第四話① 一回きりの秋
十一月に入って最初の日曜日、律はななせと二人で大学通りを歩いていた。
「情報部、秋の総括会議です」
と、ななせは玄関で宣言した。宣言した三秒後に、居間から結の「デートじゃん!」が飛んできて、ななせは「か・い・ぎ!」と三音で応戦した。会議は会議らしい。ただし議場は、金色に染まり始めた並木道だった。
大学通りの銀杏は、見頃の入口にいた。空は高く、風は乾いていて、歩道には最初の落ち葉が点々と散っている。たい焼きを一尾ずつ買って、歩きながら齧る。会議の議事は、歩調と同じ速さで進んだ。
「整理するね。うつつちゃんが来て、ひと月。わかったこと」
ななせが指を折る。「一、波はずっと凪。二、おまじないは本物で、深い。三、本人はぜんぜん隠さない。四——」
「俺には効かへん」
「四、律には効かない。……で、五番目。まだ教えてもらってないこと」
「あの夜、どこにおったか」
銀杏の葉が一枚、ななせのアホ毛のすぐ横を掠めて落ちた。
「ね、律。私、思うんだけど」
ななせはたい焼きの頭を齧って、少しもぐもぐしてから続けた。
「うつつちゃん、最初から何にも隠してないんだよね。転んだ日から、ずっと堂々と唱えてる。……隠してない子にはさ、私たちも隠さずに聞くのが、礼儀なんじゃないかな」
「……そやな」
順番、という言葉の意味が、今回は少し違う形をしている。好のときも、一のときも、開示は地雷原だった。でも現は、最初から自分の手札を机に置いている。伏せているのは、こちらの側だけだ。
「次に何か一個でも重なったら、直接聞こう。こそこそ観察は、あの子には失礼な気がしてきた」
議決は、たい焼きの尻尾と一緒に飲み込まれた。
それから会議は自然散会して、ただの散歩になった。
「……ねえ、律」
ななせが、並木を見上げて言った。
「私ね、この道の秋、何十回も見てるんだ。四十二年ぶんの中に、何回もあったから」
「……うん」
「でもね、散り方が同じ年って、一回もなかったの。どの葉っぱが、いつ、どっちに落ちるかは、毎回ちがう。おんなじ秋は、一回もなかった」
ななせは手を伸ばして、一枚、宙で葉をつかまえた。開いた手のひらの上で、黄色い葉はただの黄色い葉だった。
「だから、今年の散り方は、今年しか見られないんだよ。……って思ったらさ、四十三回目の秋も、ちゃんと初めてなんだよね」
ケロッとした横顔だった。ケロッとしたまま、世界で一人しか言えないことを言う。律は返事の代わりに、たい焼きの最後の一口を飲み込んだ。甘さの奥で、何かがことりと音を立てた。
「(——一回きり、か)」
この秋も、一回きりだ。それがどういう意味を持つのか、このときの律はまだ、半分しかわかっていなかった。
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重なる「何か一個」は、その夜のうちに来た。
「ホラー観よ! ホラー!」
言い出したのは当然結で、演目は追いかけてくる系のやつだった。居間の電気が消され、テーブルに菓子が並び、座布団が円形に再配置される。千は「……私は、いい」と早々に離脱して二階へ上がった。人混みも大画面も、あの子の得意分野ではない。
映画は、そこそこ怖かった。そして、そこそこ、では済まないのがこの家である。
結が「ひっ」と息を呑むたび、居間の空気ごと跳ねた。ななせが飛び上がり、好がクッションを盾にし、その反応でまた結が跳ねる。恐怖の永久機関だった。
律の視界の上の層では、もっと盛大なことになっていた。結の波紋が跳ねて、広がって、ななせの二重波形と好の心拍波に触れて、細かい縞になる。感情の伝染は、映画という文化の袋の中では興行の一部だ。誰も異常だとは思わない。律だけが、恐怖が部屋を循環して増幅していく工程を、目で見ている。
その縞の帯が——一箇所だけ、途切れていた。
現である。
画面の中で何かが振り返った瞬間、全員の波が同時に跳ねた。現だけが、金平糖を口に運びながら、のんびり瞬きをしていた。凪。押し寄せた縞は、現の手前で波打ち際みたいに減衰して、消えた。
「うーちゃん、怖くないの!?」
「ん。観る前に、唱えたから」
「ずるっ!」
ずるい、で済ませて、結は次の悲鳴に戻った。
律だけが、済ませられなかった。
見覚えが、あった。燃えるデッキ。広がっていく恐怖の縞。その真ん中で、一人だけ波打ち際を持っていた人影。
いま、目の前で、同じ絵が再生されている。規模だけを小さくして。
「(——重なった。一個どころやない)」
律は、隣のななせを見た。ななせも律を見ていた。暗がりの中で、情報部の目が二つ、同じ結論に頷いた。
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映画が終わって、解散になって、律は台所で麦茶を注いでいる現に声をかけた。
「うつつちゃん。ちょっと縁側、ええかな」
「ん」
現は麦茶のグラスを両手で持って、ちょこんと縁側に座った。夜気は冷たかったが、月は明るかった。
律は、回り道をやめた。隠していない子に、こちらだけ伏せているのは、礼儀に反する。
「八月の終わりに、立川で、ライブがあってん。小さい箱の……途中で、騒ぎになったやつ」
「うん」
「あの近くのペデストリアンデッキに——おらんかった?」
現は、麦茶を一口飲んだ。
「いたよぉ」
あっさりしすぎていて、危うく聞き流すところだった。
「……おったんや」
「ん。ライブ会場から出て、帰るとき」
「騒ぎのとき、みんなパニックやったやろ。……あのとき、平気やった?」
「うん。呪文、唱えてたから」
答えは、三秒もかからなかった。
「怖い感じがね、ざーって、波みたいに来たの。ライブ会場のみんなが、前から順番に怖くなってくの。だからうつつ、唱えたの。だーいじょぶ、だいじょぶって。そしたら、へーきだった」
波みたいに。
その言い方に、律は静かに息を止めた。見えていたわけではないのだろう。でも、感じていた。あの夜の伝染を、この子は肌で正確に捉えて——自前の呪文一つで、上書きした。
「……なんで、あのライブに行ったん」
「んー……」
現は、麦茶のグラスを月に透かした。
「なんとなく、行きたくなったの。ソーダフロートの曲、一回も聴いたことなかったんだけどね。……なんとなくって、たまに当たるんだよねぇ」
なんとなく。
その五文字の奥に何があるのかは、月明かりでは見えなかった。追いかけるのは、やめておいた。両手の中のグラスは無防備で、嘘の気配はどこにもなかった。
「あんな、うつつちゃん。……俺も、あのデッキにおってん」
「ん。知ってる」
「——知ってたん!?」
「見たもん。デッキの端で、抱きしめてたでしょ。……あの真ん中で歌ってた子、むーちゃんだったんだね」
見られていた。しかも、一番説明の難しい場面を。律が言葉を探している間に、現はのんびり続けた。
「だからね、引っ越しの日、うつつ、ほんとはすっごくびっくりしてたんだよ? 玄関に、あの夜の男の子がいて——その横から、あの夜の真ん中の子まで出てきたんだもん」
「……全っ然、びっくりしてる顔とちゃったで」
「うつつのびっくりは、出にくいの」
出にくい、どころではない。あの日、この子の上には波の一枚も立っていなかった。律が観察と推理でひと月かけて辿り着いた場所に、向こうは初日から立っていて、しかも黙って金平糖を配っていたのだ。
「でもね、うつつ、こういうの慣れてるの。なんとなく行った場所に、あとから意味がついてくるの」
「…………」
「で、律にぃは、あのとき何してたの?」
まっすぐな質問だった。まっすぐには、まだ全部答えられない。それでも、伏せ札を一枚だけ表にするくらいの誠実さは、返すべきだった。
「……俺な、見えるんや。人の上に、波みたいなもんが」
「ふうん」
「怖がったり、嬉しかったりすると、揺れる。あの夜は、立川の街が荒れとった。……その真ん中で、一人だけ、凪いでる人がおった。ずっと、誰なんやろって思っとってん」
「うつつだねぇ」
他人事みたいに言って、現はふにゃりと笑った。驚かないのか、と聞きかけて、やめた。この子は、たぶん驚かない。根拠のない自信というのは、世界がどんな札を切っても「だいじょうぶ」で受ける構えのことだ。
「うつつちゃんのおまじないみたいなやつ……この家では、ことわりつき、って呼んでる」
「ことわりつき」
現は口の中で転がした。金平糖を転がすのと、同じ顔だった。
「じゃあ、うつつのだーいじょぶも、それなんだね」
「……知っとったんや、自分のこと」
「ん。知ってたよ? うつつのは、ほんとに効くやつだって。小さいときから」
「効くって、いつから」
「覚えてないくらい、前から」
月が、雲を一枚くぐった。
「……最後に一個だけ。唱えたら、なんでも平気になるん?」
「ん。今まで、外れたことないよ」
現はグラスの麦茶を飲み干して、それから、こともなげに付け足した。
「——律にぃ以外はね」
夜気が、一度だけ深く冷えた気がした。
外れたことのない呪文。それはつまり、外れたときに何が起きるかを、誰も知らないということだった。




