第107話 Day 70 復讐
マンションへ戻ってきた住民たちは、誰もすぐには口を開かなかった。
つい数分前まで外を満たしていた怒号も悲鳴も、分厚いエントランスの扉を隔てれば嘘のように遠ざかっていたが、だからといって何もなかったことにはならない。
床には雪と泥が持ち込まれ、その上を何人もの靴が歩いたことで黒く汚れている。壁際へ座り込んだ男の手にはまだ金属バットが握られたままで、その先端には乾き始めた赤黒いものがこびりついていた。
別の男は自分の服についた血を何度も手で払おうとしていたが、染み込んだものが消えるはずもなく、やがて諦めたように手を止めた。
吐いている者もいた。怪我をした腕を押さえている者も、何も言わず床だけを見つめている者もいた。
それでも、誰かが「俺たちは人を殺した」と口にすることはなかった。襲ってきたのは向こうだった。食料を奪われれば自分たちが死んでいた。やらなければやられていた。誰かに教えられたわけでもないそんな言葉を、それぞれが自分の中で繰り返しながら、ついさっき自分の手で何をしたのかをどうにか飲み込もうとしていた。
その沈黙の中で、柴田だけが立っていた。
頬には殴られた跡があり、服にも血がついている。肩で息をしながら周囲を見回した柴田は、床へ座り込んでいる住民たちを見て露骨に顔をしかめた。つい先ほどまで一緒に外敵と戦っていたことなど関係ない。戦いが終わった以上、柴田の中ではもう元の関係へ戻っただけだった。
「おい、お前ら。いつまで座ってんだ。さっさと片付けろ」
何人かが顔を上げた。
だが、立ち上がる者はいなかった。
これまでなら違った。柴田が声を荒らげれば、誰かが先に動いた。殴られたくない、目をつけられたくない、自分だけは標的になりたくない。そんな恐怖が一人を動かせば、残りもそれに続き、結局は誰も逆らわない。それがこのマンションでいつの間にか出来上がっていた当たり前だった。
柴田も当然、誰かが動くと思っていたのだろう。しばらく待っても誰一人立とうとしないことに苛立ったように舌打ちすると、近くに座っていた男へ視線を向けた。
「聞こえなかったのか? 外も中もぐちゃぐちゃだろうが。死体もそのままにしとくつもりかよ。動けっつってんだ」
男はゆっくり顔を上げた。額には乾いた血がつき、右手にはさっきまで外で振り回していた鉄パイプが握られている。柴田と目が合った瞬間、その男は一度だけ視線を逸らした。これまで身体へ染みついていた恐怖が、反射的にそうさせたのかもしれない。
だが、男は立たなかった。
「……自分でやれよ」
◇
エレベーターが地上へ近づくにつれ、黒崎は背中にあるリュックの重さを何度も意識していた。
岩森から渡された餞別だった。食料だけではなく、水、防寒用品、簡単な救急用品、その他にも外で生き延びるために必要なものが詰め込まれている。地下ではそれほど意識しなかった重量が、一人で地上へ戻る今になって妙に重く感じられた。
やがてエレベーターが停止し、扉が開いた。
その瞬間、黒崎は足を止めた。
「……なんだ、これ」
四日前、自分たちがここへ到着した時にも大勢の人間がいた。受付には列ができ、職員たちは次々と到着する避難者の登録や確認に追われていた。それでも、少なくとも人が歩くための通路は残されていたし、暖房の効いた待機場所へ案内され、そこで座って自分たちの順番を待つこともできた。
今は、その面影すらほとんど残っていなかった。
地上施設の広い待機スペースは人で埋め尽くされ、壁際だけでは足りず、通路の端にまで毛布や荷物が並べられている。幼い子供を抱いた母親、杖をついた老人、厚着の上からさらに毛布を身体へ巻きつけている者までいて、職員が人一人通れる程度の通路をどうにか確保しながら何度も移動を求めていた。それでも新たな人間が入口から次々と入ってくるため、整理してもすぐに別の場所が塞がってしまう。
たった四日だった。
自分たちがここへ到着してから、まだ四日しか経っていない。
黒崎は人を避けながら出口へ向かったが、建物を出たところで再び立ち止まった。地上施設の中が混雑していたのではない。施設そのものが、もう人を収めきれていなかった。
外にも人がいた。
吹きつける雪を避けるように建物の壁際へ集まり、何重にも服を着込みながら順番を待っている。簡易テントのようなものも増設されていたが、それでも到底足りていない。
さらに先へ視線を向ければ、保護地区へ続く道路から荷物を背負った人間が途切れることなく歩いてくるのが見えた。家族らしい集団もいれば、一人で歩いている者もいる。雪の上へ座り込み、もう動けないのか他人に肩を貸されている者までいた。
黒崎の頭に、昨夜聞いた岩森の声が蘇った。
『ほとんどの人間は入れねえんだよ』
地下の静かな部屋で聞いた時には、それは数字と理屈の話だった。全国の指定広域保護地区が直接守れる人数には限界がある。現在の人口を考えれば、大多数の国民を収容することなど最初からできない。だから評価し、残す者を選び、時には再配置を行い、その空いた場所へ新たに到着した者を入れる。
理解したつもりだった。
だが、目の前にいる一人一人を見ていると、昨夜聞いた話がまるで違うものに思えた。
「お願いします! 娘だけでも入れてください!」
突然上がった声に、黒崎はそちらへ顔を向けた。
入口の一つで、中年の男が規制線の前に立つ警備要員へ詰め寄っていた。その腕には十歳にもならない少女が抱かれており、厚い帽子の下から覗く顔は青白い。
「何度も説明しています! 現在、内部は収容上限に達しています。こちらで待機してください!」
「いつまで待てばいいんだよ! この子、もうずっと震えてるんだぞ! 中は暖かいんだろ!?」
「医療対応が必要な場合はこちらで確認します! まず列へ――」
「列なんかもう何時間も並んでんだよ!」
男の声に反応するように、周囲からも声が上がり始めた。
「俺たちだってずっと待ってる!」
「中にまだ場所あるんだろ!」
「ここまで来たんだぞ! 今さら外で待てってどういうことだ!」
警備側も怒鳴り返しているわけではなかった。何人もの隊員が規制線の前へ並び、落ち着くよう繰り返し呼びかけている。しかし、数十人の声が百人へ広がり、後ろから事情を知らない者まで押し寄せ始めると、先頭にいる者たちの身体が規制線へ押しつけられた。
「押さないでください! 後ろの方、下がってください!」
「おい! 開けろ! 頼む!」
「ここまで歩いてきたんだ! 中に入れろ!」
一人の男が規制用の柵へ手をかけた。それを隊員が止めようとした瞬間、別の誰かが横から身体をぶつけ、柵の一部が大きく傾いた。倒れた人間の悲鳴が上がり、それを見た周囲がさらに興奮する。誰かが隊員の腕を掴み、別の男が倒れた柵を跨ごうとした。
次の瞬間、乾いた銃声が空へ響いた。
それまで無数の怒号が飛び交っていた場所から、音が消えた。
銃口を上へ向けた隊員自身も険しい顔をしていた。周囲の隊員がすぐに前へ出て規制線を立て直しながら、何度も下がるよう叫んでいる。
「これ以上前へ出ないでください! 押さないでください! 怪我人が出ます! 順番に対応しますから、下がってください!」
誰も撃たれていない。
それでも、たった一発の銃声で、そこに越えてはいけない境界が存在することだけは全員が理解したらしい。先ほどまで柵を押していた者たちが少しずつ後退し、泣き声や不満の声だけが残った。
黒崎は、その光景を遠くから見つめていた。
岩森が言っていたことが、嫌になるほど分かってしまった。
地下にいる一人を守り続けるということは、単にその一人を救うことだけではない。収容できる人数が決まっている以上、その場所を使い続ける限り、今ここで震えている誰か一人が入れない。もちろん、だからといって誰かを外へ出していいのかと問われれば、黒崎には今でも簡単に頷くことなどできなかった。
それでも、自分がこれまで考えていたことが、あまりにも単純だったのではないかという疑問だけは消せなかった。
「……俺が、間違ってたのかな」
答える者はいなかった。
黒崎はしばらくその場に立っていたが、やがて保護地区へ背を向けた。どこへ行くのかはまだ決めていない。それでも、あそこへ戻ることだけはできなかった。
歩き始めてからも、人の姿は途切れなかった。
保護地区から遠ざかっているのは黒崎一人で、すれ違う人々のほとんどはこちらへ向かってくる。大きなキャリーケースを二人で引いている夫婦、子供の手を引く父親、背中を丸めながら一歩ずつ雪を踏んでいる老人。中には黒崎へ「保護地区はあとどれくらいですか」と尋ねる者もいた。
「……もう少しです。この道を真っ直ぐ行けば着きます」
「よかった……ありがとうございます」
そう答えた男は、後ろにいる家族へ「もう少しだって」と声をかけた。
その声を聞いて、黒崎は何も言えなくなった。
着けば助かるとは言えなかった。
入れるとも言えなかった。
家族が通り過ぎてからも、黒崎はしばらくその背中を見つめていた。肩に食い込むリュックのベルトへ無意識に手をかけると、その中に何が入っているのかを思い出す。
『いいか、その食い物はお前が食え。他の奴らに渡すな。まずは自分が生きることを考えろ』
岩森の声が頭に残っていた。
少し前までの黒崎なら、迷わなかったのかもしれない。
けれど今は、目の前の人間すべてを助けることなどできないという現実を、嫌でも見せつけられていた。誰か一人に食料を渡せば、その分だけ自分が生きられる日数が減る。二人に渡せばさらに減る。そして、目の前を歩いている人間は二人や三人ではない。
黒崎はリュックから手を離すと、遠ざかっていく家族をもう一度だけ見送った。何かを決めたわけではなく、自分の中に生まれた迷いにもまだ答えは出ていなかったが、それでもいつまでもそこに立ち続けることはできない。しばらく雪の中で沈黙したあと、黒崎は再び一人で歩き始めた。
◇
「……今、なんつった?」
柴田の声は低かった。
エントランスへ戻ると、先ほど「自分でやれ」と言った男はまだ同じ場所に座っていた。ただ、今度は視線を逸らさなかった。
「聞こえただろ。自分でやれって言ったんだよ。俺たちはもう疲れてんだ」
「あ?」
「外であれだけやってきたんだぞ。怪我してる奴だっている。片付けたきゃ、お前がやればいいだろ……」
周囲の住民たちが顔を上げた。
柴田のこめかみが僅かに動く。
「てめえ……誰に口利いてんのか分かってんのか?」
「やめろって!」
間へ入ったのは松本だった。柴田の肩を掴みながら住民たちへ顔を向けると、まだ荒い息のまま声を張り上げた。
「今ここで揉めてどうすんだよ! さっき一緒に戦っただろうが! 俺たちがいなかったら、あいつらに食い物全部持ってかれてたかもしれねえんだぞ!」
「ふざけんな!」
別の住民が立ち上がった。
「一緒に戦ったからなんだよ! それで今までやったことが全部なくなんのか!?」
「なんだと?」
「お前らだって住民殺してるじゃねえか! 食い物だって好き勝手持っていっただろうが! 何が一緒に戦っただよ、お前らもあいつらと似たようなもんじゃねえか!」
「てめえ!」
柴田の仲間の一人が男へ詰め寄り、胸倉を掴んだ。男も反射的にその腕を払い、互いの身体がぶつかったところへ周囲の人間が割って入る。止めようとする者、押し返そうとする者、怒鳴る者が一斉に動いたことで、誰が最初に手を出したのか分からなくなるまで数秒もかからなかった。
柴田の仲間が一人の住民を殴った。
住民の顔が横へ跳ねた。
以前なら、それで終わっていた。
殴られた人間が黙り、周囲も目を逸らし、柴田たちの暴力だけがその場の答えになっていたはずだった。
だが、その男は倒れなかった。
「……ふざけんな!」
殴り返した。
それをきっかけに、近くにいた二人の住民まで柴田の仲間へ飛びかかった。男は一人を蹴り飛ばしたものの、横から肩を掴まれ、さらに別の住民から金属棒で背中を殴られる。振り向くより先にもう一発が入り、膝をついたところへ何人もの足が殺到した。
「おい、やめろ! やめろって!」
松本が叫んだが、もう遅かった。
床へ倒れた男の頭へ鉄パイプが振り下ろされ、鈍い音がエントランスに響いた。それでも一度では終わらず、二度、三度と続き、ようやく周囲が動きを止めた時には、男は身体を小さく痙攣させるだけになっていた。
住民たちは、それを見て逃げなかった。
数時間前までなら、人が目の前で殴り殺されれば悲鳴を上げていたかもしれない。だが、彼らはほんの少し前まで外で同じことをしてきた。人間へ武器を振り下ろす感触も、骨へ当たった時の嫌な手応えも、倒れた人間が動かなくなるまで殴り続けることも、もう知らないことではなかった。
「殺すぞ、てめえら!」
柴田が怒鳴り、手にしていたハンマーを振り抜いた。最前列にいた男が避けきれず、側頭部へまともに受けて床へ崩れ落ちる。周囲から悲鳴が上がったが、それでも誰も逃げなかった。
「殺したぞ! こいつ、また殺しやがった!」
「もういいだろ! いつまでこいつらの言うこと聞いてんだよ!」
「今まで俺たちの食い物、好き勝手しやがって!」
「俺の親父の分まで減らしやがっただろうが!」
「何人死なせたと思ってんだ!」
今まで口にできなかった言葉が、殴り合いの中で次々と吐き出されていった。昨日今日生まれた怒りではない。食料を奪われた日から、脅された日から、誰かが殴られるのを黙って見ていた日から、それぞれの中に溜まり続けていたものだった。
柴田たちの方が強かった。
住民の多くはつい先ほどまで戦っていたため、腕を振り上げるだけでも身体が悲鳴を上げている。武器を握る手にも力が入らず、柴田たちに殴り倒される者が次々と出た。それでも、一人を倒している間に二人が来て、二人を押し返せばさらに三人が前へ出てくる。個々の力では勝っていても、人数の差だけはどうにもならなかった。
「剛さん! もう無理だ! 一回外に逃げましょう!」
松本の声に、柴田もようやく周囲を見た。
自分たちを囲む顔が多すぎる。
「どけ、ボケ!」
柴田は一人をハンマーで押し退け、松本たちと一緒にエントランスの出口へ向かった。しかし扉の向こうにも人影がある。外で死体の処理をしていた者や、遅れて戻ってきた住民たちが騒ぎを聞きつけ、すでに入口へ集まり始めていた。
「おい!柴田を止めろ!」
「外に逃がすな!」
中から声が上がった 。
「クソッ!」
柴田たちは慌てて向きを変え、再びマンション内へ戻る。背後から住民が雪崩れ込み、狭いエントランスで再び身体がぶつかり合う。
「剛さん、前!」
松本が叫び、もう一人の男と一緒に追ってきた住民たちへ飛び込んだ。
柴田は一瞬だけ振り返った。
松本が二人を殴り倒し、その直後に何人もの住民に囲まれるのが見えた。もう一人も鉄パイプを振り回していたが、すぐに人の群れに姿が埋もれていく。
柴田は助けに向かわなかった。
階段の方へ飛び込み、そのまま上へ駆け上がった。息が苦しく、足も重かったが止まることはできない。途中の階で何人かの住民とすれ違ったものの、下で何が起きているのかまだ理解していない者たちは、血まみれの柴田を見て反応が遅れた。
その隙に柴田はさらに上り、目指したのは十七階だった。
◇
「ひどい……」
2501の監視室で、朝霧は画面から目を離せずにいた。
複数に分割された映像には、エントランス、廊下、非常階段、そして建物の外が映し出されている。雪の上にはすでに何人もの人間が倒れ、その周囲を血が黒く染めていた。
「きっと、死者もいっぱい出た……」
朝霧の声は小さかった。
それでも、椅子から立ち上がることはなかった。
医師として何も感じなくなったわけではない。怪我人が映れば視線が止まり、倒れた人間の胸が動いているか無意識に確かめてしまう。それでも朝霧は、自分が外へ出れば何が起きるのかをもう知っていた。
蓮は隣で同じ映像を見ていた。
「いつかはこうなる。どこも食料がないしな」
「……だからって」
朝霧は何かを言いかけたが、最後まで続けられなかった。
映像の中では、すでに勝敗が決まり始めていた。マンションを襲った外来者たちは次々と逃げ始めている。それでも住民たちは追うことをやめず、武器を捨てて両手を上げた男まで何人もの住民に囲まれた。
男が何かを叫んでいる。
音声までは拾えていなくても、命乞いをしていることくらい朝霧にも分かった。
その男へ棒が振り下ろされた。
何度も。
やがて動かなくなっても、さらに数発が続いた。
「……なんてむごい」
「生死がかかってんだ。あそこまで行ったら止まれるわけがない」
「でも、もう向こうは逃げてるじゃない」
「もし負けてたら、自分たちがそうなってた」
朝霧は反論できなかった。
しばらくして、別の画面に映っていた若い女と老人まで住民たちに囲まれた。二人が武器を持っていないことは、映像越しでも分かる。それでも住民たちは止まらなかった。
「……本当に世界が変わったんだね。こんなの、普通じゃない」
蓮は画面を見たまま答えた。
「多分、まだ終わらない」
「……え?」
朝霧には、その意味が分からなかった。
だが数十分後、その答えは別の画面に現れた。
エントランスで柴田と住民たちが言い争いを始め、やがて互いに掴み合い、武器まで振るい始める。
「うそ!? どうして?」
朝霧は思わず身体を前へ乗り出した。
「さっきまで一緒に戦ってたじゃない!」
「お前、おかしなことを言うな」
「……え?」
朝霧が振り向くと、蓮は本当に不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「あいつら、つい数時間前まで何してた?」
「何って……」
「住民を殴って、食料を奪って、逆らった奴を殺してた。お前だってあいつらから逃げて、ここに来たんだろ」
「……確かに。でも、さっきは本当に一緒に戦ってたじゃない。柴田たちがいなかったら、もっと被害が出てたかもしれないし……」
「だからなんだ」
蓮は再び画面へ視線を戻した。そこでは柴田が一人の住民を殴り倒し、それを見た別の住民たちが一斉に飛びかかっている。
「人の感情なんてそんなもんだ。都合がいい時は仲間になる。共通の敵がいれば、嫌いな奴とだって手を組む。だが、その敵がいなくなれば、今度は昨日までの恨みを思い出す」
朝霧は黙って聞いていた。
「ここを襲った時も同じだっただろ。あいつらは知り合いですらなかった。普段なら口も利かない奴だっていただろうな。でも2501に食料があると思ったから、その時だけは同じ側になった。それだけだ」
「……そうね」
朝霧は画面へ目を戻した。柴田たちを追う住民の顔には、先ほど外来者を追っていた時とほとんど同じものが浮かんでいる。
「あなたの言う通りよ……私、さっき一緒に戦ってたからって、それだけで何かが変わったように錯覚してた……」
「人なんてそんなもんだ」
それだけを言い、蓮はそれ以上何も言わなかった。
画面の中では柴田が一人で階段を駆け上がっていた。松本たちはすでに下へ取り残され、追いかける住民の数はさらに増えている。
その映像をしばらく眺めたあと、蓮はようやく椅子から立ち上がった。
「さて、やっとか」
「……何が?」
蓮は監視画面の中を走る柴田を見たまま、静かに答えた。
「……ようやく復讐の時間だ」
◇
「美咲! おい、美咲!」
十七階へたどり着いた柴田は、扉を開けるなり怒鳴った。
一ノ瀬は突然飛び込んできた柴田を見て目を見開いた。顔にも服にも血がつき、息を切らしながら扉を閉める姿を見れば、何かが起きたことくらい説明されなくても分かる。
「な、何よ……どうしたの!?」
「逃げるぞ! 今すぐ荷物まとめろ!」
「は? 逃げるって、どこに?」
「どこでもいい! あいつら完全にイカれてやがる。俺たちを殺す気だ!」
「ちょっと待ってよ。あんた、さっきまであいつらと一緒に戦ってたんじゃないの?」
「だからなんだよ!」
「だからなんだよじゃないでしょ! なんでそうなるのよ! ちゃんと抑えといてよ!」
柴田は一瞬、一ノ瀬が何を言っているのか理解できないような顔をした。
「……は?」
「ここの人たち、今まであんたの言うこと聞いてたじゃん! それなのに、なんで急にそんなことになってんのって聞いてんの!」
「てめえ……」
「何よ!」
「今そんな話してる場合じゃねえだろうが! 下で松本たちがやられてんだぞ! 俺だって殺されかけたんだ!」
「それ私のせいじゃないでしょ!」
「誰もてめえのせいだなんて言ってねえだろ!」
「じゃあ怒鳴らないでよ!」
柴田は拳を握った。
だが、今ここで一ノ瀬と喧嘩をしている時間など本当にない。下から住民たちが上がってくれば、この部屋にいることもすぐに知られる。
「……もういい。とにかく必要なもんだけ持て。食い物と水だ。服なんか後でいい」
「でも、外に出るの? 車は?」
「知らねえよ。下から出られなきゃ別の場所に隠れる。とにかくここにいたら終わりだ」
「別の場所ってどこよ! 外なんか出たら死ぬじゃん!」
「だから今考えてんだろうが!」
一ノ瀬はまだ何か言いたそうだったが、柴田の様子を見てようやく事態の深刻さを理解したらしい。慌ててバッグを引っ張り出し、周囲に置いてあった食料や水、防寒用品を手当たり次第に詰め始めた。
「食べ物、これだけ?」
「全部持ってけ!」
「重すぎるんだけど!」
「死にたくなきゃ持て!」
「分かってるわよ!」
一ノ瀬が苛立ったようにバッグへ缶詰を押し込んでいる間も、柴田は何度も扉の方を見ていた。
いつ足音が聞こえてきてもおかしくない。
逃げるとして、どこへ行く。
下は住民に押さえられている。正面から外へ出ることも難しい。このまま待っても住民がやってくる。じゃあどこへ向かえばいい。
柴田が必死に考えていた、その時だった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
ピコン。
「……あ?」
こんな時に誰だと舌打ちしながら画面を取り出し、通知へ目を落とした柴田の動きが止まった。
表示されていた名前を見たまま、数秒間何も言わない。
「……何?」
一ノ瀬がバッグへ物を詰めながら振り返った。
「誰から?」
柴田は答えなかった。
一ノ瀬が苛立ったように立ち上がり、その画面を横から覗き込む。
「……三浦?」
通知欄には、確かにその名前が表示されていた。
三浦直人。
そして届いたメッセージは、たった一つだった。
『剛 すぐ2501へ来い 俺がチャンスを作る』
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Day 70
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 76人
今日のメモ:
「人への感情なんて、すぐ変わる」
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ここまで読んでいただきありがとうございます!
蓮先生、ついに仕事してくれました。
ワンシーンですが。




