第109話 Day 70 魔女の最期
休憩していた小さな事務所を出てから、五人は再び雪の積もった道を歩き続けていた。
行き先はまだ決まっていない。黒崎自身、この辺りのどこに人が住める建物が残っているのか詳しく知っているわけでもなく、とりあえず風を防げて、できれば水や燃料を確保できそうな場所を探しながら進んでいるだけだった。
怪我をしている男には引き続き黒崎が肩を貸し、残る二人が老人を支えているため、歩く速度は決して速くない。それでも先ほど食料を口にし、しばらく身体を休めたことが多少は効いているのか、事務所へ辿り着いた時より四人の足取りはわずかに安定していた。
雪に覆われた道をしばらく進んだところで、黒崎は一度足を止めた。怪我人の呼吸が荒くなっていることに気づいたからだった。
「少し休みましょう。このまま無理して歩いても仕方ない」
「……すみません」
「謝らなくていいですよ。俺も少し疲れましたから」
黒崎はそう言って近くに風を避けられそうな場所を探し、建物の壁が張り出している陰へ四人を連れていった。長く休むつもりはない。身体が冷え切る前にまた動かなければならないが、今の怪我人を無理に歩かせれば、次に立てなくなる可能性もある。
五人がそれぞれ壁際へ身体を寄せると、先ほど食料を分けてもらった中年の男が何度か黒崎の背中へ視線を向けた。それから、隣に座っている男へ少しだけ身体を寄せる。
「な、なあ……」
「なんだよ」
「……あいつから食いもん奪って、逃げたらどうだ」
「は?」
男は思わず声を上げかけ、すぐに黒崎の方を確認してから声を落とした。
「いや……あのリュック、まだ食いもん入ってるだろ。俺たち四人でやれば――」
「何馬鹿なこと言ってんだ」
男の表情が険しくなる。
「俺たちを助けてくれたんだぞ。政府にすら見捨てられた俺らを、食いもんまで分けてくれたんだ。それを奪うって、お前……」
「……そうだよな。悪い。俺がどうかしてた。今のは忘れてくれ……」
「もう変な気起こすなよ。こんな状況でも助けてくれる人なんて……」
「ああ……そうだな」
中年男はもう一度黒崎の背中を見たあと、それ以上何も言わなくなった。二日間まともに食べられず、ようやく腹へ物が入ったことで、逆にもっと欲しいという感覚が戻ってきたのかもしれない。黒崎のリュックにはまだ食料がある。それを奪えば、少なくとも今日や明日の空腹を心配せずに済む。そんな考えがほんの一瞬でも頭を過ぎったことに、自分自身で戸惑っているようだった。
「……本当に、どうかしてた」
小さく呟いたその言葉には、少なくともまだ、自分を助けてくれた人間から奪うのは間違っていると思えるものが残っていた。
五人はそのまま少しの間、身体を休めた。
風の当たりにくい場所を選んだとはいえ、じっとしていれば防寒着の隙間から冷気が入り込み、せっかく戻りかけた体温まで少しずつ奪われていく。黒崎も長居するつもりはなく、あと少ししたら怪我人を支えながら移動しようと考えていた。
五人がそれぞれ壁際へ身体を寄せ、しばらく身体を休めていると、不意に建物の奥から足音が聞こえてきた。
最初は一人か二人が歩いている程度にしか聞こえなかったが、静まり返った建物の中では靴底が床を叩く音がやけにはっきりと響き、それが近づいてくるにつれて人数も多いことが分かってきた。一定の間隔で揃っているわけではなく、何人もの人間がそれぞれ勝手な歩幅で歩いているような、重なり合った足音だった。
黒崎は壁にもたせていた身体を起こし、音のする方向へ顔を向けた。隣で休んでいた四人も異変に気づいたらしく、それまでほとんど動かなかった老人まで不安そうに廊下の奥を見ている。
やがて角の向こうから人影が現れた。
一人、二人ではない。
先頭の男に続いて次々と姿を見せ、数えてみれば八人ほどいる。全員が男で、厚手の上着や毛布を身体へ巻きつけ、何人かは木の棒を持ち、別の男の手にはパイプのようなものまで握られていた。
黒崎はその姿を見た瞬間、自然と立ち上がり、背後で休んでいる四人との間へ入った。
「おい!」
先頭の男がこちらを見つけるなり声を上げた。
「なんか食いもん持ってねえか!」
「……ない」
黒崎はそう答えながら相手の人数と手元を確認した。
「俺たちも食料を探してるところだ。他を当たってくれ」
「ああ? 本当にねえのか?」
「ない」
はっきり答えても、八人は足を止めなかった。そのまま距離を詰めてきた先頭の男が黒崎たちを値踏みするように見回し、ふと足元へ視線を落とした。
そこには、少し前に四人へ渡した食料の袋が残っていた。
「……おい」
男はそれを拾い上げ、空になった袋を裏返して中を確認すると、口元を歪めながら黒崎へ投げつけた。
「持ってんじゃねえか。おいこら、よこせ!」
「何言ってるんだ! これは俺たちのものだ! 量だってほとんどない! 食料なら他を探せ!」
黒崎は声を強めながらも、まだ相手を説得しようとしていた。自分たちにも余裕があるわけではなく、分けられるほどの食料はない。それを伝えれば、少なくともこちらが抵抗する理由くらいは理解すると思っていた。
ほんの少し前までなら、それでも一言か二言くらいは話す余地があったのかもしれない。互いに食料がなく、互いに追い詰められていたとしても、いきなり相手を傷つける前に、要求し、拒絶され、威嚇し、それでも駄目なら初めて力に訴える。
黒崎の中には、まだどこかにそんな順序が残っていた。
だが、この数日だけでも世界は確実にさらに変わっていた。
「うっせえな。いいからよこせ!」
先頭の男は黒崎の言葉を最後まで聞こうともしなかった。胸ぐらを掴んで脅すこともなければ、肩を押して力の差を見せつけることさえない。黒崎が次の言葉を口にするより早く、男は手にしていた木の棒を両手で握り直し、そのまま大きく振り上げた。
「おい、待――」
頭の横で、鈍い音がした。
直後、何か硬いものが頭蓋の奥まで食い込んできたような強烈な衝撃が走り、黒崎の視界が一瞬で白く弾けた。痛みを感じるより先に平衡感覚が失われ、自分が立っているのか倒れているのかさえ分からなくなる。足に力を入れようとしても身体はまるで言うことを聞かず、膝が折れた次の瞬間には肩から床の上へ倒れ込んでいた。
「黒崎さん!」
誰かが自分の名前を呼んだ。
黒崎は反射的に起き上がろうとしたが、腕へ力を入れたつもりなのに身体が持ち上がらない。頭の中では甲高い音が鳴り続け、視界は水の中から外を見ているように揺れている。それでも、自分が倒れたことで八人の男たちと四人を隔てるものがなくなったことだけは分かった。
ぼやけた視界の向こうで、老人が両手を前へ出しながら必死に何かを訴えていた。その隣では女が怯えた顔で後ずさりし、怪我をしている男は立ち上がろうとしても身体が動かず、その場で片膝をついている。彼らの誰一人として八人の男たちとまともに争える状態ではないことなど、見れば分かるはずだった。
それでも、男たちは止まらなかった。
振り上げられた木の棒が老人の身体へ叩きつけられ、別の男が女へ掴みかかる。逃げようとした一人には横からパイプが振り下ろされ、怪我をしている男にも容赦なく蹴りが入った。
黒崎はやめろと叫ぼうとした。
その人たちは何も持っていない。老人もいる。怪我人だっている。抵抗なんてできない相手を殴る必要などない。
頭の中ではいくらでも言葉が出てくるのに、それを声にすることができなかった。口を開いても喉の奥から掠れた息が漏れるだけで、身体を起こそうとしても指にほとんど力が入らない。目の前で何が起きているのかは見えているのに、そこまで数メートルしかない距離が、今の黒崎にはどうやっても越えられなかった。
最初のうちは、いくつもの悲鳴が聞こえていた。
「やめてくれ!」
「何も持ってない! 本当に何も――」
「お願い! 助けてください!」
それらの声は木の棒や鉄パイプが何かへぶつかる鈍い音に混じり、次第に一つずつ小さくなっていった。黒崎の耳がおかしくなったわけではない。ほんの少し前まで自分と話し、食料を口にし、これから一緒に生きられる場所を探そうとしていた四人の声そのものが、聞こえなくなっていった。
やがて八人組の一人が黒崎のところまで戻ってくると、倒れている彼の身体を足で乱暴に転がし、背負っていたリュックへ手を伸ばした。黒崎は取られまいと腕を動かそうとしたものの、指先がわずかに動いただけで、肩からベルトを外されても何一つ抵抗できなかった。
男は奪ったリュックを床の上へ置き、ファスナーを一気に開いた。中へ手を突っ込んで食料を取り出した途端、その声が弾んだ。
「おい! 食いもんかなりあるぞ! しかも薬まであるぜ!」
「マジか!?」
「よっしゃあ! 当たりだな!」
すぐに何人かが集まり、黒崎が岩森から渡された食料や医薬品を次々と取り出していく。ついさっきまで四人を殴っていた男たちの声には、目の前で人間を傷つけたことへの動揺も罪悪感もなく、まるで店の棚から欲しかったものを見つけたかのような喜びしかなかった。
「よし、次探そうぜ!」
「ああ!」
「やっぱ移動してる奴らを狙って正解だったな!」
薄れ始めた意識の中でも、その言葉だけは黒崎の耳にはっきりと届いた。
こいつらは食料を探して歩いていたのではない。助けを求めていたわけでも、偶然ここで空腹に耐えかねて襲ってきたわけでもない。最初から、生き残って移動している人間を探していた。外を歩けるだけの体力がある人間なら、食料や薬、防寒具を持っている可能性が高い。だから見つけて、襲って、奪い、また次を探す。それがもう、この八人にとって生き残るための方法になっていた。
黒崎は雪の上に頬をつけたまま、男たちが遠ざかっていくのを見ていた。追いかけなければならないと思った。四人がどうなったのか確認しなければならないとも思った。それなのに身体はまったく動かず、頭の中に浮かんだ考えさえ形を保てないまま崩れていく。
視界の端から少しずつ暗闇が広がり、男たちの笑い声も、雪を踏みしめながら遠ざかっていく足音も、厚い壁の向こうへ消えていくように遠くなっていった。最後に黒崎の目に残ったのは、少し前まで五人で身体を休めていた場所と、その雪の上に倒れたまま動かなくなった四人の姿だった。
それを最後に、黒崎の意識は深い暗闇へと沈んでいった。
◇
ガソリンを呑み込んだ火は床を這うだけでは収まらず、扉の周囲から壁へと燃え広がり、赤黒い炎が天井近くまで立ち上っていた。轟々と空気を喰らう音に、何かが焼けて弾ける乾いた音まで混じり、瞬く間に熱気が二十五階の廊下を満たしていく。
「おい! 燃えてるぞ!」
「火を消せええ!」
「今できるわけねえだろ! 逃げろおおお!」
誰かが叫んだ瞬間、それまで一ノ瀬を追い詰めていた住民たちは一斉に踵を返した。すでに炎は廊下を塞ぐほどの勢いで燃え広がり、手元に消火できるものもなければ、ここに留まって一ノ瀬を殺す理由もない。先頭の男が階段へ飛び込むと、それに続いて全員が我先にと下の階へ駆け下りていく。
「火事だ! 下に逃げろ!」
「上がってくるな! 火事だぞ!」
「逃げろ! 早く下まで行けええ!」
階段を駆け下りながら住民たちは叫び続け、その声に気づいた下階の住民たちも騒ぎ始めた。いくつもの足音と怒号が階段の奥へ遠ざかっていき、やがて二十五階に残ったのは、炎の轟音と、その前に立ち尽くす一ノ瀬だけになった。
その時、燃え盛る炎の向こうから、これまでとは違う音が聞こえてきた。
こつ、こつ、と一定の間隔で床を叩く足音だった。
一ノ瀬が顔を上げると、赤黒く揺らめく業火の向こうに人影が浮かんでいた。炎は壁を舐めながら天井へ這い上がり、熱せられた空気が景色を大きく歪ませている。火の粉が舞い、何かが焼けて弾ける音が絶え間なく響く中、その人影だけが不自然なほどゆっくりと、まっすぐこちらへ近づいてくる。
「……蓮?」
足音が近づいてくるにつれ、人影の輪郭が次第にはっきりしていった。
蓮だった。
これだけの炎を前にしながら走ることも、逃げることもなく、まるで何もない廊下を歩いているかのような足取りでこちらへ向かってくる。そんな蓮の姿を見た一ノ瀬の顔から先ほどまでの恐怖が消え、代わりに歪んだ笑みが浮かんだ。
「……やっぱり火は怖い?」
一ノ瀬の口元が大きく吊り上がる。
「ははっ……はははっ! 死ぬのが怖い?」
蓮は何も答えない。それでも一ノ瀬は、ついに自分が勝ったのだとでも思ったのか、開き始めた金庫扉を指さしながら笑い声を上げた。
「だったら最初から開ければよかったんだよ! もう台無しじゃない! こんなに燃えちゃって! 最初から私を入れてれば、こんなことにはならなかったのに!」
その言葉にも反応せず、蓮は炎の中を進み続けた。やがて一ノ瀬から少し離れた場所で足を止めると、燃え盛る炎へゆっくりと右手を向け、そのまま軽く横へ振った。
次の瞬間、廊下を埋め尽くしていた業火が一瞬で消えた。
「……え?」
一ノ瀬の笑顔が固まった。
ほんの一瞬前まで、そこには確かに炎があった。床を這い、壁を舐め、天井近くまで燃え上がり、住民たちを階下へ逃げさせるほどの熱を放っていた業火が、煙を上げて弱まることも、何かに消火されることもなく、蓮が右手を振った瞬間に視界から消失していた。
「え……なに……? なんで……なんで火が消えるのよ……」
一ノ瀬は呆然と左右を見回した。床や壁には焼け焦げた跡が残り、鼻を刺す臭いも肌に残った熱もある。それなのに火だけがない。自分がガソリンを撒いた床を見つめ、次に壁、天井へと視線を動かしながら、目の前で起きたことをどうにか自分の知っている現象へ当てはめようとする。
「量が少なかった? 寒いから? でも……でも、さっきまで燃えてたじゃない! なんで!? なんで火が消えるのよおおお! なんで! なんでなのよおおお!!」
答えを求めるように叫びながら蓮へ顔を向けた瞬間、一ノ瀬の表情が変わった。ほんの数秒前まで浮かんでいた混乱を無理やり押し込み、引きつっていた口元に笑みを作る。その切り替わりはあまりにも早く、まるで今までの出来事そのものをなかったことにしようとしているようだった。
「……ごめん。ごめん、うそうそ。本当に燃やすつもりなんてなかったの。ちょっと頭に血が上がってただけ。ほら、私もずっと追いかけられてたし、柴田もあんなことになったし……だから、ね? 本気じゃないよ?」
一ノ瀬自身、自分が何を口にしているのかも、その言い分にどれだけ無理があるのかも分かっていた。それでも今は蓮に受け入れてもらうことが何より重要だったのか、彼の反応を窺いながら少しずつ距離を詰め、声まで先ほどとは別人のように柔らかくしていった。
「蓮。私よ? 美咲よ? 前は毎日のようにメッセージくれたよね。朝も夜も、ずっと私のこと気にしてくれてたじゃない。私のこと、ずっと好きだったんでしょ?」
蓮は黙っている。その沈黙さえ都合よく受け取ったのか、一ノ瀬はさらに一歩近づき、縋るような笑顔を浮かべた。
「私もね、蓮のことは好きだったんだよ? 本当だよ? だから大事にしたかったの。すぐに付き合ったりしないで、ちゃんと時間をかけて――」
「もう黙れ」
一ノ瀬の言葉が止まった。
声は大きくなかった。怒鳴ったわけでも、拳を握ったわけでもない。それなのに、その一言を聞いた瞬間、一ノ瀬の顔から作り物の笑みが消えた。
これまで蓮は、ほとんど感情を表に出してこなかった。誰に何を言われようと、目の前で人が死のうと、感情を表情に出すことなく、いつも冷静に目の前の状況を受け止めてきた。
その蓮の目に、今だけは違うものがあった。
深い怒りだった。それはこの七十日間で生まれたものではなく、もっと前から胸の底へ沈められ、二度目の人生を始めてから一度も表へ出すことなく押し殺してきたものだった。自分の命を削ってでも一ノ瀬へ届けた日々も、雪の中を歩いて彼女のもとへ向かったことも、扉の前で裏切られた直後に柴田から殴られたことも、床に倒れて身体が動かなくなり、意識が消えていく中で最後まで見ていた彼女の顔も、蓮は一つとして忘れていない。
助けてほしかった。何か言ってほしかった。せめて、自分を殺そうとしている柴田を止めてほしかった。それでも一ノ瀬は何もせず、最後には蓮が命と引き換えに守ろうとした食料を受け取った。その女が今、目の前で笑いながら「あの頃は自分も好きだった」と口にしている。
ほんの一瞬だけ、蓮がずっと押し殺してきた感情が、隠しきれないほど濃く瞳の奥へ滲んでいた。
「……怒ってる?」
一ノ瀬は恐る恐る蓮の顔を覗き込み、すぐに謝罪の言葉を並べ始めた。
「本当にごめん。以前は私が悪かった。それは認める。どんな償いでもするから、許して。ね? もう柴田もいないんだよ? あいつ、さっき住民たちに殺されたっぽいから。もう邪魔する奴はいないの。だからこれからは私と蓮で――」
「だから黙れと言ってる」
今度こそ、一ノ瀬は完全に口を閉じた。蓮の声からは先ほど一瞬だけ漏れた怒りさえ消え、いつもの静かな声に戻っていたが、それがかえって一ノ瀬を怯ませた。
「ずっとお前らをどうするか考えてた。いろんな方法を考えた」
「……え?」
「やろうと思えば、いつでもお前らを殺せた」
一ノ瀬の顔から少しずつ血の気が引き、何を言われているのか分からないように首を振った。
「な、何言ってるの、蓮……? 私、そこまで酷いことした?」
その言葉を聞いても、もう蓮の表情は変わらなかった。
「でも、やめた」
「……え?」
一ノ瀬は数秒間その意味を考え、やがて自分に都合のいい答えへ辿り着いたらしい。強張っていた顔が一気に明るくなり、蓮へ駆け寄ろうとした。
「本当!? 許してくれるのね、蓮! ありがとう! 本当にありがとう! 私、なんだって償うから! もう絶対に蓮しか見ない。約束する! だから――」
「お前に全部返す」
一ノ瀬は足を止め、何度か瞬きを繰り返した。
「……え? なにを? 私、蓮に何かあげたっけ?」
意味が分からないまま、それでも許されたと思い込んでいる一ノ瀬は小さく笑い、自分の身体へ手を当てた。
「いいよ、いいよ。全部蓮にあげる。私が持ってるものなら何でもいいよ。もう全部……私だって全部、蓮のものにしていいから」
「それはお断りだ」
一ノ瀬の笑みが消えた。
「……なんで? なんでなのよ! 私がここまで言ってるのに、なんで!? あんなに私のこと好きだったじゃない! ずっと好きだって昔言ってくれたじゃない! それなのに何なのよ! 嘘つき!」
甘えるような声から一転して一ノ瀬が喚き始めた時、開いた金庫扉の奥から別の足音が聞こえた。
「……大丈夫? 神崎さん」
姿を見せたのは朝霧だった。焼け焦げた廊下を確認しながら蓮のそばまで来た朝霧へ、一ノ瀬もゆっくりと顔を向ける。怒りに歪んでいた彼女の表情から一瞬だけすべての動きが消え、次第に目が大きく見開かれていった。
「……お前か」
掠れた声が漏れた。白目に血管が浮き上がるほど朝霧を睨みつけながら、一ノ瀬の中でまた一つ、自分以外の誰かへ責任を押しつけるための答えが出来上がっていく。
「お前がいるから……お前が蓮をたぶらかしたのね! そうでしょ!? じゃなきゃおかしいじゃない! 蓮は私のことが好きだった! ずっと好きだったの! 蓮の横にいるのは私のはずだった! お前さえ……お前さえいなければあああああ!!」
突然自分へ向けられた罵声に、朝霧は一瞬何を言われているのか分からないような表情を浮かべた。蓮と一ノ瀬の過去について詳しい事情までは知らない朝霧にとって、目の前の女がなぜこれほど激しい憎悪を自分へ向けてくるのか理解できるはずもない。
「ちょっと、何を――」
朝霧が困惑したまま言葉を返そうとした時、一ノ瀬は叫びながら服の内側へ手を差し込み、そこに隠していた果物ナイフを引き抜いた。鈍く光る刃先が自分へ向けられたのを見た瞬間、朝霧の表情が変わり、反射的に一歩後ろへ下がる。
「神崎さん!」
一ノ瀬はそのまま果物ナイフを握りしめ、朝霧へ向かって駆け出した。朝霧がさらに後ろへ下がろうとしたその時、蓮は二人の間へ身体を入れることもなく、ただ右手を一ノ瀬へ向けた。
「これも返す」
その一言と同時に、一ノ瀬の身体を炎が包んだ。
自分が朝霧へ向かって踏み出したはずの足が止まり、一ノ瀬は何が起きたのか理解できないまま自分の身体を見下ろした。服の表面を走った炎は瞬く間に全身へ広がり、腕から肩へ、背中へと回り込んでいく。先ほど蓮が一瞬で消したはずの炎が、今度は自分だけを包み込んで燃え上がっていた。
「え……? なに……これ……?」
理解より先に熱と痛みが襲いかかり、手から果物ナイフが落ちて硬い音を立てた。一ノ瀬は反射的に両手で身体を叩き、堪えきれず床へ倒れ込むと、炎を消そうと何度も身体を転がした。それでも火は消えず、身体を擦りつけても、手で必死に払っても、赤い炎は彼女の全身を包んだまま燃え続ける。
「いやああああ! 熱い! 熱い! あづっ……あづいいいいいい!! いや! 助けて! 蓮! 助けてえええ!」
悲鳴を上げながら床を転げ回っていた一ノ瀬は、やがて炎の向こうに立つ蓮を見つけた。這うように身体を起こし、焼ける腕を伸ばしながら、それでも最後に縋った相手は蓮だった。
「蓮! 助けて! お願い! お願いだから! あづいいいい! 助けてよおおおお!!」
蓮は動かなかった。
一ノ瀬が伸ばした手にも、全身を包む炎にも、何の反応も示さず、その場に立ったまま彼女を見ていた。やがて炎の中で一ノ瀬が顔を上げ、二人の視線が重なると、蓮は静かに口を開いた。
「お前からもらったもの、全部返した」
一ノ瀬は炎の中から蓮を見つめたが、その言葉の意味は最後まで分からなかった。
確かに以前の自分は、好意を寄せてくる蓮を都合よく利用していた。自分にとって都合がいい時にはその好意を利用し、期待させるような態度を取ったこともある。それを恨んでいるのだろうかと一ノ瀬は考えたが、それでも「全部返した」という言葉が何を意味しているのかまでは分からなかった。
そもそも自分は、蓮に何かを与えた覚えなどなかった。
だから一ノ瀬には、蓮がなぜこれほどまで自分を憎んでいるのかも、今になって何を返したと言っているのかも理解できない。ただ一つ分かったのは、目の前にいる蓮がもう自分を助けるつもりなどないということだけだった。
蓮は炎に包まれた一ノ瀬を見下ろしたまま、それ以上何も説明しなかった。
「もう死ね」
「いやああああああああああ!!」
一ノ瀬の絶叫が二十五階の廊下に響き渡った。炎に包まれた身体を再び床へ倒しながら、それでも彼女は最後にもう一度だけ蓮を見た。
そして、その目を見た瞬間、一ノ瀬は悲鳴を上げることをやめた。
蓮の瞳には、もう怒りも、悲しみも、憎しみもなかった。これまで何度も自分へ向けられてきた冷たささえ、そこには残っていない。ただ目の前にあるものを見ているだけで、そこに一ノ瀬美咲という一人の人間へ向ける感情は何一つ感じられなかった。
まるで、道端に落ちているゴミでも見ているような目だった。
一ノ瀬はもう助けを求めなかった。悲鳴を上げることも、蓮へ手を伸ばすこともなく、炎に包まれたまま、ただ最後までその目を見つめ続けた。
全身を焼く耐え難い苦痛の中で、それでも助けてほしい、生きたいという思いは消えていない。だが同時に、もう何をしても助からないということを、本能の奥では分かってしまっていた。
そして、一ノ瀬美咲の意識から、すべてがなくなった。
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Day 70
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 76人
今日のメモ:
「魔女の最期は、とうの昔から決まっている」
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【あとがき】
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
ついに、蓮の因縁はここで決着となりました。
この結末については、読者の皆様それぞれに思うところがあるかと思いますが、これが作者なりに出した一つの答えとなります。
氷スト第一部も、いよいよ完結が近づいてきました。
それから、ひとつのサプライズとして、『氷河期ストレージ』のプロモーション動画のようなものを作ってみました。
https://youtu.be/9ETA2QTGttg
まだ少し荒い部分もありますが、作品の雰囲気を映像でも楽しんでいただけたら嬉しいです。ぜひ、こちらも見てみてください!
あともう少しだけ、蓮たちの物語にお付き合いいただければ嬉しいです。




