第一話② 甘さだけが、確かだった
夕方の居間は、菓子博覧会になった。
「おかし(われもの)」の箱から出てきたのは、キャラメルの缶、ラムネの瓶、個包装のクッキー、地方の銘菓らしい最中、そして大量の金平糖だった。テーブルに並べていく現の手つきは、店番のように慣れていた。
「うーちゃん、これ全部ひとりで食べる用だったの?」
「ん。一日ぶんじゃないよぉ? 一週間ぶん」
「一週間でも多いわよ」と好が言った。言いながら、クッキーの袋を裏返して成分表示を確かめている。研究者の性だった。
「甘いものはね、うつつのお薬なの」
現はキャラメルの缶を開けながら、のんびり言った。
「落ちこんだときも、怖いときも、甘いのをひとつ食べて、だーいじょぶ、だいじょぶって唱えると、へーきになるの。昔から、ずっと」
「……民間療法だ」と好。
「甘いは正義よねえ」と一。
「わかる」と千。
千は最中に手を伸ばしかけて、小さく咳をした。二つ、三つ。誰も気に留めなかった。律も、気に留めなかった。十月の空気は乾き始めていて、咳くらい、誰でもする。
律はといえば、麦茶を飲みながら、ずっと同じことを確かめていた。
見えない。
菓子を配って、笑って、結と速度の違う応酬をして——感情は明らかに動いているのに、現の上には何の層も浮かばない。結が来た日は、初日の爆笑の中で輪郭が見えた。露出の大きい波は、未取得でも輪郭が浮かぶ。この目の、確かなルールのはずだった。
なのに、凪。
「(落ち着いてるだけ、かもしれん)」
そう思おうとした。のんびりした子だ。波が静かでも不思議はない。そう思おうとして——上がり框の転倒を思い出す。あの瞬間ですら、何も跳ねなかった。
律の中で、八月の人影が、また少しだけ輪郭を濃くした。
まだ、材料が足りない。年格好が合う、というだけなら偶然で済む。波が読めない、というだけなら未取得で済む。でも、二つ重なると——鼻の奥の予告編がこういうときに限って正確なことを、律はもう知っている。
「律にぃも、どうぞ」
目の前に、キャラメルがひとつ差し出された。
「……ありがと」
「ん」
現はふにゃりと笑って、自分の分を口に入れた。ほっぺたが少し膨らんで、しあわせの形になった。
悪い子であるはずが、なかった。
それはそれとして、観察は続ける。この家の情報部は、そういう部署だった。
---
新しい家族が増えると、この家の何かが必ず一つ、後ろにずれる。
今回それは、予定どおり、律の睡眠だった。
もともと律は最後に風呂に入る。男は一人だし、それが順当だと自分でも思っている。問題は、その「最後」が来る時刻だ。女子が一人増えるということは、律の前に並ぶ長風呂が一つ増えるということで、つまり律が湯船に浸かる頃には、日付が変わる準備を始めている。
「……また一時間、後ろ倒しや」
脱衣所の前で、律は乾いた笑いをこぼした。廊下の奥から、結の鼻歌と、新入りののんびりした鼻歌が、二重奏で漏れてくる。合体した台風に、そよ風が一つ加わった音だった。
風呂から上がると、縁側にななせがいた。
定位置に、定間隔。麦茶のグラスが二つ。十月の夜気はもう麦茶の季節ではない気がしたが、この家の縁側協定に季節条項はない。
「観察案件、二人目だね」
ななせが言った。律は隣に座って、グラスを取った。
「そやな」
「どんな子だと思う?」
「……ええ子や。それは、たぶん間違いない」
「うん。それは私もわかる」
「そのうえで、や」
律は麦茶を一口飲んだ。氷が鳴った。言うべきかどうか半日考えたことを、結局そのまま口に出した。
「波が、見えへん」
「……輪郭も?」
「輪郭も。転んだ瞬間もや。凪——いや、凪ともちゃうな。水面があるんかどうかも、わからん」
ななせはしばらく黙っていた。居間からは、結と現が菓子の缶を賭けてゲームをしている音がする。千の「……左」という静かな指示も聞こえる。あっちの布陣は、もう決まったらしい。
「焦げの香りは?」
「本人が框で転んだあたりで、消えとった」
「そっか」ななせはグラスを置いて、膝を抱えた。「じゃあ、あの子が『初めて』だったんだ」
アホ毛が月明かりで少し光った。
「ね、律。今度も、順番まちがえないようにしよ。観察はするけど——」
「爆弾やなくて、家族。わかってる」
「よろしい」
ななせは笑って立ち上がり、障子の向こうの祭りに混ざりに行った。律はもう少しだけ縁側に残って、二階を見上げた。飴色の簾が、月の光でつやりと光っていた。
——甘いのをひとつ食べて、だーいじょぶ、だいじょぶって唱えると、へーきになるの。昔から、ずっと。
あの言い方を、律は頭の中で再生する。昔から、ずっと。十五年ずっと、あの呪文はあの子に、何をして——何を、してこなかったんだろう。
答えの代わりに、口の中でキャラメルの最後のかけらが溶けた。
甘さだけが、確かだった。




