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第四話② ごはんは、戻らないのよね

 千の咳は、止まらないまま、次の週末が来た。


 律は、数えるのをやめられなくなっていた。夜中、階段の上から、かすかに降りてくる咳。朝食の席の、白い顔。そして——夕食のたびに、少しずつ増えていく、茶碗の残り。


 最初に言葉にしたのは、一だった。


 「千ちゃん、最近、ごはん残すのよね」


 日曜の昼、千と現が二階にいる時間に、一は台所で味噌汁の鍋を見つめたまま言った。


 「背中はね、うーちゃんが唱えてくれると楽になるの、って言うの。実際、楽そうなの。夜もちゃんと眠れてるみたいなの。でもね」


 一はお玉を置いた。


 「ごはんは、戻らないのよね」


 呪文は、訴えられた症状に掛かる。痛い、と言えば痛みに。眠れない、と言えば眠りに。でも食欲は、千自身が減っていることに気づいていない。誰も呪文を頼んでいない場所で、身体だけが正直だった。


 律は、自分の見てきたものを話した。千の波形の周期のこと。呪文の直後だけなめらかで、朝方、効き目の切れ目に、下から乱れが浮くこと。そのなめらかさが、治っているというより——布を一枚、掛けているみたいに見えること。


 聞き終えた一は頷いて、いつもの柔らかい声のまま、まったく柔らかくないことを言った。


 「病院ね。明日、連れて行きます」


 その夜、律は現にも、同じ話をそのまま伝えた。隠さない、と決めたからだ。


 現は、律の説明を、最後までのんびり聞いていた。聞き終えて、首をかしげた。


 「……? でも、ほんとに効いてるよ?」


 反論ではなかった。ただの、事実確認だった。


 「せんちゃん、痛くないって言ってるよ。楽になったって、笑ってるよ。うつつ、嘘ついてないよ?」


 「嘘やなんて、誰も思ってへん。効いてるのは、ほんまや。……ほんまに効いてるから、見えへんようになるもんが、あるかもしれん。それだけの話やねん」


 「効いてるのに?」


 「効いてるから、や」


 現は、しばらく黙った。納得の場所を探して、今度は——見つからなかったらしい。それでも、「ん」と頷いた。


 「病院、うつつもついてっていい?」


 「うん、もちろん」


 横で聞いていた一が、現の頭にぽんと手を置いた。


 「うーちゃんのおかげで千ちゃんが楽だったのは、ほんとのこと。病院は、それとは別のお話。……いい? 別のお話なの」


 先回りの優しさだった。その先回りがどれほど正確だったのかを、このときの律は、まだ知らなかった。


---


 翌日は月曜で、律は予備校があった。


 夕方、教室を出たところでスマホが震えた。ななせからだった。


 『一さんから連絡。千ちゃん、そのまま検査になった』


 続けて、もう一通。


 『うつつちゃんは一さんが先に帰らせたって。もうすぐ家に着くと思う』


 律が家に帰り着くと、現はもう居間にいた。金平糖の瓶を膝に置いて、テレビもつけずに、ひとりで座っていた。


 「ただいま」


 「……おかえりぃ」


 返ってきた声の輪郭が、いつもより一段、薄かった。検査、長いんだって、とだけ現は言った。それ以上は聞かずに、律は隣に問題集を広げた。進まないのはわかっていたが、隣に誰かがいる、という情報だけは渡しておきたかった。


 二本目の連絡は、夕食の途中に来た。好のスマホが鳴って、好が席を立って、廊下で受けた。受け答えの声が、途中から一段低くなった。


 戻ってきた好は、居間を見回して、なるべく平坦な声で言った。


 「……マイコプラズマ肺炎、だって。歩いて祭りに行けるくらい元気に見えるのに、静かに進むタイプの肺炎。レントゲンで、影がはっきり出たって」


 肺炎、という二文字が、テーブルの上に落ちて、湯気を全部持っていった。


 「入院。といっても数日、長くて一週間。薬がよく効くタイプだから、心配しすぎないで、って。一さんは今夜、付き添いで残るって」


 よかった、と言うべき情報が並んでいた。見つかった。治る。数日で帰ってくる。それなのに、居間は静かなままだった。全員の頭の中で、同じ計算が走っていたからだと思う。


 いつからだ、という計算だった。


 最初の咳は、いつだった。背中が痛いと言い出したのは。祭りの石段に座り込んだのは。そのたびに、あの子は言われたはずだった——だーいじょぶ、だいじょぶ、と。そして実際に、楽になってしまったのだ。


 「……せんちゃん」


 小さな声がした。


 現だった。膝の上で、金平糖の瓶を両手で抱えていた。


 「せんちゃん、ほんとは、ずっと痛かったのかな」


 誰も、すぐには答えられなかった。ななせが「だいじょうぶだよ、見つかったんだから」と言いかけて、その先を飲み込んだのがわかった。この家で「大丈夫」という言葉は、たった今、一番難しい言葉になってしまった。


 現は、金平糖の瓶を抱えたまま、じっと動かなかった。


 唱えなかった。


 あの夜、燃える客席の真ん中でも唱えられた呪文を、この居間の静けさの中で、唱えなかった。


 律の目に映る現の上は、それでも——凪いでいた。


 波ひとつ、立っていなかった。


 その凪が、初めて、怖かった。


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