第二話 知ってるのに、効く
現が来て、三日が経った。
新入りは、驚くほど手がかからなかった。朝はゆっくり起きてくる。昼はゆっくり菓子を並べ替えている。夜はゆっくり風呂に入る(きっちり一時間。結と互角の記録だった)。廊下ですれ違うと「律にぃ、こんにちはぁ」とゆっくり頭を下げる。生活のすべてが等速で、家の中の時間の流れが、あの子の半径二メートルだけ緩やかだった。
「で、観察の成果は」
夜の縁側。定位置に定間隔で座って、ななせが言った。今夜の麦茶は温かい麦茶だった。十月の縁側協定に、ようやく季節条項が追加されたのである。
「……見えへんまま。三日、ずっとやなあ」
律は湯呑みを両手で包んだ。
「笑っても、驚いても、跳ねへん。あの子の上だけ、ずっと凪やねん」
「ふうん……。ことわりつきじゃない、ってことはないのかな。ただの、よく転ぶ甘党の女の子」
「痣ひとつなかったんやで。あの転び方で」
「だよねえ」
ななせは湯呑みに口をつけて、少し黙った。
「……あのさ、律。私、ちょっと気になってることがあって」
「ん」
「うつつちゃん、おまじないのこと、ぜんぜん隠さないんだよね」
そこだった。律も三日間、同じところに引っかかっていた。
この家の家族は、自分のことわりつきを隠すか、知らないか、どちらかだった。好は隠していた。一は知らなかった。千は隠して、知らないふりをしていた。結は知らなかった。なのに現は、初日の玄関から堂々と唱えて、堂々と「唱えたから痛くない」と説明した。隠すという発想が、最初からないように見える。
「知ってて、隠してへんのか。……それとも、ほんまにただの、子供のおまじないのつもりなんか」
「知ってるけど、隠す必要がないと思ってる——って線も、あるよ」
どちらであるかで、話はだいぶ違ってくる。
「聞くのは、まだ早いよね」
「そやな。順番がある」
まず、ここが安全な場所だとわかってもらってから。結のときに決めた順番は、そのまま今回の順番でもあった。
「じゃあ、当面の方針。観察続行。それと——」
ななせが湯呑みを置いて、人差し指を立てた。
「理論班を、投入します」
---
理論班は、思ったより早く、自分から起動した。
週の半ば、好が頭痛を抱えて帰ってきた日のことだ。研究室で資料と睨み合いすぎたらしく、夕食の席でも眉間が険しかった。食後、錠剤を出そうと鞄を探る好に、隣の席の現が、のんびり言った。
「このみちゃん、あたま痛いの?」
「……ん。ちょっとね」
「かして」
かして、と言いながら、現は好の額に向かって両手をかざした。かざしただけで、触りはしなかった。そして、歌うように。
「だーいじょぶ、だいじょぶ」
好は、ぽかんとしていた。ぽかんとしたまま、二秒、三秒——それから、目に見えて瞬きが増えた。
「………………軽く、なった」
「ん。よかったねぇ」
現は自分の食後のプリンに戻った。事件はそれだけだった。それだけの事件が、その夜、理論班を全力で起動させた。
「——というわけで、臨時講義です」
現が風呂に入っている隙に、居間に全員が集められた。議題はひとつ、持ち時間は現の入浴時間、つまりきっちり一時間である。テーブルの真ん中にはルーズリーフ。この家の重要会議は、だいたいこの紙のサイズで行われる。
「プラシーボ、って聞いたことある?」
好がペンを構えて言った。
「偽薬効果、って訳されることが多い。有効成分のない、ただの錠剤でも、『効く薬だ』と信じて飲むと、本当に痛みが軽くなったり、眠れるようになったりする現象。……医学や薬学の分野では『プラセボ』って言うんだけど——ここでは、通りのいいほうで行くね」
「ぎやく……にせぐすり」と結が復唱した。「え、でも、それってつまり、気のせいってこと?」
「そこが一番誤解されてるところ」
好のペンが、ルーズリーフをこつんと叩いた。
「気のせいじゃない。脳が『効く』と予期すると、実際に痛みを抑える物質が体の中で出る。血圧も、心拍も、動く。偽物の薬が、本物の変化を起こすの。……ついでに言うと、偽薬だと知って飲んでも効いた、っていう研究まである。オープンラベル・プラシーボ。知ってるのに、効く」
「知ってるのに?」とななせ。
「知ってるのに。人間の身体は、そのくらい『信じること』に弱い。……まあ、万能扱いには研究界隈で批判もあるけどね。効くのは痛みとか、気分とか、自律神経まわり。骨折は治らないし、腫瘍も消えない」
好は一度言葉を切った。切ってから、自分のために言うみたいに、ゆっくり続けた。
「ちなみに、逆もある。『効かない』『悪くなる』って思い込みが、本当に体調を崩すの。そっちはノーシーボ。医学や薬学の分野では『ノセボ』ね。……で、どっちにも共通してることが一つ」
ペン先が、紙の上で止まった。
「——症状には効く。原因には、効かない。そこだけは、はっきりしてる」
このときの律には、ただの講義の締めにしか聞こえなかった。
「で、や」と律は身を乗り出した。「うつつちゃんのあれは、そのプラシーボやと思うってことなん?」
「思う。……思うけど、変なの」
好は眉間を押さえた。頭痛の名残ではなく、研究者の癖のほうだった。
「さっきの私の頭痛。私、あの子の呪文を信じてない。信じてないのに、軽くなった。プラシーボは受け手の予期の話なのに、あの子のは——かける側の確信が、そのまま相手に移ってる」
「オープンラベルの、さらに向こう側だ」とななせ。
「そう。だから、たぶんことわりつき。それも」
好はルーズリーフに、見慣れた十字を引いた。横軸の右端に「広い」、縦軸の上端に「深い」。夏の終わりに一度、この家の全員が見た紙だった。
「範囲はとても狭くて——深い。痛みって、身体の一番内側の情報だから。もし本当に、痣まで消してるなら」
ペンの先が、縦軸の上のほうで少しだけ迷って、止まった。
「……千ちゃんより、上かもしれない」
千が麦茶から顔を上げた。
「…………上、あるんだ」
「わかんない。わかんないから、怖いんだけどね」
廊下の奥で、脱衣所の戸が開く音がした。講義は、きっちり一時間で店じまいになった。
---
妹チームの結成は、講義の翌日だった。
律が予備校から帰ると、居間のテーブルに千と現が並んで座っていた。二人の間には金平糖の瓶。千は本を読み、現は金平糖を色別に並べ替えている。会話はない。会話はないのに、空気は完成していた。
「……なにしてるん、二人とも」
「べつに」と千。
「こんぺいとうの、相談だよぉ」と現。
相談の中身は最後までわからなかったが、二人の間で何かが成立しているのだけはわかった。あとで一に聞いたところによると、昼間、こういうやりとりがあったらしい。
「……甘いの、好きなんだ」
「うつつ、甘いのがあれば、だいたい生きていけるよ」
「…………私も、たぶん、そっち側」
千が自分から「側」に入るのは、この家では初めてのことだった。妹チームは、こうして音もなく結成された。
その夜だ。律が麦茶を取りに居間を通りかかると、千がテーブルに突っ伏すような姿勢で、腕を後ろに回していた。
「……どしたん」
「……背中。ちょっと痛い。最近、たまに」
「成長期ねえ」と、台所から一がのんびり言った。「千ちゃん、この夏で伸びたものね」
「読書の姿勢もあると思う」と好。「猫背だもの、千ちゃん」
「……ほっといて」
家族の診断は「成長期と猫背」で全会一致した。律もそう思った。十三歳は伸びる。伸びれば軋む。それだけの話——のはずだった。
「せんちゃん、背中いたいの?」
風呂上がりの現が、髪を拭きながらやってきた。やってきて、千の背中に、ぽん、と小さな手を置いた。
「だーいじょぶ、だいじょぶ」
千の肩が、ゆっくりほどけた。
「…………ほんとだ」
千は目を丸くして、背中を伸ばした。「楽になった。……ほんとに」
「ん。よかったねぇ」
現はふにゃりと笑って、濡れた髪のまま金平糖をひとつ口に入れた。
いい光景だった。どこからどう見ても、いい光景だった。
律の目に映る現の上は、今夜も凪いでいた。千の上の、途切れがちな波形が、呪文のあとで少しだけなめらかになっていた。深い、と好は言った。痛みは身体の一番内側の情報だと。その内側に、あの呪文はたしかに届いている。
「(……効きすぎやろ)」
感嘆と、感嘆によく似た別の何かが、胸の中で半拍ずれて鳴った。その正体を、このときの律はまだ、確かめようとしなかった。
---
自室に戻っても、問題集は進まなかった。
凪。
思い返すのは、八月の人影のことだ。燃えるペデストリアンデッキのど真ん中で、一人だけ波及しなかった誰か。あのとき律に見えていたのは逆光のシルエットだけで、年格好も、顔も、髪の色さえ覚えていない。思い出そうとするほど、輪郭は溶けていく。確かに覚えているのは、ひとつだけ——燃える海の真ん中で、そこだけ水面が動かなかった、あの凪の質だ。
そして今、同じ質の凪が、この家の二階で鼻歌を歌っている。
波が読めない新入り。痛みの内側まで届く呪文。隠す発想のない使い方。狭くて、深い。好の言葉を借りるなら、千より上かもしれない深さ——
材料は、揃い始めている。揃い始めているからこそ、律は慎重になった。爆弾やのうて、家族。順番を間違えた瞬間に壊れるものが、この家にはたくさんある。
窓の外、庭越しに二階を見上げる。飴色の簾の部屋に、窓明かり。のんびりした鼻歌が、風に乗って切れ切れに届く。
「(なあ、うつつちゃん)」
声に出さない質問を、律はひとつだけ置いた。
「(あの夜——あのデッキに、おらんかったか)」
鼻歌は、途切れなかった。
質問は、十月の夜気に溶けた。




