第三話① 律にぃは、自分で唱える人
現が来て、二週間が過ぎた。「だいじょうぶ」は、セオリア荘の日常に静かに実装されていった。
結がユニットの練習に出かける朝は、玄関で景気づけの一発を受けていくのが定番になった。「うーちゃん、出撃前のやつ!」「ん。だーいじょぶ、だいじょぶ」「どーん!」——効いているのか、元からああなのかは判定不能だったが、本人いわく「高音の伸びがちがう」らしい。
ななせは寝つきの悪い夜に一回だけ頼んで、翌朝「たぶん人生で二番目によく寝た」と真顔で報告していた。一番がいつなのかは、聞かないでおいた。
面白いのは、射程だった。
呪文は、かけてもらった本人にしか効かない。玄関で結に唱えたとき、真横で同じ言葉を聞いていた千の背中には、届いていなかったらしい(「……ついでに治るかと思った」と、あとで本人がぼそっと白状した)。試しに結が「じゃあ全員まとめて!」とねだった夜もあったが、現は困った顔で首を振った。
「まとめてだと、効かないの。……ひとりずつ、じゃないと」
ひとりずつ。顔を見て、名前を思って、手をかざして——工程を省くと、あの呪文はただの歌になるらしい。広く浅くの、正反対。狭くて、深い。好がルーズリーフに引いた縦軸を、律はまた思い出した。
そして律には、相変わらず何も見えなかった。呪文を掛けられた側の波が、呪文のあとで少しなめらかになるのは見える。かけた側の現の上だけが、今日も凪だった。
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十月の受験生には、十月の受験生なりの修羅がある。
週末に模試があった。手応えは、あった。あったからこそ怖い。手応えと結果が別居している事例を、律はこの半年で何度も経験している。返却は二週間後。つまり二週間、首の後ろに重りをぶら下げて暮らすことになる。
「律にぃ、肩こってるねぇ」
夕食の後、テーブルで単語帳をめくっていたら、後ろから現にのぞきこまれた。
「……わかるん?」
「ん。肩が、いかってる」
いかってる、は、凝ってる、のうつつ語らしい。現は律の後ろに回ると、両手を律の肩にぽんと置いて、いつもの節で歌った。
「だーいじょぶ、だいじょぶ」
……。
…………。
何も、起きなかった。
肩は凝ったままだし、首の重りもそのままだった。当たり前だ。律に、この家のことわりつきは効かない。効かないことを、律は知っている。知らないのは、現だけだった。
「……あれ?」
現が、律の顔を横からのぞきこんだ。のんびりした目が、めずらしく二回、瞬きをした。
「律にぃ、効かない?」
「え、いや、その……楽なった気ぃする、で」
「嘘だぁ。肩、いかったままだよ」
嘘は三秒で見破られた。現はもう一回、今度は少し近くで、少しゆっくり唱えた。だーいじょぶ、だいじょぶ。効かなかった。三回目は両手をぐるぐる回す振り付きだった。効かなかった。
「不思議だねぇ……」
現は律の正面に回り込んで、まじまじと律を見た。十五年間、外れたことのないおまじないが、この家に来て初めて空振りしている。もっと動揺するかと思ったが、現の顔に浮かんでいるのは、めずらしい虫を見つけた子供の顔だった。
「りっくんはノリ悪いからじゃない?」と結が横から言った。
「ノリの問題なん?」
「体質よ、体質」と一がお茶を運びながら笑った。「律くん、昔からそういうの効かないの」
昔から、と言っても、一さんが俺と出会ってまだ三ヶ月のはずだが、公式見解は「体質」で発表された。ななせと好が、それぞれ湯呑みと本の陰で、なんとも言えない顔をしていた。
「体質かぁ」
現は、しばらく律を見ていた。それから、納得の場所を自分で見つけたらしく、ふにゃりと笑った。
「わかった。律にぃは、自分で唱える人なんだね」
「……なんやそれ」
「毎日、机で。ぶつぶつ、ぶつぶつって」
単語帳の音読のことだった。あれは呪文ではなく英単語なのだが、訂正する前に、なんだか妙に腑に落ちてしまった。効かない人間は、自分の呪文を自分で用意するしかない。それを世間では勉強と呼ぶ。
「……そやな。俺のは、自前や」
「ん。えらいねぇ」
十五歳に褒められて、受験生の夜は更けた。
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秋祭りの話を持ち込んだのは、例によって結だった。
「谷保天満宮! 例大祭! 今週末! 全員参加!」
議決は三秒だった。この家の多数決は、だいたい台風の風速で決まる。
「りっくん、荷物持ちその一ね!」
「その一、て。その二は誰なん」
「うーちゃん! うーちゃんはわたあめ担当!」
「担当って、何をする役なん」
「食べる役だよぉ」
役職の意味はともかく、人事は決まった。
当日は、雲ひとつない祭り日和だった。総勢七人でぞろぞろと大学通りを南へ下る。並木はまだ色づき始めで、緑と黄色のまだらだった。あとふた月もすれば、この道は金色の天井になる。
全員でどこかへ行くのは、七月の花火、八月のライブに続いて、三度目になる。そして律は、前の二回の顛末を、よく覚えている。
「(……今回は、何も起きんでええからな)」
祈る相手が神様でいいのか、それとも別の誰かなのかは、わからなかった。
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境内は、いい混み方をしていた。
谷保天満宮は、学問の神様を祀っている。つまり受験生の聖地である。予備校の友人いわく「国立で天神様に頼らん受験生はモグリ」らしい。頼るかどうかはともかく、来てしまった以上、素通りは罰当たりな気がした。
拝殿の前で、律は列に並んで、二礼二拍手一礼をした。願い事は言語化しなかった。言葉にすると、手応えはあったのに結果がついてこなかった過去の模試を、いくつか思い出してしまうからだ。
「律にぃ、なにお願いしたの?」
「内緒や」
「ふうん。……じゃ、これ」
社務所の前で、現がすっと差し出したのは、学業御守だった。赤い錦の、定番のやつだ。いつの間に買ったのか。
「うつつからの、受験応援」
「……本番、まだだいぶ先やで。再来年や」
「ん。早めに唱えとくと、長持ちするんだよぉ」
長持ちするおまじないがあってたまるか、と思ったが、受け取る手は素直に出た。
「……ええん? 小遣い」
「お菓子をちょっと我慢したら買えたよ。ちょっとだけどね」
ちょっとの重みを知っている言い方だった。律が受け取ると、現はお守りの上から両手をかぶせて、目を閉じて、いつもの節を歌った。
「だーいじょぶ、だいじょぶ。……ん。これで二重がけ」
効かないのは、知っている。この家で律だけが、あの呪文の圏外にいる。それでも——手の中のお守りは、なんだかやけに、あたたかい気がした。効く効かないと、嬉しい嬉しくないは、別の帳簿らしい。
「(……効かへんのに、効いとるやん、これは)」
理屈に合わない帳尻を、律はそっと胸ポケットにしまった。




