第108話 Day 70 最後の交渉
第七号から離れてしばらく歩いても、黒崎の背後から聞こえてくる声はなかなか小さくならなかった。
収容を求める避難民の叫び、押し返そうとする隊員たちの声、泣き続ける子供の声。時折、そのすべてを押し潰すような怒号が混じり、遠ざかるにつれて言葉の意味までは聞き取れなくなっても、あそこに集まった人々の焦りだけは冷たい空気を通していつまでも追いかけてくるようだった。
黒崎は一度だけ振り返ったが、すぐに前へ向き直った。戻ったところで自分にできることはない。岩森に言われた通り、自分は正式な再配置が決まる前に第七号を出た。今さら中へ戻ることもできなければ、外に溢れたあれだけの人間をどうにかする力もない。
それでも、足取りは重かった。
雪に覆われた道路には、第七号を目指して歩く人間がまだ途切れずに続いている。家族で身を寄せ合う者もいれば、大きな荷物を背負って一人で歩く者もいた。すれ違う人々の多くは疲れ切っていたが、それでも進む方向だけは同じだった。あそこまで行けば助かる。国が用意した保護地区なら、少なくとも凍え死ぬことはない。そんな希望だけを頼りに歩いているのだろう。
だが、その先で何が待っているのかを黒崎は知ってしまった。
全員は入れない。
それどころか、もう入口の規制線すら維持できなくなり始めている。
「……四日か」
思わず漏れた声は、吹きつける風にすぐ消えた。
自分たちがあそこへ辿り着いてから、まだ四日しか経っていない。それなのに第七号を取り巻く状況は、別の場所かと思うほど変わっていた。
そんなことを考えながら歩いていた黒崎は、道路脇にある建物の陰で、身を寄せ合うように座っている人影に気づいた。
四人いた。
一人は七十歳を越えていそうな老人で、壁に背中を預けたまま俯いている。その隣には三十代ほどの男が座り込み、片方の足を伸ばしていた。ズボンの膝から下には布が巻かれているが、すでに汚れと血で色が変わっている。残る二人も四十代前後の男女だったが、どちらも顔色が悪く、頬はこけ、寒さだけでは説明できないほど身体を小さく丸めていた。
黒崎は数歩通り過ぎかけてから、結局足を止めた。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、四人のうち女がゆっくり顔を上げた。警戒するような目だったが、黒崎が一人だと分かると、わずかにその表情が緩んだ。
「……大丈夫、ではないです。でも、少し休めば……」
女はそう答えたものの、隣にいる怪我人を見る限り、少し休んだ程度でどうにかなる状態には見えなかった。
「その足、どうしたんです?」
「前住んでたところで襲われて……でも、もう痛いって感覚はほとんどありません」
男は苦笑しながら答えたが、立とうとはしなかった。立てないのだろう。
黒崎は四人の荷物を見た。大きなバッグを持っている者はいない。老人の脇に小さなリュックが一つと、女が抱えている手提げ袋がある程度だった。
「保護地域へ向かってたんですか?」
その問いに、四人の表情がわずかに曇った。
「……行ってきました」
「え?」
「入れてもらえなかったんです」
黒崎は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「入口で?」
「はい。中にはもう入れられないって。怪我してる人もいるって言ったんですけど……それでも無理だって」
女の声に政府への強い怒りはなかった。ただ、もう怒るだけの体力さえ残っていないように聞こえた。
黒崎は老人を見る。意識ははっきりしているようだが、かなり疲れている。怪我をしている男も、少なくとも今すぐ命に関わるような重傷には見えない。
四日前なら。
そこまで考えたところで、黒崎は第七号の地上で見た光景を思い出した。
自分たちが来た時にも避難民はいた。施設の収容能力に限界があることも、内部で人間が査定されていることも、今なら分かる。それでも自分たちは地下へ入れた。老人だからというだけで入口から追い返されることもなければ、歩ける程度の怪我を理由に弾かれることもなかった。
ところが、たった四日でそこまで変わった。
地上施設を埋め尽くした人々、その外まで伸びていた列、今もなお第七号を目指して歩き続けている避難民。あれだけの人数が押し寄せれば、地下へ入れてから一人ずつ査定する余裕すら失われていくのだろう。
『新しい血を入れ続ける必要がある』
岩森の言葉が、黒崎の頭をよぎった。
限られた場所へ、増え続ける人間を入れ続けることなどできない。
理屈は分かる。
だが、目の前にその「入れない側」がいると、理解できることと納得できることが同じではないことも分かった。
「これから、どうするつもりなんです?」
「……分かりません」
今度は男が答えた。
「とりあえず少し休んで、それから考えようって。でも……」
男は自分の足へ目を落とした。
黒崎はしばらく黙っていたが、やがて背負っていたリュックの肩紐を握り直した。
「ここじゃ風をまともに受けます。とりあえず、もう少し休める場所を探しましょう」
「でも……」
「その足じゃ無理ですよ。肩、貸します」
怪我人の返事を待たず、黒崎は男の腕を自分の肩へ回した。立ち上がった瞬間、男の顔が痛みに歪み、体重のかなりの部分が黒崎へかかってきたが、それでも歩けないわけではなかった。残る二人が老人を支え、五人は道路沿いの建物を探しながら、ゆっくりと移動を始めた。
幸い、十分ほど進んだところに小さな事務所らしい建物があった。窓の一部は割れていたものの、奥の部屋なら直接風は入ってこない。入口も壊されていて鍵の心配もなく、今の五人にとってはそれだけでも十分だった。
黒崎は怪我人を壁際へ座らせ、老人にも休むよう促した。歩いた距離そのものは大したことがない。それでも四人にとっては相当な負担だったらしく、誰もしばらく口を開かなかった。
やがて静かな室内に、小さな音が響いた。
腹の鳴る音だった。
女が恥ずかしそうに腹を押さえたが、その直後、今度は老人の腹から似たような音が聞こえた。
黒崎は何も言わず四人を見たあと、少し迷ってから尋ねた。
「最後に食べたの、いつですか?」
誰もすぐには答えなかった。
やがて怪我をした男が、小さく息を吐いた。
「……二日前です」
「二日?」
「第七号まで行けば、何とかなると思ってたんです。途中で残ってたものを分けながら来て……昨日の朝には、もう何もなくなりました」
黒崎は無意識に、自分の背中へ手を伸ばしかけた。
『その食い物はお前が食え。他の奴らに渡すな。まずは自分が生きることを考えろ』
岩森の声が、今度は先ほどよりはっきりと蘇った。
言っていることは正しい。
黒崎自身、これからどこへ行くのかさえ決めていない。第七号を出た以上、次に食料を確保できる保証などどこにもなく、このリュックに入っているものは、文字通り自分が生きるためのものだった。
それでも、二日間何も食べていない人間が四人、目の前にいる。
「……先輩、やっぱり俺には無理ですよ」
誰にも聞こえないほど小さく呟き、黒崎はリュックを下ろした。
「少しだけです。俺もこれからどうなるか分からないんで、全部は渡せません。それでもよければ」
中から食料を取り出すと、四人は一瞬それが何なのか理解できないように見つめていた。
「いいんですか……?」
「どうぞ」
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
老人は震える手で受け取り、何度も頭を下げた。残る三人も同じだった。黒崎が渡した量は決して多くない。それでも彼らは急いで口へ詰め込むこともせず、少しずつ噛みながら食べていた。
食事を終えて多少落ち着いた頃、四人はこれまでのことを話し始めた。
彼らも、もともとは一つのマンションで暮らしていたという。
寒冷化が始まった直後は、住民同士で食料を持ち寄り、何とか分け合っていた。最初のうちは、それでもやっていけた。だが日が経つにつれて食料は減り、誰がどれだけ持っているのかを疑う者が現れ、配給を巡って言い争いが増えていった。
それだけなら、まだ耐えられた。
決定的だったのは、外から人が来るようになったことだった。
「最初は三人だったんです。食べ物を少し分けてほしいって。それで住民の一人が、少しだけならって渡したんです」
女は膝を抱えながら、淡々と話した。
「でも次の日、もっと来ました。どこで聞いたのか分からないですけど、あそこには食料があるって。それから毎日のように人が増えて……最後は入口を壊して入ってきました」
住民たちも抵抗した。怪我人が出て、死人も出た。誰が住民で誰が外から来た人間なのか分からなくなるほど混乱し、最後にはマンションそのものに留まることができなくなったという。
四人はそこから逃げた。
途中で保護地域の存在を知り、そこまで行けば助かると信じて歩き続けた。
そしてようやく辿り着いた場所で、入れないと告げられた。
「……そうですか」
黒崎はそれ以上、何も言えなかった。
自分たちのマンションだけではなかった。
食料が減る。人が疑い始める。外から別の人間が来る。そして、最後には争いになる。
形は違っても、同じようなことがあちこちで起きている。
もしかすると、この街の至るところで同じように小さな社会が作られ、同じように壊れているのかもしれない。
「あなたは、これからどこへ行くんですか?」
女に聞かれ、黒崎は苦笑した。
「それが、まだ決めてないんです」
「え?」
「俺も今日、あそこを出たばかりなんですよ。だから、これから住めそうな場所を探そうと思ってます」
四人が顔を見合わせる。
黒崎は少し考えてから続けた。
「もしよかったら、一緒に探しませんか。どこか、しばらく拠点にできそうな場所を。俺一人じゃできないことも、五人ならできるかもしれない」
「……いいんですか?」
「もちろん」
今度は四人の顔に、わずかな笑顔が浮かんだ。
老人はまた何度も頭を下げ、怪我をした男も「ありがとうございます」と繰り返した。
それからしばらく休み、怪我人が再び歩ける程度まで回復したところで、五人は建物を出た。
行き先は決まっていない。
どこに安全な場所があるのかも分からない。
それでも黒崎は再び怪我人へ肩を貸し、残る二人が老人を支えながら、五人で雪の積もった道を歩き始めた。
目的地のない彼らの背後では、第七号を目指す人の列が、今も途切れることなく続いていた。
◇
「……そのスマホ、三浦さんの?」
朝霧が怪訝そうな顔で、蓮の手元を見ていた。
「ああ」
「どうしてあなたが持ってるのよ。三浦さんって、もう……」
「死んでる」
蓮は何でもないことのように答えた。
朝霧の視線がスマホと蓮の顔を何度か往復する。
「じゃあ、さっき柴田に送ったのって……」
「逃げ道を塞ぐためだ」
「あなたね……」
呆れたような声を漏らす朝霧を横目に、蓮は手の中のスマホを軽く持ち直した。
あの日、三浦をプレスで押し潰した後、衝撃で三浦のポケットから何かが飛び出した。硬い床を滑り、数メートル先で止まったのは一台のスマホだった。
蓮はそれを拾った。
画面にはロックがかかっていたが、解除する方法はすぐそばにあった。
まだ温かさの残っていた三浦の手を持ち上げ、その指を認証部分へ押し当てる。ロックが解除されると、蓮は設定を開き、自分の指紋を追加した。
そのあと、蓮は三浦の死体だけでなく、床に飛び散った血や身につけていた物、あたりに残った痕跡までまとめて収納した。
三浦が死んだと分かるものは、何一つ残さなかった。
そうすれば柴田たちには、三浦が殺されたのではなく、自分たちを裏切って蓮の側についたように見える。朝霧と二人が揃って姿を消し、その後に三浦が戻らなければ、柴田たちがそう考える可能性は十分にあった。
最後に三浦のスマホも収納し、蓮は何事もなかったようにその場をあとにした。
「……あの時から、今日こうなるって分かってたの?」
朝霧に聞かれ、蓮は首を横へ振った。
「三浦がいなくなれば、食料も住民の感情もあいつらだけじゃまともに管理できない。いずれ住民と衝突することは分かっていた」
「それでスマホを?」
「何かに使えるかもと思って残しておいただけだ。今日みたいな流れになったのは……まあ、できすぎだけどな」
「できすぎって、あなたね……何人死んでると思ってるの」
朝霧は呆れたように蓮を見たが、蓮は特に気にした様子もなく、監視画面へ視線を戻した。
画面の中では、柴田と一ノ瀬が慌ただしく動いていた。
◇
「三浦……?」
柴田はスマホの画面を睨んだまま、しばらく動かなかった。
消えたと思っていた男の名前が、そこに表示されている。
『剛 すぐ2501へ来い 俺がチャンスを作る』
「三浦!?」
一ノ瀬も画面を覗き込み、目を見開いた。
「生きてたの!? じゃあ早く行こうよ! 2501に入れるってことでしょ!?」
「待て!」
柴田は怒鳴り、すぐに文字を打ち込んだ。
『てめえ今まで何してやがった』
返事はすぐに来た。
『訳は来てから話す 時間がない』
続けて、もう一通。
『神崎は今そっちの騒動に気が向いてる 今なら入れる』
柴田は舌打ちした。
三浦が何をしていたのかは分からない。なぜ今まで姿を見せなかったのかも分からない。問い詰めたいことはいくらでもあった。
だが、下からはすでに住民たちの怒鳴り声が聞こえ始めている。
今は選んでいる時間がなかった。
「行くぞ!」
「分かってる!」
一ノ瀬は慌ててバッグを肩へ掛け、柴田とともに部屋を出ようとした。
だが玄関を出る直前、ふと何かを思い出したように足を止めた。
「……ちょっと待って」
「何してんだ! 早くしろ!」
「分かってるわよ!」
一ノ瀬は部屋の奥へ戻ると、棚の下から一本の大きめのボトルを取り出した。それをバッグの奥へ押し込むと、今度こそ柴田のあとを追って廊下へ飛び出した。
二人は階段を駆け上がった。
途中の階からも住民の声が聞こえる。すでに柴田が上へ逃げたことは伝わっているらしく、下からだけではなく別の階からも人が動き始めていた。
「急げ!」
「分かってるって言ってるでしょ!」
二人は何度も転びそうになりながら階段を駆け上がり、ようやく25階へ辿り着いた。息を切らしながら廊下へ飛び出した柴田の視線の先には、これまで何度も開けようとして、そのたびに拒まれてきた2501の巨大な金庫扉がある。
「三浦! おい、どこだ!」
柴田の声が廊下に響いたものの、三浦からの返事はなかった。つい数分前までスマホでやり取りしていたはずなのに、人の気配さえ感じられない。不審そうに眉を寄せながら金庫扉へ近づこうとした柴田は、その前に何かが横たわっていることに気づき、数歩進んだところで足を止めた。
「どうしたのよ? 三浦は?」
後ろから追いついた一ノ瀬も、柴田の肩越しに廊下の先を覗き込む。しかし、すぐにその表情から焦りが消え、代わりに理解できないものを見たような戸惑いが浮かんだ。
金庫扉の前に横たわっていたのは、人だった。
衣服はひどく汚れ、身体の一部は押し潰されたことで、人間のものとは思えないほど不自然に変形している。それでも、残された顔を見間違えるはずがなかった。
三浦直人だった。
柴田はしばらく目の前の死体を見つめたまま動けず、やがて何かを確かめるように手の中のスマホへ視線を落とした。画面には、ほんの数分前まで自分とやり取りしていた相手として三浦の名前が残っている。
だが、その三浦は今、変わり果てた姿で目の前に横たわっている。
柴田の視線がスマホから死体へ戻り、そこでようやく、ついさっきまで信じていた話と目の前の現実がまったく噛み合っていないことに気づいた。
ついさっきまで自分が信じていた幻想が、目の前で音を立てて崩れていく。
「……神崎」
柴田の口から、低い声が漏れた。
三浦からメッセージが届いた時、柴田はようやく合点がいったとさえ思っていた。自分たちの前から突然姿を消したのも、本当に裏切ったわけではない。
三浦は神崎の側にいるふりをしながら2501へ入り込み、ずっと中から機会を窺っていたのだと。だからこそ今になって『俺がチャンスを作る』などというメッセージを送ってきたのだと思っていた。
だが、目の前に転がっている三浦の死体が、その考えを根本から否定していた。
そして、その三浦のスマホから送られてきたメッセージを信じ、自分は一ノ瀬を連れて2501まで来てしまった。
ここへ来れば助かると思っていた。
神崎を出し抜けると思っていた。
だが実際には、その逆だった。
自分たちの方が、神崎の仕掛けた罠へ自分の足で飛び込んだのだ。
その事実を理解した直後、階段の方から複数の足音が響いた。
「上だ! さっき上がっていくのを見た!」
「あのクソ女もいる! 一緒にぶっ殺せ!」
「絶対に逃がすな!」
二人は階段まで近づき、下の階を覗き込む。
柴田が階段へ目を向けると、鉄パイプや工具を手にした住民たちが次々と姿を現した。誰もが昨日からの血と汚れを身体に残したままで、その足を止めることなく、まっすぐ柴田たちのいる25階へ上がってくる。
「くそっ! もう追ってきやがった!」
柴田は舌打ちすると、反射的に一ノ瀬の腕を掴んで自分の背後へ押しやった。
三浦が死んでいた以上、2501へ逃げ込むことはもうできない。逃げてきた階段からは自分たちを追う住民の足音と怒鳴り声が、先ほどよりもはっきり聞こえている。
「お前は下がってろ! 邪魔だ!」
柴田はハンマーを両手で握り直し、階段の前まで進んだ。
「柴田! 逃げられると思うなよ!」
「ぶっ殺してやる!」
「早く上がれ! 逃がすな!」
怒鳴り声が階段の下から次々と響いてくる。
柴田は階段の縁から下を覗き込み、ハンマーを握る手に力を込めた。ここなら一度に上がってこられる人数は限られ、狭い階段であれば、人数差があっても最初の何人かを叩き落とすことはできる。
「来いや! てめえら! 上がってきた奴からぶっ殺してやる!」
「ふざけんな! 今度はお前の番だ!」
「殺せ! 柴田を殺せ!」
柴田は階段の上で腰を落とし、最初に姿を現した人間へすぐハンマーを振り下ろせるよう構えたその時――。
背中に強い衝撃を受けた。
「――っ!?」
何が起きたのか理解するより先に身体が前へ傾いた。
足が階段の縁を外れる。
柴田は咄嗟に手すりへ手を伸ばしたが、指先は届かず、そのまま階段を転げ落ちた。肩、背中、頭を何度も硬い段差へ打ちつけ、持っていたハンマーも途中で手から離れて飛んでいく。
ようやく踊り場で止まった柴田は、呻きながら顔を上げた。
「て、てめえ……何しやがる……」
階段の上に、一ノ瀬が立っていた。
一ノ瀬は柴田を見下ろし、ほんの少し困ったような顔をした。
「ごめんね。でも守ってくれるなら、これくらい平気よね」
柴田は何も言えなかった。
ただ、信じられないものを見るように一ノ瀬を見つめた。
その顔を見ているうちに、なぜか今まで聞いてきた言葉が頭の中へ蘇ってきた。
『別に私らのせいじゃないじゃん』
『もう何人も殺してるくせに』
『じゃあ、地下にでも運んどけば?』
そして自分たちの仲間、大野が死にそうになっていた時も――。
『こいつ、もう使えないじゃん』
柴田の目が、ゆっくりと見開かれた。
「美咲……お前……」
最後まで言葉にはならなかった。
「倒れてるぞ! 今だ! 殺れえええ!」
住民たちが踊り場へ雪崩れ込んできた。
「待て! てめえら――」
最初の蹴りが柴田の腹へ入った。
「ぐっ……!」
身体を丸めたところへ、今度は鉄パイプが肩へ振り下ろされる。柴田は咄嗟に両腕で頭を庇い、立ち上がろうとしたが、横から別の男に蹴られて再び床へ倒れた。
「やめろコラァ!! てめえら、ぶっ殺すぞ!!」
怒鳴りながら腕を振り回し、一人の足を掴んで引き倒す。それでも次の人間が来る。その次も、そのまた次も来る。
「俺たちをコケにしやがって!」
「食い物返せ!」
「お前らのせいで何人死んだと思ってんだ!」
拳が飛び、靴が身体へ食い込み、棒や工具が何度も振り下ろされた。
柴田は両腕で頭を守りながら、必死に耐えた。
「やめろ! コラァ!」
まだ声は大きかった。
「てめえら……!」
次第に掠れた。
「やめ……」
やがて、その声も住民たちの罵声に飲み込まれた。
それでも殴打は止まらなかった。
柴田の最後の視界に映っていたのは、自分を殴り続ける住民たちではなかった。
階段の上。
一度も振り返ることなく、2501の金庫扉へ走っていく一ノ瀬の背中だった。
◇
「蓮! 開けて!」
一ノ瀬は2501の金庫扉を両手で叩いた。
「お願い! 開けてよ! 私よ! 美咲よ!」
返事はない。
「聞こえてるんでしょ!? お願いだから開けて! あいつら、私まで殺すつもりなの!」
何度叩いても扉は動かなかった。
一ノ瀬は振り返った。
階段の向こうからは、まだ住民たちの怒鳴り声が聞こえている。柴田の声は、もう聞こえなかった。
「蓮……お願い」
声の調子が変わった。
「私たち、昔あんなに仲良かったじゃん。覚えてるでしょ? ずっと一緒にいたじゃん。私のことずっと好きだったじゃん! ねえ!」
一ノ瀬は返事を待ったが、扉の向こうから蓮の声が返ってくることはなかった。
「柴田に言われたのよ! 私だって嫌だった! でもあいつ怖いし、逆らったら何されるか分からなかったから……仕方なかったの!」
それでも返事はない。
「本当よ! 私だってずっと蓮のこと気になってた! 柴田と一緒にいたのだって、本当に好きだったからじゃない! 生きるために仕方なかっただけなの!」
扉のスピーカーから、ようやく声が響いた。
「それで?」
一ノ瀬の表情が明るくなる。
「蓮! 聞いてくれてたのね!」
「ああ。聞こえてる」
「だったら開けて! お願い! 私、もう柴田とは何でもないから! あいつももう……もういないし、これからは蓮と一緒にいる! 昔みたいに戻れるから!」
「断る」
一ノ瀬の笑顔が固まった。
「……なんで?」
「さあな」
「でも、私たち――」
「俺とお前は何の関係もない」
一ノ瀬は唇を震わせた。
「そんなことないでしょ……私、何でもするから」
「興味ない」
「家事だってする! 蓮の言うこと何でも聞く! 絶対に逆らわない! だから中に入れて!」
「必要ない」
「じゃあ……」
一ノ瀬は一瞬ためらったあと、自分の上着へ手をかけた。
「私のこと、好きだったでしょ?」
震える指で留め具を外そうとする。
「ねえ、見えてるんでしょ? 蓮がしたいなら、何だってしてあげる。毎日でもいい。だから――」
「だからお前になんか興味ない」
一ノ瀬の指が止まった。
扉の向こうから聞こえる蓮の声には、怒りも迷いもなかった。
「汚いものを見せるな」
「……え?」
一ノ瀬はしばらく動かなかった。
自分が何を言われたのか理解できないように、閉ざされた金庫扉を見つめている。
その時だった。
「あの女がいたぞ! あそこだ!」
階段の方から声が響いた。
「もう絶対逃がすな!」
「そいつも殺せえ!」
一ノ瀬が振り返ると、階段の下から響いていた足音はすでにすぐ近くまで迫っていた。
やがて階段から何人もの住民が25階へ上がり、鉄パイプを握った男を先頭に、その背後にはさらに多くの人影が続いていた。
誰もが一ノ瀬を見ていた。先ほどまで柴田へ向けられていた怒りと殺意が、今度は一人残された彼女へ向けられていた。
一ノ瀬は住民たちを見つめたまま、無意識に一歩後ろへ下がった。
しかし、その背中にあるのは、どれだけ頼んでも開かなかった2501の金庫扉だった。柴田はもういない。三浦も死んでいた。頼れる人間は誰も残っておらず、目の前には自分を殺そうとする住民たちがいて、唯一安全な場所である2501からも蓮にはっきりと拒絶された。
ここまで追い詰められて初めて、自分にはもう逃げる場所がどこにもないことを理解した。
しばらく住民たちを見ていた一ノ瀬は、今度は背後の金庫扉へ顔を向けた。あれだけ自分を好きだったはずの蓮に頼み、昔の関係を持ち出し、柴田に責任を押しつけ、それでも駄目だと分かると、今度は本当は蓮に好意を寄せていたのだと訴えた。
しかし、それでも駄目だった。
何でもすると言っても、自分の身体まで差し出そうとしても、蓮は結局あの日と同じように最後まで扉を開けなかった。
再び住民たちへ向き直った時、一ノ瀬の顔に残っていた恐怖は、少しずつ別の感情に塗り潰されていた。
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。
どうして誰も自分を助けてくれないのか。
どうして蓮まで自分を見捨てるのか。
逃げ道を失った恐怖はやがて行き場を失った怒りへ変わり、その怒りは目の前の住民だけでなく、扉の向こうにいる蓮にも、ここにいる全員にも向けられていった。
「……もういいわよ」
一ノ瀬は肩に掛けていたバッグを床へ落とすと、中へ乱暴に手を突っ込み、一本の燃料ボトルを取り出した。中に入っているのは、マンションの保管庫に残されていた発電機用のガソリンだった。
周囲の住民が怪訝そうに見つめる中、一ノ瀬は何も言わずに蓋を開け、そのまま2501の金庫扉へ中身を勢いよくぶちまける。液体が扉を伝って流れ落ち、床へ広がっていくのを見て、ようやく住民の一人が異変に気づいた。
「おい、何してる!」
一ノ瀬は答えず、扉の周囲、壁、床へ液体を撒き散らした。そのまま身体を反転させ、残っていた液体を廊下へ勢いよく振り撒く。
飛沫が床を濡らし、住民たちの足元近くまで広がった。
「……なんだこれ?」
一人が鼻を動かした。
次の瞬間、顔色が変わった。
「ガソリンだ!」
「な、なんでガソリンなんか!?」
「下がれ! 近寄るな!」
さっきまで一ノ瀬を殺そうと迫っていた住民たちが、一斉に足を止めた。
一ノ瀬はそれを見て笑った。
「……もういい」
笑いながら、目から涙が流れていた。
「もう、どうでもいいわよ」
バッグからライターを取り出す。
「おい! やめろ!」
「近づくな! 火ぃつけるぞ!」
「だったら死ねええええ!!」
一ノ瀬の絶叫が廊下に響いた。
「いくらドアが強くたって、燃えちゃったらどうしようもないでしょ!! 私を入れないなら、あんたも死ね! みんな死ね!」
「やめろ!」
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ねええええ!!」
一ノ瀬はポケットからライターを取り出し、親指で着火レバーを押した。小さな炎が灯ると、そのまま金庫扉へ手を伸ばしていく。
炎が液体に触れた瞬間、火は扉を舐めるように一気に燃え上がった。さらに流れ落ちた液体を伝って床へ走り、金庫扉の前を瞬く間に炎が覆っていく。
「うわっ!」
「下がれ! 早く!」
突然膨れ上がった炎と熱気に、住民たちは悲鳴を上げながら一斉に後退した。
狭い廊下に焦げた臭いが広がり、揺れる炎が金庫扉と人々の顔を赤く照らし出し、壁際へ飛び散った液体にも次々と燃え移っていく。
わずか数秒だった。
2501の入口は炎に包まれた。
熱気が廊下を満たし、住民たちはさらに距離を取った。一ノ瀬自身も炎から数歩離れながら、それでも逃げようとはしなかった。
「死ね……みんな死ねばいいのよ……!」
炎の向こうには、巨大な金庫扉がある。
あれほど入りたかった場所。
何度頼んでも、何度騙そうとしても、何度奪おうとしても、最後まで自分のためには開かなかった扉。
一ノ瀬は涙を流しながら笑った。
炎はさらに大きくなった。
その時。
燃え盛る炎の向こうから、重い金属音が響いた。
――ガコン。
巨大な金庫扉が、ゆっくりと動き始めた。
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Day 70
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 76人
今日のメモ:
「最後に残るのは、その人間が選んだもの」
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