第112話 Day 72 雪は止んでも
雪が止んだ。
七十日以上にわたって街を白く塗り潰し、窓の向こうに見える景色さえ日に日に変えていった雪が、何の前触れもなく止んでいた。
しかし、その異変に気づくより先に、多くの住民が見つめていたのは窓の外ではなくスマートフォンだった。
食料の争いが終わってからもマンションのグループチャットは残っていたが、以前のように情報を共有するための場所として機能しているわけではない。誰かが助けを求め、それを読んだ住民たちが何も答えず画面を閉じる、そんな光景だけが朝から繰り返されていた。
『お願いします。ほんの少しで構いません。少しだけ食料を分けてください。昨日から何も食べていません』
午前九時を少し過ぎた頃、一件のメッセージが投稿された。
投稿した住民が何度も画面を確認するものの、その後新しい書き込みはなかった。それでも既読の数字だけは一つ、また一つと増えていき、十分ほど経った頃には多くの住民が読んだことを示していたが、返事をする者は結局誰もいなかった。
やがて別の住民が、それでも縋るように新たなメッセージを送った。
『子供がいます。缶詰一つでも、乾麺を少しだけでも構いません。少し分けて頂ける方がいたらお願いします』
『水だけでもいいです。必ず返します。お願いします』
二つの書き込みにも、やはり返事はなかった。
少し前までなら、こんな沈黙にはならなかった。自分たちにも余裕がないと拒む者、それを批判する者、少なくとも住民同士で話し合おうとするだけの余地は残っていた。
今は、もうそれすらない。
柴田たちがいなくなったあと、残された住民たちはわずかな物資を巡って争い、昨日まで同じ建物で暮らしていた相手を殴り、奪い、中には命すら奪うこともあった。誰かを助ければ、その分だけ自分が死に近づく。そんな現実を七十日以上思い知らされた者たちに、他人である隣人を救う余裕など残されていなかった。
返事のない画面には、ただ既読の数字だけが並んでいた。
そんな重苦しい沈黙を破ったのは、食料を求める言葉ではなかった。
『おい、雪止んでるぞ!』
その一文が投稿された直後、それまで死んだように静まり返っていたグループチャットが、突然息を吹き返した。
『え? 本当か?』
『本当だ! 外見てみろ!』
『マジで止んでる!』
『今なら外に行けるんじゃないか!?』
部屋の奥でスマートフォンを眺めていた者たちが、一斉に窓へ向かった。
そこには、七十日以上見続けてきた景色とは明らかに違う世界が広がっていた。街そのものは膨大な積雪に埋もれたままだったが、空を覆い続けていた雪雲はいつの間にか薄れ、久しぶりに淡い空の色まで覗いている。
視界を絶え間なく横切っていた白い粒も消え、窓ガラスを叩き続けていた雪の音もない。雪によって霞んでいた遠くの建物まで、今でははっきりと輪郭を見せていた。
雪が止んだ。
たったそれだけの変化だった。
それでも、飢えと寒さの中で何日も部屋に閉じ込められていた住民たちにとっては、とうに失ったはずの希望を取り戻すには十分だった。
『でも、またすぐ降り出すかもしれないですよ……』
誰かが慎重な言葉を投げたが、今度は返事が来るまで数秒とかからなかった。
『だったら余計に今しかないだろ』
『俺は出るぞ。このまま待ってても飢え死にだ』
『近所なんてもう何も残ってないぞ。前に探しに出た連中が全部漁ってる』
『もっと遠くまで行けば何かあるかもしれない』
『保護地域に行くのは? 雪が止んだなら、今なら行けるんじゃないか?』
その言葉をきっかけに、住民たちの考えは二つに分かれていった。
まだ誰かに奪われていない食料を探すため、これまで足を伸ばせなかった場所まで行こうとする者。そして、わずかに残された政府の保護を求め、この機会に保護地域まで辿り着こうとする者。
どちらが正しいのかは誰にも分からない。ただ、このままマンションに残るという選択肢だけは、すでに多くの住民の中から消えていた。
『俺は出る。今さらもう、ここで食料を奪い合いたくない。昨日のこと覚えてるだろ。もう全員狂ってる。このまま残ったって、食い物がなくなれば次に奪われるのは誰かの命だ』
少し長いそのメッセージが投稿されても、反論する者はいなかった。
昨日、彼らは見てしまった。
共通の敵がいなくなった途端、それまで同じマンションで暮らし、一緒に外敵と戦っていた者たちが、残された食料を巡って互いに牙を剥く姿を。あの場にいた誰もが、自分だけは違うと言い切ることができなくなっていた。
『じゃあ出る奴は一階に集合しよう。物資を探す奴も、保護地域に行く奴もだ。外の状況を見てから分かれればいい』
その書き込みを最後に、チャットは再び静かになった。
今度は諦めたからではない。
住民たちが、それぞれの部屋から出始めたからだった。
◇
一階のエントランスには、思っていた以上の人数が集まっていた。
着られるだけの服を重ね、その上からコートやダウンジャケットを羽織った者たちは、手袋を二重にし、顔のほとんどをマフラーや布で覆っていた。それでも長期間の飢えによって痩せた身体を隠し切ることはできず、以前なら十分に暖かかったはずの防寒着も、今では中身だけが一回り小さくなったように見える。
背負っているリュックや手提げ袋の中には、ほとんど何も入っていなかった。食料を探しに行く者は持ち帰るために空けておく必要があり、保護地域を目指す者でさえ、道中を乗り切れるだけの食料など最初から持っていない。
代わりに、包丁やバール、金属製の棒を手にしている者が何人もいた。
七十二日前なら、マンションのエントランスで刃物を持った人間が立っていれば、それだけで警察を呼ぶ騒ぎになっただろう。しかし今では誰も気に留めず、むしろ何も持たずに外へ出ようとしている人間の方が不用心に見える。
それほどまでに、この七十二日間で彼らの常識は変わっていた。
「俺たちは食料を探す。近場はもう駄目だろうから、駅の向こうまで行ってみる」
一人の男がそう言うと、十人ほどがその周囲へ集まった。
「こっちは保護地域を目指す。今日中に着ける距離じゃないし、今の道路がどうなってるかも分からない。学校とか公共施設を使って、休める場所を確保しながら進むつもりだ」
「場所は分かるのか?」
「正確には分からない。でも、前に政府が流してた情報を保存してる人がいる。大体の方向は分かる」
「何日かかるんだよ……」
不安げな声が上がる。
答えを求めるように何人もの視線が集まったが、男は少し黙ったあと、正直に首を横へ振った。
「分からないよ。でも……ここにあと何日いられる?」
それだけで十分だった。
誰も続きを言えなくなった。
マンションに残っても食料は増えず、住民をまとめる者もいない。それどころか、昨日まで一緒に暮らしていた人間が、明日には自分の食料を奪う相手になるかもしれない。
政府の保護地域がどんな場所なのか、そもそも辿り着いたところで受け入れてもらえるのか、それすら誰も知らなかった。それでも「政府」という言葉だけが、壊れ始めた世界にまだ残っている最後の希望のように思えた。
やがて、一人の男が窓が破られているエントランスの扉へ手をかけた。
七十日以上。
あの扉の向こうは、死ぬかもしれない場所だった。
今もそれは変わっていない。
それでも、男はゆっくりと扉を開いた。
「……行こう」
誰かが小さく呟いた。
その声を合図にするように、住民たちは一人、また一人と、七十日以上閉じ込められていたマンションから白い世界へ踏み出していった。
◇
二十五階では、朝霧が壁面モニターに映るエントランスの様子を黙って見つめていた。
大勢の住民が次々と外へ出ていく光景を眺めながら、彼女は胸の前で腕を組む。昨日まであれほど荒れていたマンションが静まり返っているのは、平穏が戻ったからではない。そこに暮らしていた人間そのものが、少しずついなくなろうとしているからだった。
「……外に行くようね」
後ろのソファに座っていた蓮は、手にしていたカップをテーブルへ置いてモニターを一瞥した。
「そうみたいだな」
「結構な人数が出ていったわよ。大丈夫かしら……」
朝霧の心配をよそに、蓮の表情はほとんど変わらなかった。
「さあな。雪が止んだからといって、外が安全になったわけじゃない。あれだけ積もった雪が消えたわけでもないし、道路がまともに使える保証もない。それに七十日以上経ってるんだ。歩いて行ける範囲に食料が残ってると思わない方がいい」
「それはそうでしょうけど……」
朝霧はモニターから目を離さず、少しだけ声を落とした。
「だからって、ここにいたってもう……」
「そう。だから出るしかない」
蓮は朝霧が言い終える前に答えた。
「マンションに残ったところで食料は増えない。昨日みたいなことを繰り返して、残ってるものを奪い合うだけだ。外に出れば死ぬかもしれないが、ここに残っても先がないなら、少しでも可能性がある方へ賭けるのは間違ってない」
「……無事だといいけど」
「他人なんてどうでもいい」
あまりにも迷いのない返事に、朝霧はようやくモニターから目を離し、呆れたように蓮を見る。
「もう……そういうところ、本当に変わらないわね」
「今さら変わる理由もないだろ」
蓮はそう言って立ち上がると、それ以上住民たちに興味を示すこともなく、キッチンの方へ歩いていった。
「新しいコーヒー淹れるけど、いるか?」
「……いる」
「砂糖は?」
「いらない」
「……ん? 逆じゃないか?」
こんな時にまるで七十二日前と変わらない朝を過ごしているような会話だった。
朝霧は思わず小さく笑いが漏れたが、それでもモニターの前から離れなかった。最後尾を歩いていた住民がエントランスを抜け、その背中が雪に覆われた敷地の向こうへ少しずつ小さくなっていく。
やがて、その姿も見えなくなった。
それからようやく、朝霧はモニターから目を離した。
◇
外へ出た住民たちは、マンションの中から眺めていたのとはまるで違う街の姿を目の当たりにしていた。
雪が止んだことで視界は以前より遥かに開けていたが、そのおかげで、これまで吹雪に隠されていたものまで見えるようになっていた。
道路の両側には放置された車が雪に埋もれたまま列を作り、そのほとんどは完全に姿を消している。衝突したまま乗り捨てられた車の横には、人間らしき形が雪から半分だけ姿を現していた。
「……あれ、人だよな」
誰かが足を止めた。
近づくまでもなかった。
雪から突き出した上半身は完全に凍りつき、顔には薄く氷が張っている。開いたままの目は白く濁り、その身体がいつからそこにあったのかさえ分からない。
最初の一人を見たとき、誰もが言葉を失った。
だが、その少し先にも女が倒れていた。
さらに歩けば、建物の入口付近に何人もの死体が折り重なり、その向こうでは車の中で凍りついた家族らしき姿まで見えた。雪が降り続いていた頃には完全に埋もれていた死体も、風によって表面の雪が削られたことで、街の至るところから少しずつ姿を現していた。
マンションの窓から眺めていただけでは分からなかった。
七十日という時間の中で、この街では数え切れないほどの人間が死んでいた。
食料を求めて外へ出た者もいれば、自宅から避難しようとして途中で力尽きた者もいるのだろう。死体のそばに空になった鞄が落ちていることもあれば、頭部に明らかな傷を残したまま雪に埋もれている者もいた。
初めのうちは死体を見つけるたびに足を止めていた住民たちも、十分、二十分と歩くうちに次第に何も言わなくなった。
死体があることに慣れたわけではない。
立ち止まっていては、どこにも辿り着けないほど多かったのだ。
◇
物資探索組が最初に入ったのは、マンションからそれほど離れていないコンビニだった。
入口のガラスはとうの昔に割られ、店内には吹き込んだ雪が積もっている。外から見ただけでも棚がほとんど空なのは分かったが、それでも男たちは諦め切れず、床に散らばった商品棚を一つずつ確認しながら奥へ進んだ。
「バックヤードを見ろ。表になくても奥に残ってるかもしれない」
何人かがすぐに駆け込んだが、数分もしないうちに肩を落として戻ってきた。
「何もない。箱まで全部開けられてる」
次に向かったスーパーも同じだった。シャッターは大きく歪み、誰かが無理やりこじ開けた跡が残っている。食品売り場はもちろん、調味料や飲料、ペットフードまで持ち去られており、バックヤードには空になった段ボールだけが散乱していた。
その次のドラッグストアでは、薬どころか栄養補助食品の一つも残っていなかった。
「……ここまで何もねえのかよ」
男の一人が、空になった棚を蹴った。
「七十日だぞ。俺たちだけが探してたわけじゃない」
「じゃあどうするんだよ。このまま帰るのか?」
誰も答えなかった。
空のリュックを背負ってマンションへ戻ったところで、今日を生き延びても明日はない。それが分かっているからこそ、誰も帰ろうとは言えなかった。
結局、彼らは駅を越えることにした。
雪に足を取られながら、これまでマンションの住民たちがほとんど探索していなかった地域まで進み、何軒もの店を調べた。それでも見つかるのは破られた包装や空箱ばかりで、時間が経つにつれて「何かあるかもしれない」という期待さえ薄れていった。
だからこそ、一軒の小さな店舗の奥で段ボール箱を見つけたとき、最初に中身を確認した男はしばらく声を出せなかった。
「……おい」
かすれた声に、他の者たちが集まる。
倒れた棚のさらに奥、誰かが見落としたのか、それとも雪と家具に塞がれて手を出せなかったのか、段ボール箱がいくつか残されていた。
凍えて感覚の鈍った指でテープを剥がし、中を開ける。
缶詰、レトルト食品、乾麺。
決して大量ではなかった。
それでも男たちの目には、それが宝の山に見えた。
「……あった。本当にあった……」
男は箱の縁を掴んだまま、俯いた。
何日もまともに食べていなかったのだろう。肩が小さく震え、やがて床へ落ちた涙が薄い埃に染みを作った。
「これだけあれば、しばらく持つ」
別の男も笑っていた。
「全部持って帰ろう。みんなで分ければ――」
そこまで言ったところで、一人が突然顔を上げた。
「待て」
喜びに満ちていた空気が一瞬で消える。
外から、雪を踏み締める音が聞こえた。
一人ではない。
何人もいる。
男たちは互いに顔を見合わせ、反射的に食料の入った段ボールを背後へ隠そうとした。しかし、入口から姿を現した者たちの目は、すぐにその箱を捉えていた。
相手もまた、彼らと大して変わらない姿をしていた。
汚れた防寒着を何枚も重ね、頬は痩せこけ、唇は乾いてひび割れている。男だけではなく女もいたし、まだ二十歳を少し過ぎた程度にしか見えない若者もいる。
いかにも人を襲って生きてきた強盗には見えなかった。
ただ、飢えていた。
だからこそ、段ボールの中身を見た瞬間に変わった彼らの目を、探索組の誰も見間違えなかった。
「……それ、食い物か?」
先頭にいた男が尋ねた。
探索組の一人が箱の前へ立つ。
「俺たちが見つけた」
「そうか」
男は一度だけ頷き、それから手に持っていた金属棒を下ろしたまま言った。
「じゃあ、それ置いてけ」
「ふざけんな! 俺たちだって何日もまともに食ってないんだ」
「こっちは二日だ」
「だから何だよ!」
「二日、何も食ってねえんだよ!」
男の怒鳴り声が店内に響いた。
それを合図にしたように、両方の集団がそれぞれ持っていた棒や刃物へ手を伸ばす。
ほんの数ヶ月前なら、同じ街ですれ違っていたかもしれない。電車の隣の席に座り、同じ店で買い物をし、互いの存在すら意識しないまま暮らしていた者たちだった。
今、その間にあるのは少量の食料だけだった。
「……半分だ」
探索組の男が、ゆっくり両手を見える位置まで上げた。
「半分なら分ける。それでいいだろ。ここでやり合ったって、どっちも得しない」
相手の男が黙る。
男は食料と探索組を見比べたまま、しばらく黙っていた。話が通じるかもしれない
――そう思った次の瞬間、一歩踏み込んだ男の金属棒が振り抜かれ、鈍い音が店内に響いた。
「……え?」
食料を分けようと言った男の身体が、その場へ崩れ落ちた。
床へ倒れた男を見下ろしながら、殴った側の男自身も荒い息を吐いていた。手が震えている。人を殴り慣れているようには見えなかった。
それでも、もう後戻りはできなかった。
「てめえ!」
怒号が上がった瞬間、両者が一斉に動いた。
数箱の食料を挟んで始まった争いに、話し合いの余地はもう残されていなかった。
◇
政府の保護地域を目指した者たちは、物資探索組とは別の道を進んでいた。
彼らも今日中に目的地へ辿り着けるとは考えていない。災害前なら車で移動できた距離でも、道路の多くが雪に埋まり、どこが通れるのかさえ分からない今では、数キロ進むだけで何時間かかるか予想もつかなかった。
そのため、保存していた地図を頼りに学校や公共施設、大型店舗などを途中の休息地点として使い、数日かけて保護地域を目指す計画を立てていた。
ところが、マンションを出て数時間もしないうちに、彼らは自分たちと同じ方向へ進む人影を見つけた。
初めは十人ほどに見えた。
近づくにつれ、その先にも人がいることが分かる。
「……あの人たちも避難してるのか?」
声をかけてみれば、答えは予想した通りだった。
「あんたらも保護地域へ?」
「ああ。そっちもか?」
「そうです」
「なら一緒に行こう。人数が多い方が何かあったときに助け合える」
断る理由はなかった。
さらに進めば、また別の集団と出会った。
そこには小さな子供を背負った父親がいて、高齢の母親を左右から支えながら歩く家族もいた。荷物を載せた小さなソリを引く者、足を痛めたのか一本の棒を杖代わりにして歩く者もいる。
誰もが同じだった。
雪が止んだのを見て、今しかないと思ったのだ。
「政府のところまで行けば大丈夫だ」
誰かがそう言えば、疲れ切った顔をしていた者たちも少しだけ表情を緩めた。
「暖房もあるって聞いた」
「食事も出るんだろ?」
「医者もいるはずだ。うちの子、ずっと咳が止まらなくて……」
誰も実際の保護地域を見たことはなかった。
そこがどれほどの人数を受け入れられるのかも、自分たちに入る資格があるのかも知らない。それでも、七十日以上誰からも助けてもらえなかった人々にとって、政府という存在は最後に残された希望だった。
昼を過ぎる頃には、マンションを出たとき十数人だった集団は、同じ方向を目指す者を次々と吸収し、数十人規模の長い列になっていた。
不思議なことに、人が増えるほど空気は少しずつ明るくなった。
一人で歩いていれば、いつ力尽きても誰にも気づかれない。しかし大勢なら、誰かが転べば手を貸してくれる。疲れた子供を別の大人が代わりに背負い、歩けなくなった老人の荷物を若い男が持つこともあった。
極限状態の中で忘れかけていた、人が人を助ける光景がそこにはあった。
だから、誰も最初は気に留めなかった。
足元を、細かな雪が流れ始めたことに。
「……風、出てきたな」
一人が空を見上げた。雪は降っておらず、七十日以上も街を覆っていた雪雲もすでに薄れている。
それなのに、強まり始めた風が地表に積もった雪を削り取り、白い煙のように道路の上を這わせていた。
初めは足元を流れる程度だった雪も、風が強くなるにつれて次第に高く舞い上がり、やがて前を歩く人間の輪郭まで白く霞ませ始める。
「ちょっと待て……何これ、まずくないか!?」
誰かの声に、ようやく集団全体が異変を意識した。
「近くに入れる建物は!?」
「さっきの学校まで戻るか!?」
「戻るって、どっちだよ!」
強い風が吹き抜けた次の瞬間、舞い上がった雪が周囲を覆い、視界は一気に真っ白になった。
数十人が連なっていたはずの列が、まるで最初から存在しなかったかのように白の中へ消える。数メートル前を歩いていた人間の背中さえ見えず、互いに叫び合っている声だけが風の向こうから聞こえてきた。
「離れるな! 近くの人間から絶対に離れるな!」
誰かが叫んでいた。
しかし、誰が叫んでいるのか分からない。
「お父さん!」
子供の泣き声が聞こえた。
「ここだ! 動くな! 今行くから!」
別の場所から、女の悲鳴が重なる。
「待って! 母が転んだんです! 誰か、お願い!」
その声を聞いて振り返ろうとした男の腕を、隣にいた人間が掴んだ。
「行くな! お前まで見えなくなる!」
「でも人が倒れてるんだぞ!」
「分かってる! でも戻ったら俺たちも道が分からなくなる!」
「誰か! お願い! ここです! ここに――」
女の声はまだ聞こえていた。
数十メートルどころか、ほんの数メートル先にいるのかもしれない。それほど近くにいるはずなのに姿はまったく見えず、助けに向かえば、今度は自分まで同じ白の中へ消えることになる。
「……どっちだ」
別の男が震える声で呟いた。
手にしていた地図を開いても、現在地を示すものが何も見えない。道路も、交差点も、目印にしていた建物も、すべてが白の向こうへ消えていた。
「保護地域……どっちなんだよ……」
誰も答えられなかった。立ち止まれば身体から急速に熱を奪われ、だからといって歩き続けても、自分たちが目的地へ近づいているのかさえ分からない。
さっきまで互いを励まし合い、政府の保護地域まで辿り着けば助かると信じていた数十人の集団は、地吹雪が始まってわずか数分で、互いの姿さえ確認できない小さな集団へと分断されていた。
それでも雪は、空から一粒も降っていなかった。
◇
その頃、二十五階では朝霧がコーヒーカップを片手に窓際へ立っていた。
何気なく室内の表示へ目を向けた彼女は、そこに表示されている数字を見て眉を寄せると、もう一度確認するように顔を近づけた。
「……あれ?」
ソファで本を読んでいた蓮が顔を上げる。
「どうした?」
「ちょっとこれ見てよ」
いつもより真剣な声だったため、蓮は本を閉じて立ち上がった。
朝霧が指差したのは外気温だった。
「外の気温、また下がってる。雪はもう止んだのに……寒波が弱くなったから止んだんじゃないの?」
「そうとは限らない」
蓮は表示された数字を確認したあと、そのまま窓の外へ目を向けた。
「雪が止まったことと、上空の寒気が抜けたことは別だ。雪雲だけ先に抜けることもある。それに雲がなくなれば、地表から熱が逃げやすくなる」
「熱が逃げる?」
「放射冷却だ。冬の晴れた朝が冷え込むのと同じ。風や湿度なんかの条件にもよるけど、雪が止んだから暖かくなるとは限らない。むしろ止んだあとに、さらに気温が落ちることもある」
朝霧は外気温の数字と蓮の顔を交互に見比べた。
医師である自分がまったく知らない話というわけではない。それでも、蓮があまりにも当然のように説明するのが意外だった。
「……ずいぶん詳しいのね」
「そりゃ一回死んでるからな」
蓮は苦笑することもなく、ごく普通のことを話すように答えた。
「前回は何も知らなかった。寒波がいつまで続くのかも、雪が止んだらどうなるのかも、何を準備すればいいのかもな。だから今回は目覚めてすぐ、寒波や雪について一通り調べた」
「そこまで調べてたの?」
「食料を集めて部屋を頑丈にすれば終わりってわけじゃないからな。知らないせいで死ぬのは、一回で十分だ」
その言葉を聞いて、朝霧は少しだけ黙った。
蓮が時折見せる異常なほどの慎重さも、何かが起きる前から最悪の可能性ばかりを考える癖も、元からそういう性格だったわけではないのかもしれない。
一度、本当に死んだ。
その経験が、今の蓮を作っている。
「じゃあ……今日出ていった人たちは大丈夫なの?」
朝霧が尋ねると、蓮は少し考えてから首を横へ振った。
「少なくとも、安全とは言えないな。雪が止んだのを見て外へ出たのは、あいつらだけじゃないだろうし、近場の物資なんてとっくに尽きてる。保護地域を目指した連中だって、今の道路を何日も歩くことになる」
「だったら、止めた方がよかったんじゃない?」
「止めてどうする?」
蓮はすぐに問い返した。
「ここに残れば食料がない。外に出れば凍死するかもしれない。保護地域まで辿り着ける保証もない。でも、どれを選んでも危険なら、最後は自分で選ぶしかないだろ。俺たちがあいつらの人生まで背負う必要はない」
冷たい言葉だったが、以前の朝霧ならともかく、この七十日間であまりにも多くのものを見てきた今は、すぐに反論することができなかった。
善意だけでは救えない命があり、正しいと信じて選んだ行動が、別の誰かを死なせることさえある。
それでも、すべてを蓮のように割り切ってしまうことだけは、今の朝霧にはまだできなかった。
「……無事だといいわね」
「まだ言ってるのか」
「言うくらいいいでしょ。別にあなたの食料を持って追いかけるって言ってるわけじゃないんだから」
「それなら好きにしろ」
「……」
朝霧は呆れたように息を吐いた。
蓮はそれ以上話すこともなく、再びソファへ戻って本を開く。
朝霧だけが、その場に残った。
窓の向こうには、白く埋め尽くされた街がどこまでも広がっている。七十日以上視界を覆っていた雪はもう降っておらず、窓を叩き続けていた音も消え、遠くの建物まで以前よりはっきり見えるようになっていた。
これだけを見れば、長かった悪夢がようやく終わったようにも思える。
しかし、その静かな街のどこかでは、ようやく見つけた数箱の食料を巡って、人間が人間を殺そうとしていた。
政府という最後の希望を信じて歩き出した者たちは、同じ希望を持つ者たちと手を取り合ったにもかかわらず、今では地吹雪の中で互いの姿さえ見失っている。
そして、外の気温はさらに下がり続けていた。
朝霧はそんなことを知らないまま、ただ静かになった街を見つめていた。
雪は、もう降っていない。
けれど、この世界を覆った絶望は、まだ終わってはいなかった。
すみません・・・
あとがきが誤爆でしたね・・・




