第五話② 水面のない水
「救急相談に電話する」と好がスマホを持って廊下に出た。一が桶と氷水を取りに走った。
律は、布団の横に膝をついた。
視界の上の層で、それは起きていた。
現の凪が——沈み始めていた。
水面はまだ凪いでいる。凪いだまま、水面ごと、静かに下がっていく。周りの空間の波が、渦を巻いてそこへ吸い込まれていく。近くにいた結がふらりと壁に手をつき、ななせが小さく頭を振った。
「結ちゃん、出とき。……ごめん、頼むわ。一さんと、好さんの手伝い」
「で、でも」
「頼むわ」
結は唇を噛んで、頷いて、部屋を出た。出る瞬間まで、うーちゃん、うーちゃん、と呼び続けていた。あの子の声はまっすぐで、まっすぐなまま、届いていなかった。
律は右手を上げて、沈んでいく凪の縁に狙いをつけた。
波消し。波面を掴んで、呑んで、断つ。八月の夜、燃え広がる炎を節ごとに断った、あの技だ。
掴んだ。
——はずだった。
指は、何も掴まなかった。掴むための波が、そこになかった。波消しは波の技だ。水面の技だ。水面が丸ごと沈んでいくとき、掴むべき波頭は、どこにも立たない。
「(……あかん。届かへん)」
八月は、間に合わなかった。今夜は、届かない。二連敗の予感が、喉元まで上がってきた。
「律」
ななせだった。部屋を出ていなかった。めまいがするはずの距離で、正座して、両手の指を膝の上で小さく、規則的に動かしていた。同じ振り付けの反復。あの子の錨。自分の波形を自分で束ねる、四十二年目の技術だった。
「私、やってみたいことがある」
ななせの声は、静かだった。
「うつつちゃんに、貸したいものがあるの。——私の、『前にもあった』」
「……差し込む気か。自分のデジャヴを、人に」
「うん。やったことない。でも、理屈は私が一番知ってる」
ななせは現の左手を、両手で包んだ。
「律は?」
「……俺は」
右手を見た。掴めなかった右手だ。水面の技は、水面がないと仕事にならない。なら。
「——潜る」
考えて出た言葉ではなかった。見えている絵に、身体が先に名前をつけた。
律は、現の右手を握った。
---
指先から、落ちた。
落ちる、としか言いようがなかった。触れた瞬間、解像度が一段上がって——上がった先に、床がなかった。水面のない水。光の届かない、しかし暗くはない、深さだけでできた場所。律の知覚だけが、糸の切れた錘みたいに沈んでいく。
「(これが……あの凪の、下か)」
沈みながら、見た。
層になっていた。
古いものほど、下に。細かい信号の粒が、雪みたいに降り積もって、地層になっていた。降り積もったものの一粒一粒に、まだ声が残っていた。怖い、の層。痛い、の層。どうしよう、の層。やだ、の層。どれも小さくて、どれも子供の声で、どれも——言われるはずだった誰かに届かないまま、甘い衣を一枚着せられて、ここへ沈められていた。
十五年分だった。
目が慣れると、粒の中身が読めた。読めてしまうことが、この場所の一番の冷たさだった。
浅い層には、見覚えのある粒が並んでいた。上がり框の転倒。ホラー映画の絶叫。病室の入口で立ち止まった、半歩ぶんの怖い。模試帰りの律の強張った首を見た夜の、小さな心配まで、ちゃんと沈んでいた。どれも、唱えて沈めた分だ。
深くなるほど、粒は古く、小さくなった。
運動会の朝の、おなかの痛い。発表会の袖の、手の冷たい。夜中に目が覚めた部屋の、暗い。予防接種の列の、逃げたい。名前を呼ばれて立ち上がる直前の、心臓の速い。
どの粒も、形容詞のまま沈んでいた。文章になる前の、届ける相手を見つける前の、感覚の原石のまま。誰かが受け取って「そうか、痛かったな」と言葉にしていれば、粒は思い出に変われたはずだった。変わる前に、砂糖がかかった。
「(——よう一人で、持っとったな)」
「(あの子はこの上で、毎日笑っとったんか)」
水圧が、思考を横から潰しにくる。深さは重さだ。現の十五年は、他人が背負っていい重さを、明らかに超えていた。それでも沈んだ。核はもっと下だ。浮かび上がらせるべきものは、一番深いところにある。直感ではなく、確信だった。この目は水面しか見てこなかったが、今夜だけは、深さの目盛りを読めた。
降りるほど、引き込みは強くなった。渦の中心が近い。律の知覚ごと、もっと深くへ、もっと暗いほうへ——
光が、降りてきた。
細い、糸みたいな光だった。律の横をゆっくり通り過ぎて、渦の中心へ、まっすぐ降りていく。光の中身は、朝だった。同じ朝が二重に重なって、「これは前にもあった」という形をしていた。前にもあった。そして、ちゃんと終わった。夜はいつも、朝の手前までしか続かなかった——そういう事実だけを束ねた、四十二年分の光だった。
誰の技かは、考えるまでもなかった。
光が渦の中心に触れると、沈下が、止まった。
止まっている間に、律は底に着いた。
一番下に、小さい波が一つだけあった。
地層のどの粒よりも古くて、どの粒よりも小さい。まだ砂糖の衣を着ていない、裸のままの、最初の一粒。形は単純だった。怖い。それだけだった。理由も相手もない、生まれて初めての、怖い。誰かに手を握られて「そうか、怖かったな」と言われるためだけに生まれてきた信号が、言われる前に、自分の唱えた甘い言葉で蓋をされて、十五年、ここにいた。
律は、それに触れた。
鎮めなかった。消しもしなかった。レベル1の夜から、律のやることは一つしか増えていない。触れて、隣にいる。それだけをやった。それから——置いていかないことにした。
小さい波を抱えて、律は底を蹴った。この場所に底と呼べるものがあるのかは知らない。それでも、蹴った感触だけは確かにあって——上、としか言えない方向へ、ただ全力で浮上した。
---
「——っ、は」
息が戻った。畳の目が見えた。汗が顎から落ちた。
握った手の中で、現の指が、小さく動いた。
「……律、にぃ」
目が開いていた。熱で潤んだままの目だった。その目から、涙がひとすじ、こめかみへ流れた。
「……痛い」
現は、言った。
「背中も、頭も、のども……痛い。痛いよぉ。……こんなの、知らない」
「うん」
律は、握った手に少しだけ力を入れた。
「痛いなあ。……ずっと、痛かってんなあ」
「…………うん」
うん、と言った。あの子が、痛みに、うん、と言った。
それが答え合わせだったみたいに、震えが少しずつ間遠になっていった。四十分後、好の体温計は三十七度台を示した。ノーシーボの熱は、ノーシーボの理屈で引いていく。電話口の救急相談は「その経過なら朝一番で受診を」に変わり、家はゆっくりと、夜の底から浮上した。
現は、泣きながら眠った。眠る直前、枕元のななせに、かすれた声で聞いた。
「……さっきの、あさの光、ななちゃん?」
「ん。貸しただけだから、返さなくていいよ」
「……前にもあったの? こういう夜」
「あった」ななせは即答した。「何回も。……で、朝も、毎回あった。私が保証する。数えきれないくらい、見てきたから」
現の目が、ゆっくり閉じた。閉じる直前に、口が小さく動いた。だーいじょぶ、ではなかった。おやすみ、だった。それでいい、と律は思った。今夜は、それが一番正しい呪文だった。
廊下に出ると、家の音が戻っていた。台所で氷水を換える音。結が洟をすする音。好が明日の受診の段取りを口の中で確認する音。
律は、壁に手をついた。
立っていられないわけではなかった。ただ、世界のほうが、変だった。
廊下の木目が、薄紙一枚向こうにあった。台所の音も、結の洟も、自分の足の裏の感覚さえ、全部、上等な映像みたいだった。現実の解像度はそのままで、現実感だけが、すとんと抜けている。深いところから浮上した身体が、圧の差に文句を言っている——そういう感じが、一番近かった。
「律」
ななせが、隣に立っていた。律の袖を、指で二本、掴んだ。
「ここ、現実だよ」
「……わかってるよ」
「わかってない顔してる。……いいから、掴まっとくの。浮いてかないように」
袖を掴む指の重さだけが、妙にはっきりしていた。律はその重さを頼りに、薄紙の向こうから、一歩ずつ戻ってきた。
戻りながら、思った。
潜るのは、これが最後じゃない気がする。そして潜るたび、俺はこの薄紙を、一枚ずつ挟まれるんやろう。
水面の下を知った夜、律の世界は、少しだけ現実から遠くなった。
それでも——抱えて浮かんだものの重さを思えば、悪くない取引だった。




