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第三話② だいじょうぶじゃないの、どんなだったか

 そこからは、祭りだった。


 結と現の屋台行脚は壮観だった。焼きそば、りんご飴、ベビーカステラ。一は「夕飯があるからね」と言いながら、結局みんなに一品ずつ買い与えていた。ななせはチュロスの屋台を三周した。四周目を阻止したのは律である。


 「あっ」


 現の足が、ある屋台の前で止まった。


 わたあめの屋台だった。


 機械の中で、ざらめが白い糸に変わっていく。割り箸がくるくる回って、糸が雲になっていく。現はガラスケースに顔を寄せて、その工程を、瞬きも忘れて見ていた。


 「……買わへんの?」


 「見てるの。一番いいところだから」


 「できあがるとこが?」


 「ざらめが、ふわふわになるところ」


 砂糖の粒が熱で溶けて、糸になって、空気を抱いて雲になる。言われてみれば、たしかに魔法じみた工程ではある。現はたっぷり一本分を見届けてから、満を持して一番大きいのを買った。袋から出して、ひとくち頬張って、目を細める。


 「はふ……。甘い」


 「そらそうやろ」


 「甘いは、正義」


 一さんの名言を、妹チームの新入りが引き継いだ。


 祭りの底力を見たのは、射的の屋台だった。


 「あれ」


 千が指したのは、棚の最上段に鎮座した、大きな猫のぬいぐるみだった。誰がどう見ても、取らせる気のない位置である。


 最初に挑んだのは結だった。


 「まかせて! あたし、くじ運だけは鍛えてるから!」


 くじ運と射的の因果は不明のまま、五発が五発とも、景品の箱すら掠らなかった。


 「どーん、って言ったのに!」


 「効果音では当たらへんて」


 次に、好が財布を出した。


 「……交代」


 好は台に肘を置いて、銃の重心を確かめ、最初の二発で照準と弾道のずれを測った。三発目からは、作業だった。コルク玉は続けて猫の同じ肩に当たり、四発目で猫が傾いて、五発目を込めたところで、屋台のおじさんが「もってきな」と白旗を上げた。


 「物理よ」と好は言った。「気合いより、再現性」


 千は猫を受け取って、無言で、ぎゅうと抱えた。礼は言わなかった。言わなかったが、その猫はこの日、一度も地面に降ろされなかった。


 たこ焼きの屋台では、一が三分で店主と旧知の仲になり、「おまけ」の二個が舟に増えた。増えた分を当然のように切り分けて、「はい、あーん」の圧に律が敗北して、口の中を軽く火傷した。


 「あちっ……」


 「だーいじょぶ、だいじょぶ」


 間髪を入れず、隣から呪文が飛んできた。


 「……いや、効かへんて、俺には」


 「ん。知ってる。……言いたかっただけ」


 効かない相手にも、唱える。おまじないというより、それはもう挨拶とか、応援とか、そういう種類のものなのだろう。火傷は火傷のままだったが、なんとなく、腹は立たなかった。


 おみくじは、全員で引いた。


 律は中吉。学問の欄には「あせらず励め」とあった。焦らせているのは誰やと思いながら、枝には結ばず、財布に入れた。ななせは大吉を引いて「今年の運、ここで使っていいのかなあ」と真顔で悩み、千は小吉、好は吉。結は「末吉ぃ!?」と叫んで、その声で通行人を二人笑わせた。


 現も、末吉だった。


 「お揃いじゃん、うーちゃん!」


 「ん。……末吉って、どのへん?」


 「下のほう! たぶん!」


 「ふうん。……じゃあ、のびしろだねぇ」


 負け惜しみではなく、心底そう思っている顔だった。根拠のない自信とは、たぶんこういう筋肉の名前だ。鍛え方は、誰も知らない。


---


 千の異変に気づいたのは、日が傾き始めた頃だった。


 「……ちょっと、すわる」


 石段の端に、千がぺたんと腰を下ろした。顔色が、提灯の赤を差し引いても白い。


 「大丈夫? 人混みに、あたった?」


 「……へいき。ちょっと、疲れただけ」


 千は人混みが得意ではない。得意ではないが、座り込むほどだったことは、これまでなかった。一が水を買いに走り、好がしゃがんで千の顔をのぞきこむ。


 「熱は……なさそうね。最近ちょっと、疲れやすい?」


 「…………ふつう」


 ふつう、の発音が、ほんの少しだけ嘘の音をしていた。それを聞き分けられる程度には、律はこの家で暮らしてきた。ただ、嘘の理由までは読めなかった。十三歳が体調を訊かれて「ふつう」と答えるのは、半分は様式美でもある。


 「せんちゃん」


 現が隣にしゃがんで、千の背中に手を置いた。


 「だーいじょぶ、だいじょぶ」


 千の呼吸が、ゆっくり深くなった。白かった頬に、提灯とは別の色が少し戻る。


 「……ん。もう、へいき」


 千は立ち上がって、砂を払った。歩き出した足取りは、たしかにもう軽かった。


 いい光景だった。今日も、どこからどう見ても。


 律だけが、千の上の波形を見ていた。途切れがちな波が、呪文のあとで、なめらかに——なめらかすぎるほど、なめらかになっていた。疲れの波が消えたのではなく、上から、静かな布を一枚かけられたような。


 「(……考えすぎや)」


 布の下に何があるのかまでは、律の目には見えない。見えないものは、ないのと同じ顔をして、祭りの雑踏に紛れた。


 ふ、と甘い香りがした。


 わたあめだ。隣に現が並んでいた。屋台はもう、とっくに離れたはずなのに、砂糖の雲の香りだけが、あの子の周りに薄く残っている。


 「(……残り香、やろか)」


 太陽と、味噌汁と、髪と、ミルクと、炭酸。この家の家族の香りの棚に、新しい瓶がひとつ、そっと並んだ気がした。ラベルには、たぶんこう書いてある——わたあめ。


 瓶の中身が何なのかは、まだ、わからなかった。


---


 帰り道は、ばらけた。


 先頭でななせと結が戦利品を見せ合い、一と好が挟むように歩き、千はその真ん中で、射的の猫を抱えたまま、ラムネ瓶のビー玉を鳴らしている。律は最後尾で、隣には現がいた。食べかけのわたあめの袋を、大事そうに抱えている。


 提灯の明かりが遠くなって、大学通りの街灯が近くなる。祭りの音が背中で薄れていく、あの独特の時間だった。


 「律にぃはさ」


 現が、前を向いたまま言った。


 「だいじょうぶじゃないとき、どんな感じ?」


 「……なんや、急に」


 「模試のこと、怖いんでしょ。肩、ずっといかってるから」


 図星だった。図星のうえに、質問の続きが、もっと図星の外から来た。


 「うつつ、忘れちゃった。だいじょうぶじゃないの、どんなだったか」


 現は、わたあめの袋を抱えたまま、のんびりと歩いていた。声もいつものままだった。いつものままなのに——いつもの節が、なかった。だーいじょぶ、だいじょぶ、の呪文が、この話をしている間だけ、出てこなかった。


 「……忘れた、って」


 「小さいときは、あったと思うんだけどね。怖いとか、痛いとか、どうしようとか。でも、唱えるとへーきになるでしょ? だから、ずっと唱えてたら——」


 現は少しだけ首をかしげた。自分の中の棚を探して、目当ての瓶が見つからない、みたいな顔だった。


 「——どんなだったか、わかんなくなっちゃった。へーきじゃないって、どんなだったかなあ、って」


 街灯が、現の淡い色の髪を通り過ぎていく。


 「だから、律にぃを見てると、ちょっとだけ、不思議なの。だいじょうぶじゃないまま、歩いてる人だから」


 悪気は、一滴もなかった。一滴もないまま、その言葉は律のどこか深いところに、すとんと落ちた。


 だいじょうぶじゃないまま、歩いてる人。


 「……あんな、うつつちゃん」


 「ん?」


 「だいじょうぶじゃないのは、たぶんやけど——そんな悪いもんと、ちゃうで」


 言ってから、我ながら中身のない答えだと思った。だが現は、律の顔をしばらく見て、それから前に向き直った。


 「ふうん……。そっかぁ」


 納得したのか、しなかったのか。わたあめの袋が、腕の中でくしゃりと鳴った。


 前を歩く五人の笑い声が、夜道に転がっていく。それを追いかけながら律は、さっきの質問を、頭の中でもう一度だけ再生した。


 だいじょうぶじゃないの、どんなだったか。


 忘れた、とあの子は言った。忘れられるようなものではないはずのそれを、十五年分の呪文が、どこへ運んでいったのか。


 祭りの帰り道に置いていくには、少しだけ重すぎる忘れ物だった。


 

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