなく、それぞれが必要な確認を済ませながら目的地への到着を待っている。


 落ち着かないのは、黒崎だけだった。


「黒崎、さっきから落ち着かないな。初めてだからって浮かれるなよ」


 向かいに座っていた男から声をかけられ、黒崎は苦笑しながら身体を座席へ戻した。


「浮かれてるつもりはないですよ。ただ、こうして外を走るのが久しぶりなんです」


「だったらなおさら気を抜くな。今のお前は見学に来てるんじゃない。何か起きれば、自分で考えなきゃならん場面だって出てくる」


「分かってます。そのために散々訓練させられましたから。しばらくは寝てても怒鳴り声が聞こえてきそうですよ」


「それくらいなら、まだ足りんな」


「勘弁してくださいよ……」


 そう答えながら、黒崎は自分がここに座るまでの日々を思い返していた。


 軍の施設で治療を受け始めてから、五日ほど経った頃だった。


 発見された直後は身体を起こすだけでも頭の奥に鈍い痛みが走っていたが、それも日に日に弱まり、今では病室の中を歩く程度なら問題なくできるようになっていた。医師からも経過は順調だと言われており、黒崎自身、そろそろ一日中ベッドの上で過ごす生活に耐えられなくなり始めていた。


 そんな昼過ぎ、病室の扉を開けて入ってきたのは岩森だった。


「よう。顔色はだいぶマシになったな。調子はどうだ?」


「かなり良くなりました。まだ激しく動くのは駄目らしいですけど、普通に歩くくらいなら問題ないって言われてます」


「そうか。それなら順調だな」


 岩森はベッド脇まで来ると、黒崎の様子を一通り確かめてから近くの椅子へ腰を下ろした。以前と変わらない態度だったが、わざわざ自分のところまで来た以上、単なる見舞いではないのだろうと黒崎にも分かった。


 それでも黒崎には、その前に聞いておきたいことがあった。


「岩森さん、俺と一緒に保護地域まで来た人たちは、その後どうなりました?」


「マンションから連れてきた連中か。何人かは別の住区に移ってるし、今もここに残ってる奴もいる。ただ……再配置になった奴もいる」


 最後の言葉を聞いた瞬間、黒崎の表情がわずかに変わった。


 ここへ来たばかりの頃なら、その言葉を聞いた瞬間に誰なのか、どこへ移されたのか、どうしてその人だったのかと問い詰めていただろう。一緒にマンションを出た者たちの中には高齢者もいたし、寒波によって体力を失った者もいた。


 黒崎は何かを言いかけたが、結局その言葉を飲み込んだ。


「……そうですか」


 岩森がわずかに眉を動かした。


「それ以上聞かんのか?」


「気にはなりますよ。誰なのかも、今どこにいるのかも。でも、それを聞いたところでもう何も変わらないじゃないですか……」


 黒崎は少しだけ視線を落としたあと、静かに続けた。


「それに、外には今も保護地域へ入れるのを待ってる人がたくさんいる。誰かが出なければ、その人たちは入れない。だからって納得できるわけじゃないですけど……それが今の現実だってことくらいは分かります。ここ数日間ただ寝ていたわけではありません……」


 岩森は何も言わず、しばらく黒崎を見ていた。


「……そうか。少しは成長したな」


「褒められてもあまり嬉しくないですね。今だって納得してるわけじゃありません。ただ、俺が納得するかどうかで現実が変わるわけじゃないって分かっただけです」


「それで十分だ。前のお前なら、今頃俺に食ってかかってただろうからな」


 岩森は小さく笑ったあと、話題を切り替えるように椅子から立ち上がった。


「それより、そんなことを言えるくらい元気になったならちょうどいい。医者から許可が出たら、教育と訓練に参加してもらうぞ。話はもう通してある」


「教育……と訓練?」


 黒崎は意外そうに聞き返した。


「俺、すぐに部隊へ入るんじゃないんですか?」


「馬鹿言え。こないだまで民間人だった素人がいきなり現場に来たところで邪魔なだけだ。お前一人が勝手に動いて死ぬだけならまだしも、お前を助けようとした奴まで巻き込まれたらどうする」


「そこまで言わなくてもいいじゃないですか……」


「事実だ。マンションで何人かまとめて動かしたとしても、こっちにはこっちのやり方がある。まずそれを覚えろ」


 黒崎にも反論できなかった。マンションから住民を連れ出し、保護地域まで辿り着いた経験はある。あの時は自分で考え、自分で判断し、自分の責任で人を動かしていた。しかし、複数の人間が一つの目的で動く組織の中では、一人の勝手な判断が全体を危険に晒すことになる。


 そして医師から許可が出た数日後、黒崎の教育と訓練が始まった。


 最初に徹底して教え込まれたのは、黒崎が想像していたような戦い方ではなかった。指示を正確に聞き、自分が理解した内容を確認し、状況が変われば簡潔に報告する。勝手な判断で持ち場を離れず、移動する時には周囲と位置を合わせ、誰か一人が遅れれば全体で把握する。民間人だった頃なら深く考えずにしていた行動の中にも、集団で動く時には許されないものがいくつもあった。


 無線の扱いにも時間を取られた。必要な情報を短く正確に伝え、誰から誰への通信なのかを明確にする。通信が途切れた場合にどう行動するのか、自分の位置をどう伝えるのか、指示を聞き取れなかった時には曖昧なまま動かず、必ず確認することまで繰り返し叩き込まれた。


 それと並行して、長期間の寒波と負傷によって落ちた体力を戻す訓練も続けられた。防寒装備を身につけた状態で歩き、荷物を持って移動し、途中で休息を挟みながら一定時間行動を続ける。自分ではもう回復したつもりだった黒崎も、最初の数日は訓練が終わるたびに脚が震えたが、距離と負荷を少しずつ増やすうちに身体は以前の感覚を取り戻していった。


 特に時間をかけられたのが、現在の日本で活動する以上避けて通れない寒冷環境への対応だった。汗をかいた状態で身体を冷やす危険、濡れた衣服や手袋を放置する危険、凍傷や低体温症の兆候を自分だけでなく同行者から見つける方法など、マンションから保護地域まで歩いた時には感覚だけで判断していたものを、今度は知識として一つずつ教え込まれた。


 応急救護についても繰り返し訓練を受けた。負傷者を見つけたからといって、周囲も確認せず真っ先に駆け寄れば救助する側まで危険に晒される。まず自分たちの安全を確認し、そのうえで負傷者の状態を見て、限られた人員と医療資源の中で何を優先するのかを判断しなければならない。


 誰から先に助けるのかという話になった時だけ、黒崎はしばらく黙り込んだ。


 以前の自分なら、目の前に倒れている人間がいれば全員を助けようとしただろう。だが、そのために救助する側まで動けなくなれば、結局は誰も助からない。頭ではなく実際の経験としてそれを知ってしまった今の黒崎には、教官の言葉を簡単に否定することができなかった。


 車両で外へ出ることを想定した教育も行われた。停車したからといって勝手に外へ出ず、周囲の状況と指示を確認してから行動すること。物資を運ぶ際には荷物だけに意識を向けず、周囲にいる人間の動きにも注意すること。雪や放置車両によって予定していた道路が突然使えなくなる現在では、目的地へ向かう経路だけでなく、戻るための経路まで常に意識しておかなければならなかった。


 さらに黒崎が何度も注意を受けたのが、保護地域の外にいる市民との接触だった。


 助けを求めて近づいてくる人間が、必ずしもこちらの指示に従うとは限らない。食料や医薬品を積んでいると知られれば、大勢が一斉に押し寄せる可能性もあるが、だからといって最初から全員を敵として扱えば、必要のない衝突を生む。相手との距離を保ち、人数や状態を確認し、自分の権限で決められないことをその場の感情だけで約束しないよう、何度も繰り返し教えられた。


 黒崎にとって、それが最も難しかった。


 目の前に腹を空かせた人間がいて、自分たちの車両には食料がある。それでも勝手に一つ渡してはいけないという考え方を、最初の黒崎は簡単には受け入れられなかった。しかし、一人に渡せば次の一人が来る。その一人にも渡せば、さらに後ろから人が集まり、やがて自分たちでは制御できなくなるかもしれない。


 善意だけで動いた結果がどうなるのかを、黒崎はすでに知っている。


 最後に教えられたのは、危険な状況に遭遇した際の基本的な対応と、支給される装備の安全な扱いだった。黒崎は短期間の教育を受けただけの民間出身者であり、いきなり一人前の戦闘員として送り出されるわけではない。


 そのため求められたのは誰かを倒す技術よりも、危険を察知した時に勝手に前へ出ず、指示された位置を守り、自分と周囲を余計な危険に晒さないことだった。


 何度も失敗し、そのたびに怒鳴られた。それでも二週間が過ぎる頃には、少なくとも最初の頃のように周囲の足を引っ張ることはなくなり、ようやく岩森から現場同行の許可が出た。


 ◇


「おい、黒崎。聞いてんのか?」


 呼ばれて、黒崎は我に返った。


「聞いてますよ。勝手に動かない、車両から降りる時は指示を待つ、何かあればまず報告する。もう何十回も言われました」


「ならいい。初日から余計なことして、岩森さんに俺が怒鳴られるのだけは勘弁してくれ」


「それは俺じゃなくて、自分で岩森さんに言ってくださいよ」


 向かいの男が小さく笑ったところで、車両が大きく揺れた。


 黒崎は窓の外を見る。


 建物の数が少しずつ増え、その間に人影が見え始めていた。


「今日って、あの辺に物資を届けるんですよね?」


「ああ。決められた場所まで運んで、向こうの担当に引き渡す。それが俺たちの仕事だ」


「それなら、さっきから警戒しろって言ってるのは強盗団か何かが出るからですか?」


 黒崎の問いに、男は一瞬だけ黙った。


「いや、そうじゃない……市民だ」


「え? 市民……ですか?」


「ああ」


 黒崎は眉を寄せた。


「物資を届けるんですよね? だったら普通は喜ぶんじゃないんですか?」


 男はそれには答えず、窓の外へ視線を向けた。


「……行けば分かる。話は終わりだ。ここからはしっかり気を締めろ」


 その声から冗談ではないことだけは分かり、黒崎もそれ以上聞くのをやめた。


 しばらくすると車両の速度が落ち、前方に大勢の人影が見えてきた。十人や二十人ではなく、道路脇や建物の前に何十人もの人間が集まっている。


「人だ。あれ、俺たちを待ってるんじゃないですか?」


 黒崎が窓へ身体を寄せ、そのまま外をよく見ようとした瞬間、隣にいた男が腕を強く掴んだ。


「馬鹿野郎、窓を開けるな!」


「え?」


 直後、車体に激しい音が響いた。


 バンッ、ドン、バン!


 黒崎が反射的に身を縮めると、今度は車体や窓に何かがぶつかり、鈍い音を立てて跳ね返っていく。道路脇に集まっていた人々が、石や手にした物をこちらへ投げつけていた。


「この政府の犬が!」


「おいこら! 食い物よこせ!」


「俺の家族を返せ! このくそ政府どもが!」


「私の……私のお母さんが死んだのはお前らのせいだ!」


 次々と浴びせられる怒声に、黒崎は言葉を失った。


 そこにいたのは、武装した強盗団ではなかった。頬のこけた男もいれば、子供を抱いた女もいる。老人の姿もあり、誰もが汚れた防寒着を何枚も重ね、長い避難生活によって疲れ切った顔をしていた。


 それでも彼らが軍の車両を見る目には、助けが来たことへの安堵などなかった。


 あるのは、明確な憎しみだった。


「……どうして。俺たち、物資を届けに来たんですよね? それなのに、なんであんな……」


 向かいに座っていた男は、しばらく外を見たまま黙っていた。


「保護地域に入れなかった奴や、助けを待ってる間に家族を亡くした奴らだ。今はどこも余裕がない。空きが出るのを待ってる奴もいれば、何度申請しても入れない奴もいる。家族の中で一人だけ対象から外れた奴もいるし、ここへ来るまでに家族を失った奴もいる。あいつらからすれば、政府は自分たちを裏切った悪者だ」


「でも、それは……全部受け入れたら、中にいる人たちまで危なくなるから……」


「そうだ。こっちにだって事情はある。場所にも食料にも限界がある以上、全員を受け入れることはできないし、助けられない。今誰かを生かすために、誰かを見捨てるって習ったろ」


 また一つ、石が車体へぶつかった。


「俺たちはそれを知ってるし、お前も今は分かってる。でもな、外で家族を死なせた人間に同じことを言って、それで納得できると思うか?」


 黒崎は何も言えなくなった。


 自分は少し前まで、彼らと同じ側にいた。政府の保護地域へ辿り着けば助かると信じ、マンションの住民たちを連れて雪の中を歩いた。その扉の内側へ入ることができたからこそ、生きていけた。


 だが、全員が同じように入れたわけではない。


 自分たちが中へ入った時にも、その外側には順番を待っていた人間がいた。そして雪が止まった今、各地から移動できるようになった人々がさらに集まり、その数は増え続けている。


「死ねや! この人でなしども!」


 外から再び怒声が飛んできた。


 ほんの少し前までただの民間人だった自分が、今はその言葉を浴びせられる側に座っている。


 向かいの男はそんな黒崎の表情を見ると、慰めることなく窓の外へ視線を戻した。


「覚えとけ、黒崎。お前がこれから見るのは、お前が倒れた時とは別世界だ。誰か一人を助ければ終わる話でもないし、正しいことをしたから感謝されるとも限らない」


 男は少し間を置き、低い声で続けた。


「もうこの国は、とっくに以前の日本じゃねえんだよ」


 ◇


 その日の夕方、蓮のスマートフォンに見覚えのない番号から着信が入った。


 一度目は無視したものの、数分もしないうちに同じ番号から再び着信が入り、蓮はしばらく画面を眺めてから無言で通話を繋いだ。


「……」


『……神崎さんですか?』


 男の声だった。


「誰だ?」


『よかった……生きてたんですね。俺ですよ。寒波が来る前、マンションの工事をやった――』


 そこまで聞いて、蓮はようやく相手を思い出した。寒波が来る直前、この部屋を要塞へ変えるための工事を担当していた責任者だった。


「生きてたのか」


『なんとかですがね……神崎さんは、ずっとあの部屋にいたんですか?』


「ああ」


『本当に運がよかったですね……。まさか世界がこんなことになるとは想像していませんでしたよ』


「そうだな。たまたまだ」


『……寒波中、大変だったんじゃないですか』


「なんとか生きてる。それより、何の用だ?」


 電話の向こうで男が一瞬黙り、やがて先ほどまでとは違う慎重な声で話し始めた。


『俺、ずっと考えてたんですよ。あの工事……やっぱりおかしかったですよね。寒波が来る直前に、あれだけ急いで壁を補強して、普通のマンションじゃ使わないような扉まで入れて、屋上まで弄った。その直後に、こんなことになった』


「それで?」


『神崎さん……あんた、何か知ってたんじゃないですか? あの寒波が来ることを』


 蓮は否定しなかった。


 この男がそう考えた時点で、すでに問題は生まれている。ここで否定したところで、一度抱いた疑念まで消すことはできない。


「今どこにいる?」


『え?』


「食料は残ってるのか?」


 電話の向こうで再び沈黙が続いた。


『……ほとんどないです。だから、その……神崎さんがもし何か持ってるなら、少しだけでも分けてもらえませんか?』


「……少しならある」


『本当ですか!?』


 それまで探るようだった男の声が、一瞬で変わった。


「もうあまり多くはないが、変な噂が立って次々来られても面倒だ。少し分けてやるから、来れるなら来い」


『行きます。今なら移動もできます! すぐにでも行けます!』


「ああ。ただし一人で来い。大勢連れてこられても分けるものはない」


『分かりました。絶対に誰にも言いません。だから俺の分だけは――』


「来たら渡す。着いたらまた電話してくれ」


 蓮はそれだけ告げて通話を切った。


「……誰だったの?」


 記録日記を書いていた朝霧が、蓮の表情を見ながら尋ねた。


「寒波が来る前、ここの工事に関わった人間だ」


「よかった……生きてたのね。それで、ここに来るの?」


「ああ。食料を分けてほしいらしい」


 蓮はスマートフォンをポケットへ入れながら立ち上がった。朝霧は何かを言いかけたものの、その表情を見たところで口を閉じ、それ以上は何も尋ねなかった。


 ◇


 それからしばらく時間が経ち、蓮のスマートフォンに先ほどと同じ番号から再び着信が入った。


「着いたのか?」


『もう近くです。あと十分くらいでマンションに着くと思います』


「分かった」


『そのまま部屋まで行けばいいですか?』


「いや、マンションにはまだ人が残ってる。食料を渡してるところを見られたくない。近くまで来たら、そこで待ってろ」


『分かりました。着いたらもう一度連絡します』


 通話を切った蓮は、すぐに外へ向かうことはせず、先に監視室へ足を運んだ。


 壁に並ぶモニターには、エントランスや各階の廊下、階段など、マンション内の様子が映し出されている。以前なら時間帯に関係なく誰かしらの姿があったが、雪が止まってから住民の多くが外へ出るようになったこともあり、今では人影そのものがほとんど見当たらなかった。


 蓮は画面を切り替えながら、しばらくマンション内の様子を確認した。


 エントランスに人はいない。廊下にも動いている者はおらず、階段を使っている者も見当たらない。


 それを確認してから監視室を出ると、蓮は防寒着を身につけて玄関へ向かった。


「……外に出るの?」


 ソファに座っていた朝霧が尋ねる。


「ああ。すぐ戻る」


 それだけ答え、蓮は何も持たずに2501を出ていった。


 朝霧は閉じた扉をしばらく見つめていたが、蓮がどこへ向かうのかを尋ねることはなかった。先ほどの電話を聞いていた以上、その理由を聞く必要もなかった。


 それから三十分も経たないうちに、玄関の扉が再び開いた。


 戻ってきた蓮は靴についた雪を落とし、防寒着を脱ぐと、何事もなかったようにリビングへ入ってきた。


 朝霧はソファに座ったまま蓮の姿を目で追ったが、食料を求めてここへ向かっていたはずの男について尋ねることはなく、蓮も何も説明しなかった。


 以前なら、このマンションまで辿り着ける人間などほとんどいなかった。七十日以上にわたって降り続けた雪と異常な寒さそのものが巨大な壁となり、外の人間を遠ざけていたからこそ、二十五階にあるこの部屋は安全だった。


 しかし、今はもう違う。


 気温が上がれば、人は動くようになる。人が動けば物資だけではなく情報も動き、今回の男一人がいなくなったところで、寒波の直前にこの部屋を異常なほど要塞化した事実まで消えるわけではない。工事に関わった人間は他にもいるし、記録が残っている可能性もある。


 何より、外の世界そのものが変わり始めている。


 七十日以上、自分を守り続けてくれたこの部屋は十分に役目を果たした。だが、これから先も生き延びるつもりなら、一つの場所に閉じこもり続けることが最善とは限らない。


 蓮は窓際まで歩き、しばらく外の街を眺めたあと、ソファに座っている朝霧へ声をかけた。


「なぁ」


「え? どうしたの?」


「ここを出ようと思う」


 突然の言葉に、朝霧はしばらく何も言えず、ただ蓮を見つめていた。


「……このマンションを出るってこと? さっきの人のことが原因なの?」


「それもある。今までは誰かが俺のことを知っていても、ここまで来られなかったから問題にならなかった。でも、これからは違う。ここに残り続けるより、もっと安全な場所を探した方がいい」


 そこで蓮はようやく振り返り、朝霧を見る。


「お前も来るか?」


 朝霧は一瞬だけ目を丸くした。これまでの蓮なら、自分がどうするかを決めたあと、それについて来るかどうかをわざわざ尋ねるようなことはしなかったかもしれない。


 けれど朝霧は、その小さな変化を指摘することなく、すぐに笑みを浮かべた。


「ええ、一緒に行くわ。それに断ったら、あなたに消されそうですしね」


 蓮は何も言わず、ただ無言のまま朝霧を見つめていた。


「……なによ。そこで黙られると、本当に怖いんだけど」


 朝霧は苦笑すると、テーブルの上に置かれていた一冊のノートへ目を向けた。


「私もあなたについて行きたいの。この変わり果てた世界がこれからどうなっていくのか、それに、あなたがこれからどんな生き方をしていくのかも記録したい。せっかくここまで書いたんだから、途中でやめるのももったいないでしょう?」


 そう言って、朝霧は指先でノートを示した。


 表紙には、彼女自身が書いたタイトルが残っている。


 ――氷河期ストレージ。


「今より大変になると思うぞ」


「平気よ。しばらくここで暮らしてたから忘れかけてたけど、私だって以前は外で生きてたんだから。あなたがいなければ何もできないほど柔じゃないわ」


「そうか。なら好きにしろ」


「……もっと他に言い方はないの? まあ、いいわ。それで、どこか行くあてはあるの?」


「候補はある。外の状況を見ながら、ここより安全な場所に行くつもりだ」


 朝霧は少し考えるように蓮を見つめた。


「今度も一人……いえ、私と二人だけで生活する気?」


 その問いに、蓮はすぐには答えなかった。


 以前なら考えるまでもなかった。必要以上に他人を近づければ、それだけ裏切られる可能性が増える。誰かを助ければ感謝されるとは限らず、善意が自分を救ってくれるわけでもない。それを一度目の人生と、この七十日以上の時間で嫌というほど知っている。


 それでも今は、以前とまったく同じ答えを返すことはできなかった。


「状況が変わったからな。場所にもよるが、必要があれば合理的に判断するつもりだ」


「そう……あなた、少しは変わった?」


「どうだろうな。自分では分からない」


「そういうものかもしれないわね」


 朝霧は小さく笑ったあと、何かを思いついたように蓮の顔をじっと見つめた。


「でも、復讐も終わったんだし、そろそろそのぶっきらぼうな顔はどうにかならない? せっかくの第二の人生なんだから、これからはもう少し楽しく生きたらどうなのよ」


「……何が言いたい?」


「ちょっとは笑ってみたら?」


 蓮はしばらく黙ったまま、朝霧を見つめた。


「……俺が?」


「他に誰がいるのよ。ほら、一回くらい笑ってみなさいよ」


 朝霧は面白がるように自分の口元を指差した。


 蓮はしばらくそんな朝霧を無言で見つめていたが、やがて仕方なさそうに口の端を持ち上げた。


 ニタァ――。


 笑顔というより、これから何か悪いことを企んでいる人間の顔だった。


 朝霧の笑みが消える。


「……うん。ゆっくりでいいわよ」


 蓮は自分でも何か違うと思ったのか、わずかに眉を寄せると、持ち上げていた口元をゆっくりと元に戻した。


「……お前が笑えって言ったんだろ」


「言ったけど……期待した私がバカだったわ」


「なら二度とやらない」


「もう、極端ね。冗談よ」


 朝霧が呆れながら笑う。


 蓮はそんな彼女を見ていたが、やがて何かを考えるように視線を逸らした。


「……朝霧」


「何?」


「これからは……蓮でいい」


 思いもしなかった言葉に、朝霧は一瞬きょとんとしたように目を瞬かせた。やがてその意味を理解すると、今度は驚いたように目を大きく見開く。


「え? 今なんて……」


「これからは俺のことを蓮と呼んでいい」


「……本当に?」


「聞こえてただろ。二回も言わせるな」


 朝霧はしばらく蓮を見つめていた。からかっている様子も、冗談を言っている様子もないのに、蓮はなぜかこちらと目を合わせようとしない。


 やがて朝霧の表情が、ゆっくりと柔らかくなった。


「うん。分かったわ、蓮……」


 名前を呼ばれた瞬間、蓮はどこか気まずそうに窓の方へ顔を向けたが、そのわずかな変化を朝霧が見逃すはずもなかった。


「あれ? 照れた? 今、絶対照れたわよね?」


「うるさい」


「ははっ、そういうところもあったんだ。ねえ、蓮?」


 朝霧は楽しそうに笑うと、ふと思いついたように続けた。


「じゃあ、私のことも詩織って呼んでいいわよ」


「いや、朝霧でいいだろ」


「……なんでよ」


 不満そうな朝霧をよそに、蓮は何事もなかったように窓の外へ視線を向けた。


 楽しそうに笑う朝霧を相手にするのをやめ、蓮は窓の外へ視線を向けた。


 眼下には、雪に埋もれた街が広がっている。


 七十日以上も世界を閉ざしていた雪はもう降っていないが、以前の社会が戻ってきたわけでもない。


 政府の保護を求めて歩き続ける者がいる一方で、自分たちだけの居場所を作る者もいる。他人と手を取り合って生きようとする者もいれば、他人から奪うことで生き延びようとする者もいる。


 壊れた社会の上で無数の小さな秩序が生まれ始めたこの国が、これからどこへ向かうのかはまだ誰にも分からなかった。


 蓮にも、その答えは分からない。だが、この先も生き抜くために、自分が何をすべきなのかだけは決まっていた。


「今度は、ここよりもっと頑丈な居場所を見つける」 


 朝霧が隣から蓮を見る。


「見つからなかったら?」


 蓮は窓の向こうに広がる街を見つめたまま答えた。


「その時は作る。ここよりもっと頑丈な要塞を、俺が作ってみせる」


 この寒波が本当に終わったのか、それとも再び世界を凍らせる日が来るのかは分からない。外の世界に何が待っているのかも、これからどれだけの人間と出会い、どれだけの人間を失うことになるのかも、今の蓮には知ることができなかった。


 それでも、再びこの世に戻ったあの日から、ただ一つだけ変わらない決意がある。


 今度こそ、必ず生き延びてみせる――

ここまで『氷河期ストレージ』をお読みいただき、本当にありがとうございました!

これにて、第一部は完結となります。


そして――

蓮たちの物語は、次話から第二部へ続きます。

マンションを出た蓮たちが初めて目にする、氷河期を生き延びた外の世界。

新たな出会い、新たな脅威、そして再び動き始める世界を描く第二部。


それでは皆さま――

次話、第二部で、またお会いしましょう!

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― 新着の感想 ―
ここも危なくなりそうだもんね。
 まあそういう判断になるよね。  「関係者」がまた来るかもしれないし、情報が漏れて目をつけられてからじゃ移動も難しいし。  安全確保が最優先ならば今は動く時でしょうね。  色々な設備やツールを収納した…
そら建設に関わった人は来るよね
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