第一話① 転んだ新入りに、痣ひとつない
焦げたような香りには、二度目までで慣れたつもりでいた。
十月最初の土曜日。洗面所に向かう廊下の途中で、それは唐突に鼻の奥に立った。醤油と砂糖が鍋の底で出会ったときのような、香ばしくて、しかしどこにも発生源のない香り。風間律は歯ブラシをくわえたまま立ち止まった。
台所からは味噌汁の香りがしている。それとは別の回線で、鼻の奥だけが静かに焦げていた。
「(……三度目や)」
一度目は、四十二ヶ月の記憶を抱えて箕面の朝を迎えた日。二度目は、八月の終わり——二階に台風がもう一個増える朝だった。この香りは事後報告ではなく予告編で、律の身体は律より先に、本物の未知が近づいていることを知る。
だから律は、歯を磨き終えると、まっすぐ庭に出た。
答え合わせは、早いほうがいい。
朝露で湿った庭石を踏んで、振り返り、二階を見上げる。
あった。
空き部屋は二つ。その左側の窓に、簾が掛かっていた。真新しい、飴色の簾。朝日を吸って、べっこう飴みたいにつやつやと光っていた。昨日の夕方、洗濯物を取り込んだときには、なかったはずのものだ。
「律、おはよ……あれ、なにしてるの?」
縁側から声がした。七瀬ななせ。アホ毛の角度で機嫌がわかる隣人は、律の視線をたどって二階を見上げ、それから「わ」と小さく言った。
「簾だ」
「簾やな」
「飴色だね」
「飴色やなあ」
しばらく二人で見上げていた。誰が掛けたのかは、聞くだけ無駄だ。大家は顔を見せない。管理会社は「メンテナンスです」しか言わない。この家に人が「たどり着く」とき、その前触れはいつも、こういう顔をしてやってくる。
「……増えるんだ、また」
「そうみたいやなあ」
ななせの声は弾んでいた。弾んだまま、目の奥の一枚だけが観測者の色をしていた。律の鼻の奥では、まだ焦げの香りが続いている。
「(今度は、どんな理が来るんやろな)」
予告編は、上映中だった。
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朝食の席で報告すると、居間は祭りになった。
「新入りっ!?」
最初に立ち上がったのは結だった。糸吉結、十八歳。この家の二階に住み始めて、じきふた月になる、編み込みとオノマトペの人である。
「どーんと来たじゃん! あたしの後輩じゃん! ついに先輩じゃん、あたし!」
「まだ誰も来てへんよ」
「簾が来たんでしょ? じゃあ来るよ。あたしのときも、簾が先だったもん」
妙な説得力があった。青い簾の部屋の住人は、簾の先輩でもあった。
「あらあら」と味噌汁のお玉を持ったまま皆同一が笑う。「お部屋、掃除しておいたほうがいいかしらね」
「その必要は、たぶんないです」と橋渡好が言った。「結ちゃんのときも、部屋は最初から整ってたから」
好は湯呑みを置いた。置いてから、少しだけ声を落とした。
「……手回しがいいのよね、いつも。誰のかは知らないけど」
一瞬だけ、食卓の空気が薄くなった。それを破ったのは千だった。
十十木千は納豆をかき混ぜながら、顔も上げずに言った。
「……どうせ、女の子だよ。律の夜が、また一時間へるだけ」
「なんで俺の夜、もう減った前提なん」
笑いが起きて、空気は元に戻った。
昼前、引っ越しのトラックが黒板塀の前に停まった。作業服のお兄さんたちが運び込む段ボールは、数えるほどしかなかった。そのかわり、妙に細長い箱と、妙に平たい箱が多かった。あとで知ることになるが、中身はほとんど菓子箱だった。
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本人は、午後に来た。
玄関の引き戸が、ゆっくり開いた。がらがら、という音の量が普段の半分だった。
「……こんにちはぁ。今日から、お世話になりますぅ」
声も半分だった。
結のときとは、あらゆる数値が逆だった。廊下に出てみると、玄関の三和土に女の子が立っていた。第一印象は、やわらかい、だった。淡い色の髪がゆるくうねって、肩のあたりでふわふわしている。大きな段ボール箱を胸の前に抱えていて、箱には手書きで「おかし(われもの)」と書いてあった。
「(お菓子は割れ物とちゃう……いや、割れるか。せんべいとか)」
律が無駄な検討をしている間に、住人たちが玄関に集まってきた。女の子はぺこりと頭を下げて、箱を抱え直して、上がり框に足をかけて——
転んだ。
豪快だった。箱ごと、いい音がした。廊下に菓子箱が滑り、缶が転がり、金平糖の小瓶がからからと回った。
「「「だいじょうぶ!?」」」
三人分の声が重なった。ななせと一と結が同時に駆け寄る。律も膝をつきかけて——女の子が、廊下に手をついたまま、歌うように言うのを聞いた。
「だーいじょぶ、だいじょぶ」
節のついた、呪文みたいな言い方だった。
女の子はけろりと起き上がって、健康的な太ももを短く包んだスカートの埃を払った。
「ん。唱えたから、痛くないよぉ」
「……いや」と律は言った。「唱える唱えへんの問題と、ちゃうやろ。膝、見してみ。打ったとこ」
「へーきだよぉ」
女の子は言われるがまま膝を出した。今の転び方なら、赤くなるか、青くなるか、最低でもすりむいているはずだった。
何もなかった。膝にも、肘にも、痣ひとつ。
「(…………)」
律は黙って金平糖の小瓶を拾った。拾いながら、目だけを女の子に向ける。見るのは肌ではない。その上に重なっているはずの、もう一枚の層だ。転んだ直後——驚きなり痛みなり、感情が跳ねた直後なら、理憑きの波は輪郭くらい浮かぶ。体感で七年、この目はそうやって家族を見てきた。
何も、なかった。
波が穏やかなのではない。波の情報そのものが、ない。よく晴れた日の、風のない水面。
「(——凪や)」
そして律は、その凪を知っていた。
八月の終わり。恐怖の縞のど真ん中で、一人だけ波及しなかった人影。あの人影から、律は波の情報をひとつも読めなかった。あのときは「未取得やから」で片付けた。でも——
「あのぅ」
目の前で、女の子が小首をかしげていた。
「お兄さん、こんぺいとう、好き?」
「え?」
「さっきから、ずっと握ってるから」
握っていた。慌てて差し出すと、女の子はふにゃりと笑って、瓶ごと律の手に押し返した。
「あげる。ひっこしのご挨拶。……えっと」
女の子は居住まいを正した。深呼吸を、ひとつ。
「強信現です。十五歳です。今日から二階に住みます。……うつつ、って呼んでください」
ぺこり、と頭を下げる。それから、床に散らばった箱を指差した。
「これは、みんなのぶんのお菓子です。うつつ、甘いものがあれば、だいたい生きていけるので……みんなも、そうだといいなって」
理屈になっているような、なっていないような自己紹介だった。
「うーちゃんだ!」
結が叫んだ。「うつつだから、うーちゃん! あたし結! むすぶだから、むーちゃんでもいいよ! 呼びやすいほうで!」
「……ん。じゃあ、むーちゃん」
「即答! いいねえ、うーちゃん、話が早い!」
あだ名の交換が、出会って一分で完了した。距離感のバグは、どうやら伝染するらしい。いや——伝染するのは知っている。この家では、笑い声も、あだ名も、たぶん勇気も伝染する。
「はじめまして! 七瀬ななせです。ななちゃんって呼んで!」
ななせのはじめましては、するっと出た。夏の終わり、あんなに律を動揺させた四十二年ぶりの新品は、もう日常の顔をして玄関に立っている。ええことや、と律は思う。新品は、使ってこそや。
「で、お兄さんは?」
現がこちらを見上げた。淡い色の髪の下で、目がのんびりと瞬きをする。
「風間律。受験生や」
「りつ……」
現は口の中で転がして、それから、ふにゃりと決めた。
「律にぃだ」
「……はやいなあ、この家の命名は」
異議は、受理されなかった。




