第五話① 呪文が、家から消えた
千のいない食卓は、静かだった。
正確には、千は普段からほとんど喋らない。喋らない子が一人いなくなっただけで、この家の音は驚くほど減った。喋らない、と、そこにいる、は別の仕事らしい。
見舞いに行けたのは、入院の二日後だった。
病室の千は、拍子抜けするほど千だった。ベッドに半分起き上がって、点滴の管を面倒くさそうに眺めて、結が差し入れたマンガを枕元に積んでいた。
「……テレビ、カード制だった。ぼったくり」
「病院はそういうもんや」
「ごはん、味がうすい」
「病院はそういうもんやって」
熱はもう下がり始めていて、薬もよく効いているらしい。医者の見立てどおりなら、週末には帰れる。よかった、を音にしていいくらいの経過だった。
現は、病室の入口近くに立っていた。
金平糖の瓶を持ってきていたが、看護師さんに「退院してからね」とやんわり止められて、瓶は鞄に戻った。それからずっと、半歩だけ遠いところにいた。半歩の意味を、たぶん本人以外の全員が考えないようにしていた。
帰り際、千がふと言った。
「……うーちゃん」
「……ん」
「あれ、やって。ひまに効くやつ」
注文は、いつもどおりの千の声だった。恨みも棘も、どこにもなかった。ただ退屈な入院患者が、お気に入りの余興を注文しただけだった。
現は、笑った。笑って、息を吸った。
「だーいじょ……」
節が、途中で落ちた。
二拍ぶんの沈黙。現は落ちた節を拾い直そうとして、拾えなくて、そのまま笑顔だけで蓋をした。
「……また今度ね。退院のとき、いっぱい効くやつ、持ってくるから」
「……ん」
千は深追いしなかった。マンガの一冊目に手を伸ばして、もう読み始めていた。
病院を出て、駅までの道は西日だった。結とななせが二歩先を歩き、律は現と並んで歩いた。祭りの帰り道と、同じ並びだった。あのときの腕の中にはわたあめの袋があった。今日は、渡せなかった金平糖の瓶が、鞄の中で小さく鳴っていた。
「律にぃ」
現が、前を向いたまま言った。
「うつつの『だいじょうぶ』が、隠しちゃったんだよね」
夕日が、道の先で潰れていた。
「そんなこと——」と、前を歩くななせが振り向きかけて、止まった。止まったのは、嘘がつけなかったからだと思う。この家の誰よりも長く、嘘の味を知っている子だからだと思う。
「……隠したんは、呪文だけとちゃう」
律は、選べる中で一番正直な言葉を選んだ。
「千の我慢と、俺らの見落としと、成長期っていう便利な言葉と。……全部で隠してん。呪文は、そのうちの一枚や」
「でも、一番厚い一枚だったよ」
反論は、できなかった。事実だったからだ。効いたから、隠れた。あの子の言うとおりだった。
「……ねえ、律にぃ。へんだよ」
現は、そこで初めて律を見た。
「誰も、うつつを怒らないの」
怒られたほうが楽か、と聞きそうになって、やめた。楽かどうかを確かめる場所すら、たぶんこの子の中には沈んでいる。
西日が、現の淡い色の髪を通り抜けた。その上の水面は、今日も凪いでいた。凪いだまま、少しずつ、深くなっている気がした。
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呪文が、家から消えた。
千の入院から四日目には、誰の目にもわかるようになっていた。現はもう唱えない。朝も、夜も、誰かが小さくつまずいても。口数はさほど減っていないし、食卓にも座る。金平糖も並べ替える。ただ、並べ替えた金平糖を、食べなくなった。
そして、家のほうが軋み始めた。
最初は好だった。消えていたはずの頭痛が、戻ってきた。次はななせ。夜、眠りが浅くなったと言った。結は喉の調子がおかしいと言って、はちみつを舐めた。一は肩が重いと言って、味噌汁の鍋の前で首を回した。
一つ一つは、なんでもない不調だった。秋の終わりには誰にでも起きる、ただの疲れの顔をしていた。呪文の在庫が切れただけ、と言えなくもなかった。
言えなくなったのは、金曜の夕食の席だった。
「……みんな」
味噌汁の湯気の向こうで、現がぽつりと言った。
「うつつのそばにいると、そのうち、どこか痛くなるよ」
箸が、三つ止まった。
「うーちゃんのせいじゃないよ!」
結が言った。ななせと好の声も、ほとんど同時に重なった。三人分の否定を正面から受けて、現は、薄く笑った。
「ん。……ありがと」
ありがと、の音が、平べったかった。
律だけが、見ていた。
現の凪は、凪のままだった。ただその夜、初めて、周りの波のほうが変だった。現の近くに座っている者から順に——結の波紋が、ななせの二重波形が、ほんのわずかに、内側へ傾いでいた。水面に穴が空いたとき、周りの水が音もなくそちらへ滑り出すときの、あの傾ぎだった。
「(——引き込んどる)」
燃え広がった八月とは、何もかもが逆だった。あれは外へ走る炎で、これは内へ沈む渦だ。音もなく、誰にも見えず、家一軒ぶんの深さで。
広がらないから、外の誰も気づかない。騒ぎにならないから、誰も止めに来ない。
「(俺らで、やるしかないんやな)」
その「やる」が何を指すのか、このときの律はまだ知らなかった。知るのは、その夜のうちだった。
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日付が変わる少し前、律は最後の風呂から上がった。
脱衣所を出たところで、二階から結が降りてきた。パジャマ姿で、顔から血の気が引いていた。
「りっくん……うーちゃんが、へん」
部屋の襖は、細く開いていた。
「うーちゃん、入るよ」
返事はなかった。布団の上で、現は丸くなっていた。淡い色の髪が汗で額に貼りついて、肩が小刻みに揺れている。部屋の空気は甘かった。ただしそれは、屋台の雲の甘さではなかった。湿って、溶けかけた砂糖の甘さだった。
「だーいじょ……だーい……」
譫言みたいに、節の欠片が繰り返されていた。何度も、何度も、同じところで落ちる。積み木の同じ段が、同じ場所で崩れ続けているみたいだった。
「うつつちゃん。俺や。わかるか」
「……律、にぃ」
現の目が、薄く開いた。熱で潤んで、焦点が遅れてついてくる。
「唱えようと、したの。じぶんに。いっぱい、したの。でもね」
言葉の途中で、身体が波打つように震えた。
「……言えない。律にぃ、うつつ、言えない」
騒ぎは三分で家中に伝わった。好が体温計を持ってきて、検温して、眉をひそめた。三十九度二分。夕食のときには何ともなかった熱だった。
「痛いところは?」
「……背中」と現は言った。それから、「頭」と言った。それから、「のど」と言い、「おなか」と言った。
好の眉が、険しさの種類を変えた。
「……移動してる。数分ごとに。こんな動き方、しない。普通の病気は、こんな——」
言いかけて、好は自分で気づいた顔をした。
「——心因性発熱。思い込みが本当に熱を作る現象は、実在する。ノーシーボの、一番強い形。……講義の続きが、最悪の形で来た」
背中。頭。喉。おなか。
律は、並んだ場所の意味に気づいて、胃の底が冷えた。千の背中。好の頭。結の喉。移動しているのではない。あれは——この一ヶ月、あの子が呪文で消してきた痛みの、出席簿だ。それも、たぶん一ヶ月分では終わらない。




