第106話 Day 70 国を残すために
D地区の扉が開くと、黒崎は背負っていた小さな荷物の位置を直し、ゆっくりと廊下へ足を踏み出した。
昨夜、かつて同じマンションからここまで歩いてきた者たちには、自分が第七号を出ることを伝えた。理由については話していない。ただ、自分はここを出ることにした、それだけを伝え、もし一緒に来たい者がいるなら連れていくと言った。
結局、誰も来なかった。
それを薄情だとは思わなかった。ここには暖房があり、食事があり、医療があり、少なくとも今日の夜をどこで過ごすのか悩む必要はない。四日前まで、氷点下の雪の中を歩き続け、いつ襲われるかも分からない場所で眠っていた者たちが、ようやく手に入れた安全を手放したくないと思うのは当然だった。
農業経験を評価されてC判定を受けた男には、植物工場での仕事がある。電気設備の経験を持つ男も同じだった。D判定だった者たちも、決して恵まれているとは言えない生活ではあるものの、外へ戻るよりは遥かに安全な環境を与えられている。E判定だった者の中にさえ、ここで働き続ければ評価が上がるかもしれないと信じ、残ることを選んだ。
それぞれが、それぞれの人生を選んだ。
黒崎はそう考えることにした。
もっとも、自分だけが再び外へ戻ることになった事実を、何も感じずに受け入れられたわけではない。胸の奥に引っかかるものは残っている。それが寂しさなのか、悔しさなのか、それとも別の何かなのか、黒崎自身にもまだうまく言葉にはできなかった。
そんなことを考えながら居住区を抜けたところで、黒崎は足を止めた。
廊下の先に、一人の男が立っていた。
「遅えぞ。いつまで待たせんだ」
「……先輩」
ここにいる間、物流・物資管理の仕事を教えてくれた男だった。壁際に立っていた先輩は、黒崎が近づいてくるのを確認すると、足元に置いていた大きめのリュックを片手で持ち上げた。
「ほれ、餞別だ」
何の説明もないまま胸元へ押しつけられ、黒崎は慌てて両手で受け止めた。見た目から想像した以上の重さが腕にかかり、思わず先輩の顔を見る。
「なんですか、これ」
「見りゃ分かるだろ。リュックだ」
「それは分かりますよ。中身のことです」
「だったら開けて見ろ」
言われるままファスナーを開いた黒崎は、その中に隙間なく詰め込まれているものを見て、しばらく言葉を失った。
保存の利く食品がいくつも入っていた。栄養補助食品や缶詰、包装されたパン、乾燥食品、飲料水まである。それだけではない。簡単な救急用品や防寒用品、使い捨てカイロなど、外で数日を過ごすことを想定した最低限の物まで詰め込まれていた。
今の世界で、それがどれほどの価値を持つのか、黒崎には説明されるまでもなく分かっている。
「……いいんですか、先輩。これだけあったら、かなりの量ですよ」
「いいんだよ。持ってけ。上も今は大変だからな。外に出たら次にいつ食料が手に入るか分からねえ。最初から全部食うんじゃなく、節約して食えよ」
「でも、ここの食料だって無限じゃないでしょう。昨日の夜も――」
「黒崎」
先輩は黒崎の言葉を遮ると、少し面倒そうに眉を寄せた。
「餞別を渡すのに、いちいち在庫管理の説明までしなきゃならねえのか? いいから持ってけ。俺がいいって言ってんだ」
「……分かりました」
それでも黒崎はすぐにはリュックを閉じなかった。中身をもう一度見てから、ようやくファスナーを閉め、両手でしっかりと抱えた。
「ありがとうございます。大事に使います」
「おう。……それとな」
先輩はそこで一度言葉を切った。いつものような軽い調子が少しだけ消え、黒崎の目をまっすぐに見る。
「お前はいい奴だよ。少なくとも、ここ数日見た限りじゃな。でも、甘すぎる。そういうところも俺の弟に似てるんだけどよ」
「……」
「いいか。その食い物はお前が食え。外で腹減らしてる奴を見つけたからって、簡単に渡すんじゃねえぞ。お前が先に倒れたら何の意味もねえんだ。誰かを助けたいと思うのは勝手だが、まずは自分が生きることを考えろ」
黒崎は何かを言いかけたが、結局それを飲み込んだ。
先輩がなぜそんなことを言うのかは分かっているつもりだ。
◇
それは昨夜、黒崎がかつての仲間たちへ別れを告げ、D区画から出てきた直後のことだった。
居住区の出口付近で、先輩は黒崎を待っていた。
「話は終わったか?」
「はい。さっき全員に伝えました」
「で、誰かついてくるって?」
「……いえ。俺一人です。みんなここに残るそうです」
「そうか」
先輩はそれだけ言った。
慰めることも、残った者たちを責めることもしなかった。黒崎自身も、それを求めてはいなかった。三日前まで同じ場所で生き残り、同じ雪の中を歩いてきたからといって、その先の人生まで同じ道を選ばなければならないわけではない。それぞれに守りたいものがあり、それぞれに事情がある。
黒崎が軽く頭を下げ、その場を離れようとしたところで、次の声が飛んできた。
「黒崎。今日はいい。退所は明日にしろ」
「……え?」
振り返ると、先輩はすでにこちらへ背を向けて歩き始めていた。
「一杯付き合え」
「一杯って……酒ですか? ここ、酒なんてあるんですか?」
「あるから言ってんだよ。来い」
黒崎は一瞬迷ったものの、結局その背中を追った。
先輩が向かったのは、黒崎がこの三日間一度も足を踏み入れたことのない区画だった。途中までは物流担当として何度か通ったことのある通路だったが、やがて先輩は一般居住者の立ち入りが制限されている扉の前で立ち止まった。
黒崎にも、その扉が何を意味するのかくらいは分かる。
「先輩、ここって……」
問いかけるより先に、先輩は胸元からIDカードを取り出して認証部へかざした。電子音が鳴ったものの、それだけでは扉は開かない。続いて壁面の装置へ顔を向けると、数秒後、二度目の認証音とともに重いロックが解除された。
「……先輩、ここ入れるんですか?」
「入れるから開いたんだろ」
「いや、そういう意味じゃなくてですね……」
「細けえな。いいから来い」
先輩は何事もなかったかのように扉を抜けた。
黒崎は一度だけ背後を振り返ってから、そのあとを追った。
扉の向こうは、一般居住区とは明らかに空気が違っていた。華美な装飾があるわけではないし、ホテルのように豪華な造りでもない。それでも通路には余裕があり、人の往来も少なく、壁や床の仕上げから照明に至るまで、どこか落ち着いている。以前、仕事の途中で遠目に見たB区とも違う。
何のための区画なのか黒崎が尋ねても、先輩は答えなかった。
そのまましばらく歩き、やがて一枚の扉の前で止まる。
今度の扉は意外なほど普通だったが、先輩がそれを開いた瞬間、黒崎は思わず足を止めた。
「……え? こんなところがあるんですか?」
そこは、小さなバーだった。
広くはない。十人も入れば十分という程度の空間に、木目の落ち着いたカウンターと椅子が並び、その奥には様々な酒が置かれている。照明も施設内の白い光とは違い、僅かに暖かみがあった。大音量の音楽もなければ、華やかな装飾もない。ただ静かに酒を飲むためだけに作られたような場所だった。
空間内には誰もいない。
「座れ」
「いや……店員さん、いないですよ」
「見りゃ分かる」
先輩は気にする様子もなくカウンターの内側へ入り、棚から一本の酒を取った。続いてグラスを二つ取り出すと、当然のように栓を開け、それぞれに注いでいく。
「……勝手に飲んでいいんですか?」
「いいんだよ」
「本当に?」
「お前、さっきから質問多いな」
「普通は聞きますよ。そもそも、なんで先輩がこんなところに入れるのかも分からないですし」
「酒がまずくなる話はあとにしろ。ほら」
差し出されたグラスを受け取り、黒崎は渋々カウンター席へ座った。
二人とも、最初から何かを話したわけではなかった。
グラスを傾け、酒を口へ運ぶ。施設内はどこにいても機械の作動音や人の気配が僅かに聞こえていたが、この部屋は不思議なほど静かだった。黒崎は目の前のグラスを眺めながら、明日には自分がこの地下百メートル近い場所を離れ、再び氷点下の世界へ戻ることを考えていた。
どれほどの時間が過ぎたのか。
沈黙を破ったのは、先輩だった。
「……俺を恨むか?」
黒崎はすぐには答えなかった。
先輩が何を聞いているのかは分かる。
自分が再配置の対象になる可能性が高いことを教えたのも、このまま正式な決定を待つのではなく、自主退所した方がいいと勧めたのも目の前の男だ。しかし同時に、自分を三日間観察し、評価していたのもこの男だった。
黒崎はしばらく考えたあと、グラスを置いた。
「……全く気にしてないって言えば、嘘になります。正直、どうして俺なんだって気持ちはありますし、三日しかいなかったのにって思いもあります。でも、先輩を恨んではいません。俺のために教えてくれたんですよね。本当なら、それだって言っちゃいけないことだったんでしょう?」
「……そっか」
先輩はそれ以上何も言わず、酒を一口飲んだ。
再び沈黙が戻った。
今度は黒崎の方が長く黙っていた。
聞くべきかどうか迷っていた。しかし明日ここを出れば、もう二度と答えを聞く機会はないかもしれない。
「先輩……一つ、聞いていいですか」
「なんだ」
「再配置って、なんなんですか。吉岡さんのこともそうですけど、俺も対象になってるって聞いてからずっと考えてました。……本当に、しなきゃいけないことなんですか?」
先輩は答えなかった。
グラスの中に残った酒を見つめ、指先でゆっくりと回す。黒崎は急かさなかった。
やがて先輩が口を開いた。
「なぁ、黒崎。この第七号は何のためにあると思う?」
「何のためって……国民を避難させて、守るためじゃないんですか? そのための指定広域保護地区ですよね」
「違う」
即座に返された言葉に、黒崎は眉を寄せた。
先輩はグラスを置き、黒崎を見る。
「国を守るためだ」
「……同じ意味じゃないんですか? 国っていうのは、結局そこにいる国民のことでしょう」
「平時なら、そう言ってもいい。だが今は違う。国民を守るためなら、国民を最優先に考えなきゃならん。だが国を守るためなら、国の存続を最優先に考えなきゃならん」
「……どう違うんですか」
「寒波が来る前なら、国は国民のためにある。それでいいんだ。国民にはいろんな権利がある。病気だから、年寄りだから、働けないからって、それを理由に人間として扱われなくなるような国なら、そもそも国として間違ってる。時間をかけて制度を作って、税金を使って、働けない人間も支える。それができたし、それをやるだけの余裕がこの国にはあった」
先輩はそこで一度言葉を止め、グラスを口へ運んだ。
「でも今は違う。今は国が国民を生かすだけじゃ存続できねえ。国民が、国の存続のために生きなきゃならん」
黒崎は何も言わなかった。
言葉の意味は分かる。
だが、それを簡単に受け入れられるかと言われれば別だった。
「第七号だけじゃねえ。日本中にある保護地区には、当然収容できる人数に限界がある。ニュースでも聞いただろ。国が直接保護できるのは最大で一千万人程度だ。あれだって最大値だ。実際にはそこまで届かねえ可能性の方が高いと俺は思ってる」
「……一千万人」
「寒波が始まる前、この国に何人いたと思う?」
黒崎は答えなかった。
答える必要もなかった。
「ほとんどの人間は入れねえんだよ」
先輩の声に感情はほとんどなかった。
だからこそ、その言葉は重かった。
「だったら黒崎、お前が国を運営する側ならどうする。全員は入れられない。でも、この寒波がいつ終わるか分からない以上、日本という国そのものは残さなきゃならん。行政も、医療も、電力も、水も、食料生産も、設備保守も必要だ。だったら当然、国が存続できる可能性を少しでも高くしてくれる人間を中に残そうとする」
黒崎はしばらく黙っていたが、やがて低い声で答えた。
「……理屈は分かります。でも、それなら再配置された人たちはどうなるんですか? 俺は自主的に出ることを選べました。でも吉岡さんたちは違う。どこへ連れていかれたのかも教えてもらえない。そもそも……あの人たちは今も生きてるんですか?」
先輩の表情が僅かに変わった。
「再配置の具体的な内容は教えられねえ。今日も言っただろ。お前も何度も聞くな」
「でも、それじゃ――」
「ただ一つ言えるのは、ここの収容人数から外れるってことだ。それだけ分かってりゃいい」
「……」
「気に入らねえだろうな。俺だって、お前が聞きたい答えをしてやれるならしてやりたい。でも、できねえものはできねえ」
先輩は酒を飲み干し、自分でもう一度グラスへ注いだ。
「国としては、生存に最も適した人材を確保したい。各方面の専門家、医療、技術、農業、設備、それから単純に身体を動かせる労働力も必要だ。国を残すってのは、偉い奴を地下に隠しておけばいいって話じゃねえ。水を作る奴がいる。電気を維持する奴がいる。食料を作る奴がいる。病人を診る奴がいる。壊れた設備を直す奴がいる。その全部が揃って初めて、ここは生きた施設になる」
黒崎は黙って聞いていた。
「だから、どうしても評価基準がいる。病人や老人は……俺もこんな言い方はしたくねえが、特化した技能や代わりの利かない能力がない限り、どうしても優先度が低くなる。感情の問題じゃねえ。一人を生かすために必要な資源と、その一人が施設の存続に何を返せるのか。今はそこまで見なきゃならん」
「それで……評価が低かった人を再配置するんですか」
「一度じゃねえ。繰り返すんだ」
先輩は指を一本立てた。
「収容する。評価する。基準を下回った人間を再配置する。空いた枠へ、外から新しい人間を入れる。そしてまた評価する。最初に高かった奴だって、怪我をするかもしれねえ。病気になるかもしれねえ。逆に最初は低かった奴が仕事を覚えて、必要な人間になるかもしれねえ。だから一回決めて終わりにはできない」
黒崎の脳裏に、この三日で見た光景が次々と浮かんだ。
CとD。
E。
毎週の勤務評価。
三十日ごとの見直し。
最初はEだったがDへ上がったと話していた、目の前の先輩。
そして、ある日突然いなくなった吉岡。
すべてが一つの仕組みとして繋がっていく。
「……いつまで、それを続けるんですか」
「外にまだ国民が生き残ってる間だ」
先輩は迷わず答えた。
「最初に入った一千万人で席を固定しちまったら、そのあとで見つかった医者も、技術者も、若い労働力も入れられねえ。もっと言えば、今この瞬間も外にはここを必要としてる奴がいる。国民がまだ生き残ってるうちに、どんどん新しい血を入れなきゃならん。それを止めた瞬間、保護地区は避難所にはなれても、国を残すための施設じゃなくなる」
黒崎は返す言葉を見つけられなかった。
正しい、と言う気にはなれない。
しかし間違っている、と言い切ることもできなかった。
先輩が話しているのは、一人の命が大切かどうかという話ではない。限られた空間、限られた食料、限られた薬、限られた電力の中で、何を残せばこの国が明日へ続くのかという話だった。
そこには、黒崎がこれまで誰かを助ける時に考えてきたものとは、まるで違う尺度が存在していた。
しばらくして、先輩が小さく息を吐いた。
「そんで次は、お前が再配置になった原因だ」
黒崎が顔を上げる。
「俺の……?」
「ああ。ある意味、これが一番重要な評価基準でもある」
「……なんなんですか?」
先輩は少しだけ間を置いた。
「反乱因子だ」
「……反乱?」
「ああ。どれだけ頑丈な保護地区を作って、どれだけ物資を集めて、食料まで生産できるようにしたところで、中で反乱が起きりゃ全部終わる。食料庫を奪われるかもしれねえ。発電設備を壊されるかもしれねえ。医療区画を占拠されるかもしれねえ。管理する側とされる側で殺し合いが始まれば、外から敵なんか来なくても施設は内側から潰れる」
黒崎は思わず口を開いた。
「でも、俺はそんなことをするつもりなんてありません。ここの人たちを煽って反乱を起こそうなんて、一度だって――」
「するつもりがない?」
先輩は黒崎の言葉を遮った。
「はい。少なくとも、俺は――」
「関係ねえんだよ」
黒崎の言葉が止まった。
「お前にその意思があるかどうかなんて、今は関係ない。見られてるのは、必要になった時にそれができる人間かどうかだ。本人がその気になった時、あるいは本人がその気にならざるを得ない何かが起きた時、そいつの周りに何人集まるか。そいつの一言で十人が動くのか、百人が動くのか、千人が動くのか。そういう資質を見られてる」
「でも……可能性だけで人を排除するんですか?」
「ああ」
先輩は否定しなかった。
「可能性だけでだ。むしろ今は、起きてからじゃ遅い。反乱を起こしてから『こいつは危険人物でした』なんて分かっても何の意味もねえ。だから、その可能性がある奴は先に外す。本人が善人か悪人かも関係ない。思想がどうとか、政府を嫌ってるかどうかだけでもない。人を動かせるか。人がそいつについていくか。それ自体が評価対象になる」
黒崎はしばらく先輩を見つめた。
やがて、少しだけ声を落とした。
「……それって、かなり危ない考え方じゃないですか」
「危ないよ」
返事はあまりにも早かった。
「言い方は悪いがな、今の緊急事態じゃ民主主義が崩壊しかけてるとも言える。国民が国を選ぶんじゃねえ。国が、残す国民を選んでるんだからな」
先輩は自嘲するように笑った。
「それでもやる。やらなきゃ、もっと大勢が死ぬ可能性があるからだ。正しいかどうかなんて、俺にも分からねえよ。だが少なくとも、今この施設を維持してる側は必要だと判断してる」
黒崎はグラスへ視線を落とした。
「……それで、俺なんですね」
「ああ。その点、お前は最悪だ」
「最悪って……」
「褒めてんだよ。本来ならな」
先輩は初めて少し楽しそうに笑った。
「聞いたぞ。お前らがいたマンション、ずっと住民同士で助け合い、最後は外から襲われたんだってな。死人も出た。それでも残った連中をまとめ直して、移動するって決めて、雪の中をここまで連れてきた。途中で休ませて、食わせて、歩けない奴を支えて、一人も脱落させずにだ」
「俺一人でやったわけじゃありません。みんなが――」
「それだ」
「……え?」
「自分がやったと思ってねえ。だから余計に人がついてくる」
黒崎は何も言えなかった。
「お前は命令して引っ張ったつもりはないんだろう。自分ができることをやって、必要なことを言って、それでここまで来ただけだと思ってる。だが、周りから見れば違う。お前が進むから進んだ奴がいる。お前が休めと言ったから休んだ奴がいる。お前がここまで行けると言ったから、雪の中を歩き続けられた奴がいる」
先輩は黒崎を指さした。
「ええと、カリスマってやつだろ」
「……そんな大げさな」
「大げさじゃねえから、お前は初日から目をつけられて、俺がお前の担当になった」
「初日から……」
「ああ。お前が物流に配属されたから、たまたま俺がいたんじゃねえ。お前を三日間見るために、俺がお前についた」
今日一回聞かされた事実だった。
それでも改めて言葉にされると、黒崎は複雑な気持ちになる。
先輩は残った酒を飲み、空になったグラスをカウンターへ置いた。
「本来なら、すげえことなんだけどな。人をまとめられる。危ない時に前へ出られる。自分だけ助かろうとしない。そういう奴は、昔ならどんな組織でも欲しがったと思うぜ」
「……」
「でも、あいにくここじゃ必要とされない。それどころか、排除される」
先輩はしばらく何も言わなかった。
黒崎も黙っていた。
やがて先輩は、誰に聞かせるでもなく、小さく笑った。
「本当、世界が狂ったと俺も思うぜ。……立場的には、言っちゃいけねえんだろうけどな」
◇
「……黒崎?」
呼ばれて、黒崎は我に返った。
目の前には昨日と変わらない先輩がいる。
腕の中には、先ほど渡された重いリュックがあった。
「聞いてんのか?」
「すみません。昨日のこと、ちょっと思い出してました」
黒崎は少し笑い、改めてリュックを背負った。肩へずしりとした重さがかかる。今の世界では、その重さそのものが命だった。
先輩はそんな黒崎をしばらく見てから、軽く顎を上げた。
「行く当てはあるのか?」
「……」
黒崎の頭に、一人の男が浮かんだ。
神崎蓮。
数日前、電話越しに聞いた声。
『なんでもかんでも簡単に人を信用するなよ』
『気をつけろよ』
ここへ来る前にも、蓮は自分を止めなかった。
来いとも言わなかった。
自分で決めろというように、ただ必要なことだけを伝えてきた。
黒崎は一瞬だけ考えたが、その名前を口にはしなかった。
「……いいえ。まだありません」
「そうか」
先輩も、それ以上は聞かなかった。
しばらく二人で歩き、地上へ向かうエレベーターの前まで来たところで、先輩が立ち止まる。
「俺はここまでだ」
「はい」
「元気でな。……またいつか、会える機会があればいいな」
「はい。先輩こそ」
黒崎は頭を下げ、エレベーターへ向かった。
だが数歩進んだところで止まり、振り返る。
「あの……最後に一つだけ聞いていいですか?」
「あ? まだなんかあんのか」
「先輩って、結局何者なんですか?」
先輩は一瞬だけ黙った。
そのあと、口元を大きく緩めた。
「あ? お前の先輩だろ」
「……」
「ははははは」
黒崎も少しだけ笑った。
昨日、一般居住者では入れない区画をIDカードと顔認証で通った。再配置の仕組みを知っていた。自分が初日から監視対象だったことも知っていた。そして誰もいないバーへ入り、当然のように棚から酒を取った。
ただの物流担当者ではない。
それくらいは、黒崎にも分かっている。
だが、目の前の男が答える気がないことも分かった。
黒崎はそれ以上聞かなかった。
「……三日間、本当にありがとうございました」
「おう。死ぬなよ」
「先輩も」
黒崎は最後にもう一度頭を下げると、エレベーターへ乗り込んだ。
ゆっくりと扉が閉まり始めても、先輩はその場を動かず、いつものような顔でこちらを見ていた。黒崎も何か言葉を足すことはせず、その姿を最後まで見つめたまま、やがて金属の扉が二人の間を完全に塞いだ。
一人になったエレベーターの中で、黒崎は背中にあるリュックの重さを改めて感じながら、変わり始めた表示へ目を向けた。
地下九十八・六メートル。
四日前、自分たちが生き残るために降りてきたその深さから、エレベーターは今度は黒崎一人を乗せ、ゆっくりと地上へ向かって上昇していった。
◇
第七号のさらに奥には、黒崎が一度も存在を知らない区画がある。
そこにある一室は、この巨大な地下施設には似つかわしくないほど静かだった。
豪華とは言えない。壁は落ち着いた色合いで統一され、机やソファも現代的ではあるものの、必要以上の装飾はない。それでも家具の質、空間の広さ、照明、室温、そのすべてが一般居住区とは明確に違っている。黒崎が仕事中に遠目から見たB区でさえ、ここに比べれば集団生活用の居住施設に過ぎなかった。
一人の女性がソファに腰掛けていた。
年齢は六十代ほど。派手な服装ではない。化粧も控えめで、傍らのテーブルには数冊の資料と端末が置かれている。
扉が開き、男が入ってきた。
つい先ほどまで黒崎に「先輩」と呼ばれていた男だった。
女性は手元の資料から視線を上げると、少し呆れたように男を見た。
「いつまで先輩ごっこで遊んでるつもりなの? 岩森陸将補――」
そこで女性は、わざとらしく言葉を止めた。
「……いいえ。今は《第七方面統合運用群》、岩森副司令だったわね」
「遊んでるだなんて……」
岩森は僅かに気まずそうな表情を浮かべた。
三日間、黒崎の前で見せていた大雑把な態度とは少し違っている。
「彼はもう出発したの?」
「ええ。つい先ほど。今頃はエレベーターの中でしょう」
「そう」
総理は短く答え、岩森を見つめた。
「気持ちは察するわ。弟さんに似ていたんでしょう」
「……似ていましたね。あいつも、ああいうところがありましたから」
「だから放っておけなかった?」
「それは……否定しません」
岩森は向かいの椅子へ腰を下ろした。
女性は責めるでもなく、小さく息を吐いた。
「でも、これも国のためよ。今はあらゆるリスクを、可能な限り事前に排除しておかなきゃいけない。一つの判断ミスで第七号そのものが機能不全に陥れば、失われるのは一人や二人の命じゃ済まないわ」
「理屈は分かっています。私自身、彼にそう説明しました」
「ならいいわ」
「ですが……」
岩森はそこで言葉を止めた。
数秒の沈黙のあと、ゆっくりと女性を見る。
「本当に、これでよかったんでしょうか……総理」
女性は、すぐには答えなかった。
テーブルの上に置かれた資料へ一度だけ視線を落とし、それから静かに口を開いた。
「国を生存させるためよ」
「……」
「あなたも分かっているでしょう。今の私たちに、全員を救う力はない。全員を守ると言えば聞こえはいい。でも、できないことをできると言い続けて、最後に全員を死なせることだけはしてはいけない」
総理の声は冷たくなかった。
むしろ、疲れていた。
「以前なら、『遺憾です』『国民のために検討します』と言っておけば、それでもよかった。誤解しないで。何も決めなくてよかったという意味じゃないわ。時間をかけて議論して、反対する人の話を聞いて、専門家を集めて、制度を作って、問題があればまた修正する。そうするだけの時間がと余裕があった」
岩森は黙って聞いていた。
「でも今は、そんな悠長なことはできないわ。今日決めなかったことの結果が、明日には何千人、何万人の死として返ってくる。だから決めなきゃいけない。誰を守るのか。何を残すのか。限られた食料をどこへ送るのか。限られた薬を誰に使うのか。そして――何を諦めるのか」
部屋の中が静かになった。
地下深くにあるはずなのに、空調の僅かな音以外、何も聞こえない。
やがて岩森が口を開いた。
「現場の連中も、かなり参っています。自分たちが人間を選別していると分かっていますから」
「分かってるわ」
総理は即座に答えた。
「だから、現場の判断にはしない」
岩森が顔を上げた。
「基準を作るのも、その基準で人を選ぶことを認めるのも、最終的には国よ。現場の職員が勝手に国民を切り捨てたことにはしない。私が認めた。政府が決めた。そういうことにしておけばいい」
「ですが、それでは――」
「いいのよ」
総理は僅かに笑ったが、明るい笑みではなかった。
「誰かが背負わなきゃいけないでしょう?」
岩森は何も答えなかった。
総理もそれ以上の返事を求めることはなく、しばらくの間、二人の間には空調の微かな作動音だけが流れていた。
やがて総理は小さく息を吐きながら背もたれへ身体を預け、何か遠いものを見るように天井へ視線を向けた。
「もし、私たちが生き延びられたら――」
そこで一度、言葉を止める。
「未来の歴史で、きっと私のことが語り継がれるでしょうね」
「……総理」
「日本を存続させた、希望の総理」
総理はゆっくりと視線を戻した。
「あるいは――国民を切り捨てた悪魔として」
岩森は何も言わなかった。
そんなことはない、と否定することもできなかった。この地下で行われていることを、岩森自身が誰より知っている。同時に、それをやめた先に何が待っているのかも知っていた。
正しいのか、間違っているのか。それは今の岩森にも、総理にも分からない。
いつかこの寒波を越え、生き残った者たちが未来を築くことができた時、初めて答えが出ることなのかもしれない。
総理はしばらく黙ったまま目を閉じていたが、やがて再び瞼を開いた時には、その表情から先ほどまで僅かに覗いていた疲労は消えていた。
「さて」
声も変わった。
再び、この国の決定を下す者の声になっていた。
「弟さんの件あって、しばらく本来の任務を離れることを認めていたけど。そろそろ戻ってもらうわ」
岩森は少しだけ考えてから。
「はい。問題ありません」
「そう。ならよかった」
総理はテーブルの上に置かれていた資料の一つを手に取った。
「では、本日付で本来の任務へ復帰しなさい」
「承知しました」
「引き続き、《広域異常寒冷化現象・原因究明調査》を」
「はい」
岩森の返事を確認すると、総理はその資料を置いた。
そして、もう一冊。
別の資料へ手を伸ばした。
「それから――」
表紙へ視線を落とす。
「《広域物流園区・物資大量消失事案》」
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Day 70
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 79人
今日のメモ:
「国を残すと、国民を残すとは意味が違う。」
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