第110話 Day71 静かな朝
朝霧が目を覚ました時、2501の中は不気味なほど静かだった。
すぐに起き上がる気にはなれず、朝霧はしばらくベッドの上から天井を眺めていた。昨夜は一ノ瀬の最期を見届けたあともマンションの騒ぎが収まらず、結局かなり遅い時間までモニターの前から離れることができなかった。
いつ眠ったのかもはっきり覚えていなかったが、枕元のデジタル時計を手に取って時刻を確認すると、思っていたより長く眠っていたらしい。それでも疲れは抜けておらず、身体の奥には重いものが残っていた。
ようやく身体を起こして上着を羽織り、部屋を出る。廊下にもリビングにも蓮の姿はなく、まだ眠っているのだろうと思いながら洗面所へ向かった。
蛇口を捻れば当たり前のように水が流れ、顔を洗うことができる。外では水道すら使えなくなって久しく、このマンションの中でも水を巡って何度も争いが起きているというのに、2501の中だけは寒波が来る前とほとんど変わらない生活が続いている。その違いを今さら考えながら顔を拭き、朝霧はリビングへ戻った。
今日の様子が気になり監視室のソファーへ腰を下ろして壁に並んだ監視モニターへ目を向けると、そこに映っているマンションの様子も昨夜までとはまるで違っていた。一階のエントランスにも階段にも人影はほとんどなく、各階の廊下も静まり返っている。
窓の外では相変わらず細かな雪が降り続いているものの、以前のように視界を覆い尽くすほどの勢いはなくなっており、灰色の空から落ちてくる雪だけが、すでに原形すら分からなくなった街をゆっくりと覆い続けていた。
朝霧は何をするでもなく、その静かな映像を眺めていた。
だが、静かだからこそ昨夜の光景が鮮明に蘇ってくる。
一ノ瀬が炎の中で動かなくなったあとも、このマンションの一日は終わらなかった。
柴田は死に、三浦もすでに死んでいた。柴田と最後まで行動していた人間たちも住民との争いの中でほとんど姿を消し、一ノ瀬まで死んだことで、二か月近く住民を押さえつけていた集団は完全になくなった。これまでなら柴田たちの許可なしに近づくことすら難しかった一階の保管庫へ住民たちが向かったのは、その直後だった。
保管庫そのものの中までは監視カメラに映っていなかったが、しばらくすると住民たちは中に残されていた箱や袋を次々と一階フロアへ運び出し始めた。
両腕で食料の箱を抱えて出てくる者や、水や生活用品を何人かで運ぶ者が続き、それを迎える住民たちの表情には明らかな喜びが浮かんでいた。誰かが運び出された箱を指させば周囲の人間が笑い、別の者は隣にいる住民の肩を叩いていた。抱き合う者までいる。
柴田はもういない。
これからは誰か一人の判断で食料を減らされることも、気に入らないという理由だけで殴られることもない。残っている物資を自分たちで管理し、公平に分ければいい。朝霧には声までは聞こえなかったが、次々と運び出されてくる箱を見ながら喜んでいる住民たちの姿からは、少なくともその時まで、誰もがこれでしばらくは生きられると思っているように見えた。
住民たちは一階フロアの空いた場所へ箱や袋を並べ、やがて何人かがその数を確認し始めた。
最初は一つずつ床へ置き直しながら、指をさして数えているだけだった。だが、何度か数えているうちに、一人の男から笑顔が消えた。男は近くにいた住民を呼び、床に並べられた物資全体を指しながら何かを話す。呼ばれた人間も最初は首を傾げていたが、すぐに自分でも箱を数え始め、別の場所に置かれた袋まで確認すると、その表情からも先ほどまでの喜びが消えていった。
それを見た周囲の住民たちも、次第に何かがおかしいと気づき始めた。
物資がないわけではなかった。
一階フロアには確かに食料も水も生活用品も並べられている。しかし、それを七十人以上で分け、さらにこの寒さの中で何日、何週間と生きていかなければならないと考えれば、量は決して多くない。最初は一階いっぱいに広げられた箱の数だけを見て安心していた住民たちも、それが自分たち全員にとって何日分になるのかを考え始めたことで、徐々に表情を変えていったのかもしれない。
その頃、朝霧のスマートフォンにもマンションのグループチャットから通知が届いた。
『明日の配給はできるんですか?』
まだ自室にいて、一階で何が起きているのか知らない住民からの質問だった。
少しして、一階にいるらしい人間から返信が入った。
『あるわけねえだろ! 今、一階で物資の奪い合いが起きてる! 早く行かないと全部なくなるぞ!』
『え? どういうことですか? 外から来た人たちも柴田たちも、もういないんですよね?』
『柴田とか関係ない! 食料が全然残ってないんだよ!』
『勝手に持っていってる人がいます! 誰か止めてください!』
『一人何個までとか決めないんですか?』
『誰が決めるんだよ!』
『とにかく一回みんなで話し合いませんか? このままだと本当になくなります』
『もう取ってる奴がいるんだぞ! 話し合ってる間に全部なくなる!』
その書き込みが流れてから間もなく、各階の監視カメラに次々と人影が現れ始めた。
自室から慌てて飛び出して階段へ向かう者もいれば、家族らしい人間と何かを話したあと、一人だけで下へ急ぐ者もいる。一階の状況を知らなかった人間たちまで、「早く行かなければ自分の分がなくなる」という一文によって動き始めたのだ。
その頃には、保管庫の中でもすでに最初の穏やかな空気はなくなっていた。
まだ物資を一か所へ集め直そうとしている者や、周囲へ何かを訴えながら話し合いを求めているように見える住民もいた。しかし、その横では別の人間が棚から食料を取り、自分の上着の中へ入れていた。それに気づいた誰かが腕を掴み、二人がもみ合う。何を言い争っていたのか朝霧には聞こえなかったが、その光景を見ていた周囲の人間たちの反応だけで十分だった。
誰かが先に取った。
なら、自分も取らなければなくなる。
そんな考えが、言葉にしなくても一気に広がっていくようだった。
各階から下りてきた住民が加わるたびに一階の人数は増え、やがて保管庫の中だけでは収まりきらなくなった人々が廊下にまで溢れた。
後から来た者には棚に何が残っているのかすら見えず、前にいる人間を押し退けなければ中へ入れない。押された者は振り返って何かを怒鳴り、それでも後ろからさらに人が押し寄せる。ほんの少し前まで同じマンションで暮らす隣人だったはずの人間たちが、その瞬間には自分より先に食料を奪うかもしれない相手へと変わっていた。
そして、一度その空気に飲み込まれてしまえば、もう誰にも止められなかった。
食料を両腕いっぱいに抱えて帰ろうとする人間へ別の住民が掴みかかり、袋が床へ落ちる。中身が散らばった瞬間、それまで二人を止めようとしていたはずの人間まで床へ手を伸ばした。
水の入った容器を何本も袋へ押し込む者、箱ごと持ち出そうとして周囲から引き倒される者、床に転がった食料を服の中へ入れて逃げようとする者が入り乱れ、監視カメラの映像だけでは、もはや誰が誰から何を奪ったのかすら分からなくなっていた。
人が倒れても争いは止まらなかった。
転倒した人間が必死に起き上がろうとしているすぐ横を、物資を抱えた住民が走り抜けていく。誰かの足が倒れた人間の身体へぶつかっても、振り返る者はいない。
ようやくそこから抜け出した人間も安心できず、廊下で別の住民に掴みかかられれば、今度は自分の持っているものを守るために相手を殴った。奪われた者はさらに弱そうな別の人間から奪い返そうとし、物資を手に入れた者は誰にも取られないよう自室へ向かって走り去っていった。
グループチャットには、その間も書き込みが流れ続けていた。
『やめてください! 人が倒れてます!』
『誰か救急箱持ってませんか!?』
『そんなことしてる場合じゃない!』
『食料持って部屋に戻った奴がいるぞ!』
『誰ですか!?』
『何階!?』
『もう保管庫ほとんど残ってない!』
『嘘だろ!?』
『奥にもまだある! 早く来い!』
その最後の書き込みを見たのか、まだ一階の廊下で様子を窺っていた人間まで保管庫へ殺到した。
朝霧はモニターの前で、その光景をずっと見ていた。
昨日まで柴田から食料を奪われていると訴えていた人間が、今度は他人の腕から食料を奪っていた。柴田に殴られることを恐れていた人間が、自分の取り分を守るために別の住民を殴り、昨日の昼には外から来た人間を相手に肩を並べて戦っていた者同士が、今度は一つの食料を巡って床でもみ合っている。
ほんの数時間前まで、住民たちは柴田という共通の敵を倒すためにまとまっていた。
だが、その柴田がいなくなった途端、今度は互いが敵になった。
保管庫の物資がほとんどなくなった頃になって、ようやく争いは収まり始めた。それも誰かが止めたわけではない。奪い合うものがなくなっただけだった。
物資を確保した人間たちは、それを胸に抱え、周囲を警戒しながら自室へ戻っていいく。何も手に入れられなかった者と、争いの中で倒れた者だけが一階に残され、少し前まで物資が並んでいた棚には空になった箱と破れた袋しか残っていなかった。
外から来た敵は、もういない。
柴田も、三浦も、一ノ瀬もいない。
誰かに命令されたわけでも、脅されたわけでもない。
それでも住民たちは、自分たちだけで争った。
今朝の監視カメラには、昨夜の痕跡だけが残されていた。床には潰れた箱や破れた袋が散乱し、その間には昨夜から動いていない人間の姿もある。
この二日間だけで何人が死んだのか、朝霧にもわからなかった。
外敵との戦いでもなく、柴田による粛清でもない。ようやく支配から解放された、その夜にまた何人も死んだ。
朝霧はしばらくモニターを眺めたあと、小さく息を吐いてからリビングに戻り、ソファーへ深く身体を預けた。
その時、廊下の奥から扉の開く音が聞こえた。
しばらくして、寝起きらしい蓮がリビングへ姿を見せる。
「おはよう」
「ああ」
蓮はいつもと変わらない調子で短く答えると、そのままキッチンへ向かい、コップへ水を注いだ。長く続いた因縁に自分の手で決着をつけた翌朝だというのに、朝霧が見る限り、普段の蓮と何も変わっていない。
昨夜、一ノ瀬へ向けて一瞬だけ見せたあの感情さえ、今はもうどこにも残っていなかった。
水を飲み終えた蓮がリビングへ戻り、朝霧から少し離れた場所へ腰を下ろす。朝霧はそんな蓮の横顔をしばらく見ていたが、昨夜から気になっていたことを思い出し、先に別の疑問を口にした。
「ねえ、神崎さん。昨日のこと、聞いてもいい?」
「なんだ」
「その前に一つだけ。昨日の火……あれ、どうやったの?」
蓮が朝霧へ視線を向ける。
「あなたの能力って、物を保管するものじゃなかったの?」
「俺も最初はそう思ってた」
「違うの?」
「分からない」
自分の能力について尋ねられた人間の答えとは思えず、朝霧は思わず蓮の顔を見返した。しかし蓮が冗談を言っている様子はなく、本当に分からないらしい。
「分からないって……自分の能力でしょう?」
「だからいろいろ試してる。最初に氷を収納できると分かった時に思ったんだ。氷が入るなら、火はどうなんだって」
「それで試したの?」
「ああ。普通に入った」
「……普通にって」
あれほどの炎が一瞬で消えた昨夜の光景を思い出しながら、朝霧は呆れたように息を吐いた。
「昨日、初めて試したわけじゃないのよね?」
「当たり前だろ。できるかどうかも分からないことを、あんな状況で初めて試すほど馬鹿じゃない」
「じゃあ、火以外にも?」
「いろいろな」
「例えば?」
「いろいろだ」
「……なによそれ」
「それに、俺自身、まだどこまでできるのか全部把握してないからな」
朝霧は何か言い返そうとしたが、結局やめた。物だけではなく氷が入り、火まで入る。それを同じ「収納」という言葉で呼んでいいのかさえ、朝霧には分からない。蓮自身が把握していないのなら、今ここで考えても答えが出るはずもなかった。
それよりも、朝霧には聞いておきたいことがあった。
「……もう一ついい?」
「ああ」
「昨日、一ノ瀬さんに言ったでしょ。『お前からもらったもの、全部返した』って」
蓮の表情は変わらなかった。
「ああ」
「彼女はあなたに何をあげたっていうの?」
「……絶望だ」
返ってきた言葉があまりにも短く、朝霧はすぐには意味を理解できなかった。
「絶……望?」
「ああ、そうだ」
朝霧はその言葉を口の中で反芻しながら、以前、蓮から聞いた一度目の世界の話を思い出した。
寒波の中で食料がなくなっていくにもかかわらず、一ノ瀬へ自分の食料を届け続けていたこと。最後に食料を持って彼女のもとを訪れた時、柴田に殴られ、倒れたこと。蓮が一ノ瀬へ助けを求めても、彼女は何もせず、彼が持ってきた食料を柴田と一緒に持ち去り、そして、死んだ。
今の蓮からは想像しにくいが、一度目の彼は今とは違った。
食料を渡し続ければ、いつか一ノ瀬が自分を受け入れてくれるかもしれない。少なくとも自分が困った時には、助けてくれるかもしれない。そんな期待をどこかに残していたからこそ、最後まで彼女のもとへ食料を運んだのだろう。
「そうよね……あの状態のあなたなら、確かに絶望したかもしれないわね」
蓮は何も答えなかった。
朝霧の頭には、続けて昨夜の一ノ瀬の姿が浮かんだ。炎に包まれ、床を転がりながら助けを求め、それでも最後まで蓮の名前を呼んでいた。あれほどの苦痛の中で、自分を助けられる唯一の人間が目の前にいながら、最後まで助けてもらえなかった。
「確かに、あのような最期なら彼女も絶望したでしょうね……」
「違う」
朝霧は蓮へ顔を向けた。
「……違う?」
「ただ殺すだけなら、いくらでもできた。もっとむごい方法だってあった」
昨夜の死に方だけでも十分すぎるほど凄惨だったため、朝霧は一瞬言葉に詰まった。それでも蓮の表情を見ていれば、彼が言っているのは死に方の残酷さではないことだけは分かった。
「じゃあ……あなたが言う絶望って何?」
「あいつから希望を奪った」
「……どういうこと?」
蓮はすぐには答えず、少しだけ視線をモニターの方へ向けた。そこには静まり返ったマンションが映っている。
「最初にあいつへここを見せた時、あいつは俺をもっと利用できると思った」
「2501を?」
「ああ。寒波が来る前の話だ。俺がこんな部屋に住んでると分かって、今までより使い道があると思ったんだろうな」
朝霧は一ノ瀬と直接話した回数こそ多くないが、これまでの行動を思い返せば、その考えは理解できた。
「寒波が来てから飯の画像を送った時は、自分も食べられると思った。俺があれだけの食料を持ってるなら、以前みたいに少し優しくしてやれば分けてもらえる。そう考えたはずだ」
「でも、あなたは渡さなかった」
「ああ」
「それでもマンションまで来た」
「ここまで来れば入れてもらえると思っただろう。外は寒い。食料もない。自分が目の前まで来て頼めば、俺なら断れないと思ってたはずだ」
一つ一つ聞いていくうちに、朝霧にも蓮が何を言おうとしているのか分かり始めた。
一ノ瀬は何度も2501を見ていた。
何度拒絶されても、完全に諦めることはなかった。
別の方法なら入れるかもしれない。
次なら蓮が折れるかもしれない。
自分一人では無理でも、別の人間を使えばいい。
常に次の何かを探していた。
「それが駄目だと分かったら柴田たちを呼んだ。自分では入れないなら、あいつらに突破させればいい。俺が断っても、力ずくなら何とかなると思った」
「それも失敗したわね」
「ああ。その後もあいつには希望があった。ここに入れなくても、柴田たちがマンションを支配している間は、その中にいれば生き残れると思ってた。実際、あいつはずっと柴田の側にいた」
朝霧は黙って聞いていた。
「柴田たちが崩れたあと、最後にここへ来た時も同じだ。今まで何をしてても、最後には俺が気を変えて自分を受け入れると思ってた。昔の関係を持ち出して、柴田のせいにして、自分も俺のことが好きだったと言えば、まだ何とかなると思ってた」
昨夜の一ノ瀬の声が朝霧の記憶にも残っている。
『蓮。私よ? 美咲よ?』
『私のこと、ずっと好きだったんでしょ?』
あれほど多くの人間が死に、柴田まで殺されたあとで、それでも一ノ瀬は蓮なら自分を受け入れるかもしれないと考えていた。
「それも駄目だった」
「ああ」
「それで火をつけた」
「自分が助からないなら、俺も住民も一緒に死ねばいい。少なくとも、自分だけが死ぬわけじゃない。それがあの時のあいつに残った最後の逃げ道だったんだろうな」
朝霧はそこでようやく理解した。
「……それも、あなたの言う希望なの?」
「あいつにとってはな」
蓮は淡々と答えた。
「どれだけ状況が悪くなっても、あいつには次があった。俺を利用できる。飯をもらえる。2501に入れる。柴田なら扉を破れる。ここに入れなくてもマンションで生きられる。柴田がいなくなっても、俺なら最後には受け入れる。それが全部駄目なら、火をつけて全員を道連れにできる」
蓮はそこで一度言葉を止めた。
「そしてそれも失敗したが、俺を前にしてまだ俺の横にいれると思っていた」
朝霧は何も言わなかった。
何のことなのか、もう分かっていた。
「お前を見て勝手に勘違いして、その希望も潰えた」
「……ええ」
「そして最後は、俺が助けるかもしれないと思ってた」
朝霧の脳裏に、炎の中から必死に蓮へ手を伸ばしていた一ノ瀬の姿が蘇る。あの時の彼女が何を考えていたのか、本当のところは誰にも分からない。ただきっとそれが彼女の最後の希望だったことは朝霧にも分かった。
「でも……あなたは助けなかった」
「ああ」
蓮の声には何の感情もなかった。
「最後に俺を見て、それも無理だと分かった。自分は助からない。誰も助けない。もう次の手もない。言い訳もできない、誰かのせいにもできない、そこから先はない」
朝霧はしばらく何も言えなかった。
一ノ瀬が最後に蓮を見つめていた時の表情を思い出す。
助けを求め続けていた彼女が、最後には声を失った。
あれは苦痛で声が出なくなっただけだと思っていた。
だが、蓮は違うものを見ていたのかもしれない。
「それが……あなたの言う絶望なのね」
「そうだ」
「確かにこれ以上ない……絶望ね」
朝霧はそう言ってから、しばらく黙った。
蓮が一ノ瀬を殺したことを肯定したいわけではなかった。人をあのような形で死なせることを、医師である自分が正しいと言えるはずもない。
それでも、一度目の世界で蓮が何をされたのかを知り、この一ヶ月間に一ノ瀬が何をしてきたのかも見てきた今、以前のように蓮だけを責める言葉も出てこなかった。
だから朝霧は、別のことを聞いた。
「それで……あなたの気は済んだの?」
今度は蓮がすぐには答えなかった。
朝霧も急かさずに待った。
「正直、自分でもよく分からない」
しばらくして蓮が口を開いた。
「あいつが死んで何か変わるかとも思ったが、うまく口にできない」
昨日までの蓮なら、もっと簡単に答えていたかもしれない。終わった、必要なことをした、それだけだと切り捨てていたかもしれない。だが今は、自分でも答えが出ていないことをそのまま口にしていた。
「ただ……あの日、あそこで死んだ俺には、これでけじめをつけられたと思う」
朝霧は蓮の横顔を見た。
喜んでいるようには見えなかった。
満足しているようにも見えない。
もちろん後悔しているようにも見えなかった。
一ノ瀬が死んだからといって、一度死んだ蓮の過去がなくなるわけではない。失ったものが戻るわけでもなければ、何か新しいものを得たわけでもない。それでも、あの日からずっと蓮の中に残っていたものに、自分なりの終わりをつけることはできたのだろう。
「そう……」
朝霧は小さく頷いた。
「それなら、よかったわね」
今度は蓮が朝霧を見た。
「もう、俺の復讐のせいで住民が巻き込まれたって言わないんだな」
朝霧はその言葉にすぐ答えず、もう一度モニターへ目を向けた。
昨夜、住民たちは誰かに命令されたわけでもないのに互いから食料を奪い、大勢が傷つき、そして死者も出した。
その前日には、外から来た人間たちを必要以上に追いかけ、命乞いをする者まで殺していた。
病気の子供が死んだ時も、食料が足りなくなった時も、何度も人間が選択する瞬間を見てきた。
以前の自分なら、それでも誰か一人に原因を求めていたかもしれない。
「……以前なら、きっと思ってたと思う」
「今は?」
「もう思わない」
蓮が少しだけ目を細めた。
「随分はっきり言うな」
「……世界が変わってしまったんだもの」
朝霧は静まり返ったモニターを見たまま答えた。
「もう嫌ってほど、よく分かったわ」
「そうか」
それ以上、二人は何も語らなかった。
朝霧も蓮も、再びモニターへ視線を戻すことはなかった。昨日までならマンションのどこかで必ず聞こえていた怒鳴り声も、廊下を走る足音も、今朝は2501まで届いてこない。窓の向こうでは細かな雪だけが降り続け、静かなリビングの中で二人はそれぞれ何も言わないまま朝の時間を過ごした。
◇
ドクン。
暗闇の奥で、低い音がした。
何の音なのか分からなかった。
意識そのものが深い水の底へ沈んでいるようで、自分がどこにいるのかも、眠っているのか起きているのかも分からない。ただ、その音だけが一定の間隔で何度も繰り返され、そのたびに沈んでいた意識が少しずつ上へ引き上げられていく。
ドクン、ドクン。
やがて、それが外から聞こえている音ではないことに気づいた。
自分の胸の中から響いている。
そのことを理解した瞬間、今まで切り離されていた身体の感覚が一気に戻ってきた。
「……っ!」
意識が戻るより先に、激しい頭痛が黒崎を襲った。
頭の奥の痛みに顔を歪め、反射的に身体を動かそうとしたものの、少し首を動かしただけで痛みがさらに強くなる。黒崎は目を閉じたまま浅い呼吸を繰り返し、しばらくその痛みに耐えていた。
やがて少しずつ手足の感覚が戻り、自分が呼吸していることや、胸の奥で心臓が動いていることに気づく。
「俺……生きてるのか……」
掠れた声が喉から漏れた。
その事実を理解した途端、途切れていた昨夜の記憶も一緒に戻ってきた。
八人の男たちに襲われたこと。最初の一撃で頭を殴られ、床へ倒れたこと。そしてまともに身体を動かすこともできないまま、自分と行動を共にしていた四人が目の前で殺されていったこと。
黒崎は目を閉じたまま、強く歯を食いしばった。
自分が助けた四人だった。
第七号の外で行き場を失っていた彼らを放っておくことができず、岩森から渡された食料を分け、一緒に安全な場所を探そうと声をかけた。あの時は、それが間違っているなどとは思わなかった。困っている人間を助けるのは当たり前で、一人では生きられなくても、互いに支え合えば何とかなる。黒崎はずっと、そう信じてきた。
だが、その結果があれだった。
四人は死に、自分だけが生き残った。
守るつもりだったのに、誰一人守れなかった。襲われた時も相手を止めることすらできず、倒れたまま四人が殺されていくのを見ていることしかできなかった。
先輩にあれだけ人に渡すなと言われていたにもかかわらず、黒崎は食料を分けた。
目の前に困っている人間がいるのに、自分だけが食べることなどできなかったからだ。
だが今になって考えれば、岩森の方が正しかったのではないかと思えてくる。
自分は人を助けているつもりで、ただ危険へ連れていっただけなのではないか。守る力もないくせに誰かを助けようとし、助け合えば何とかなると思い込んだ結果、死ぬ人間を増やしただけなのではないか。
黒崎はこれまで、自分がしてきたことを疑ったことがほとんどなかった。
弱い人間を守ることも、食料を分けることも、困っている人間へ手を差し伸べることも、それ自体が間違っているはずはないと思っていた。
だが、この世界では違うのかもしれない。
人を信じることも。人を助けることも。誰かと一緒に生きようとすることさえも。
全部、間違っていたのかもしれない。
「……俺は、何をやってたんだ……」
自分でも驚くほど弱い声だった。
四人は死んだ。
なのに、自分はまだ生きている。
その事実が、今は嬉しいとは思えなかった。
黒崎はしばらく目を閉じたまま動かなかった。頭痛のせいだけではない。これまで自分が正しいと信じてきたものが根元から崩れ、何を信じればいいのか分からなくなっていた。
それからどれほど経ったのか。
少しだけ呼吸が落ち着いた頃、黒崎はようやく別の違和感に気づいた。
寒くない。
昨日倒れた建物は暖房などなく、屋内にいても身体の芯まで冷えていたはずだった。それなのに今は身体に毛布のようなものが掛けられ、背中に触れている感触も硬い床ではない。
黒崎は眉を寄せ、痛みをこらえながら片手を頭へ伸ばした。
指先に触れたのは、きちんと巻かれた包帯だった。
そこで初めて、自分が倒れた場所にいないことに気づく。
黒崎はゆっくりと目を開いた。
ぼやけていた視界が少しずつはっきりしていき、最初に映ったものを見て、黒崎は動きを止めた。
見覚えのない天井だった。
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Day 71
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 72人
今日のメモ:
「解放か破滅か、それは表裏一体」
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ここまで読んでいただきありがとうございます!
次回でいよいよ氷スト第一部完結となります!
ぜひ最後まで楽しんでいってください!




