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第六話 生まれて十五年で、初めての報告

 翌朝、現は一に連れられて病院へ行き、昼前に帰ってきた。診断は拍子抜けするほど短かった。平熱。炎症なし。異常なし。医者は「疲れが出たんでしょう」と言ったらしい。半分は正解で、半分は、医学の紙からはみ出した話だった。


 家の軋みも、消えていた。


 好の頭痛は朝には引いていて、ななせはよく眠れたと言い、結の喉は歌える程度に戻った。渦が止まった、ということだと思う。止めたのが何だったのかを、夕食の後の縁側で、律は情報部と理論班に報告した。


 「——で、律くんは、何をしたの」


 「……波の下に、潜った」


 説明は、我ながら要領を得なかった。水面のない水。十五年分の地層。一番下の、裸の一粒。話しながら、自分でも半分は夢の報告をしている気分だった。ただ、好は笑わなかった。笑わずに、ノートを三ページ埋めた。


 「触れて鎮めるのが最初。次が、視ること。波面を掴むのが、この夏。……で、今度は水面の下。律くん、それ、次の段階だよ」


 「名前つけなよ、また」とななせ。


 「……素潜りや」


 考えるより先に、口が答えた。


 「息継ぎなしの素潜り。装備で言うたら、海女さんのほうがまだ上等や」


 「波消しの次が素潜り。律って、ネーミングが浜辺から離れないね」


 「うるさいわ」


 笑いになったが、代償の話は笑いにならなかった。


 あの夜から二日ほど、律の世界には薄紙が一枚挟まったままだった。教科書の文字も、味噌汁の味も、間違いなく本物なのに、本物という実感だけが半歩遅れてくる。深く潜った身体が払う、圧の差の利子。触れて鎮めれば声が半段下がり、波を呑めば他人の感情を再生させられ、潜れば——自分の現実感を、抵当に入れる。


 「現実チェックでーす」


 朝の食卓で、ななせが律の袖を二本の指でつまむのが、日課になった。


 「……なんやねん、それ」


 「浮いてないかの点検。合格。今日も現実です」


 ばかばかしくて、ありがたかった。薄紙は、三日目の朝に消えた。ななせの指の重さが最後まで一番よく効いた、ということは、本人には言わないでおいた。


---


 千が帰ってきたのは、土曜の昼だった。


 「……ただいま」


 「「「おかえり!」」」


 玄関の三和土で、千は一週間ぶんの出迎えを浴びて、少しだけ迷惑そうな、まんざらでもない顔をした。結が退院祝いの垂れ幕(画用紙三枚継ぎ)を掲げ、一は昼から餃子を包み始めていた。


 現は、列の一番後ろにいた。


 「せんちゃん……あのね」


 昼食が終わって、居間に二人が残ったとき、現は言った。律は台所で洗い物をしていて、聞くつもりはなかったが、聞こえる距離だった。


 「ごめんなさい。うつつの呪文が、せんちゃんの痛いのを、隠しちゃった。だから、見つかるのが遅く——」


 「……なんで謝るの」


 千は、マンガのページをめくる手を止めなかった。


 「……効いてたよ、ちゃんと。痛くなかったの、ほんとだもん」


 「でも」


 「痛いって言わなかったのは、私」


 ページが、一枚めくれた。


 「言うの、へたなの。昔から。……だから、うーちゃんのせいに、しないで。私の分まで持ってかれると、こまる」


 現が、何かを言おうとして、言えずに、口を閉じた。


 千はマンガから顔を上げずに、続けた。


 「で。退院のとき持ってくるって言った、いっぱい効くやつは」


 「……まだ、唱えられないの。ごめんね」


 「ん。……じゃあ、ツケにしとく」


 ツケ、と現は小さく繰り返した。繰り返して、それから、ちょっとだけ笑った。あの夜以来、初めての、蓋ではない笑い方だった。


 台所で皿を拭きながら、律は思った。この家の妹チームは、加害と被害の帳簿のつけ方が、大人よりよほど正確だ。


---


 その夜遅く、律は水を飲みに台所へ降りて、椅子の上の現を見つけた。


 電気はつけていなかった。月明かりの中で、膝を抱えて、小さな声で練習していた。


 「だーいじょ……」


 落ちる。


 「だーい……」


 落ちる。


 何度目かで、現は息を吐いて、膝に顔を埋めた。


 「……律にぃ、いるでしょ」


 「……ばれとったか」


 「足音、覚えたもん」


 律は冷蔵庫を開けるのをやめて、テーブルを挟んだ椅子に座った。月明かりの台所は、水の底に少し似ていた。


 「唱えられないの」


 現は、膝に顔を埋めたまま言った。


 「千ちゃんのツケも、あるのに。みんなの痛いのも、戻ってきちゃうかもだし。うつつ、はやく、元に戻らないとって……でも、途中で、落ちちゃうの。何回やっても」


 「無理に唱えんでええ」


 「……」


 「ここでは、だいじょうぶじゃなくても、おってええから」


 膝に埋めた顔が、少しだけ上がった。月の光で、目の縁が濡れているのが見えた。十五年間、外れたことのない呪文の持ち主は、呪文の切れた世界で、生まれて初めての夜を過ごしている。怖いはずだった。あの底で見た、裸の一粒と同じくらい。


 現の口が、開いて、閉じて、もう一度開いた。


 「…………うつつ、いま、だいじょうぶじゃない」


 生まれて十五年で、初めての報告だった。


 「うん」


 律は頷いた。それ以上でも以下でもなく、報告を受理した。


 「よう言えたな」


 現の顔が、ぐしゃりと崩れた。声は出さずに、肩だけで泣いた。律は立ち上がって、テーブルの上の金平糖の瓶を取り、蓋を開けて、一粒、現の手のひらに置いた。


 「効くかどうかは知らん。呪文もついてへん。ただの砂糖や。……でも、美味しいで」


 現は、泣きながらそれを口に入れた。


 「……甘い」


 「そやろ」


 「甘いは……正義」


 「そやな」


 あとな、と律は言った。言うかどうか迷って、言うことにした。


 「俺、うつつちゃんの呪文、効かへんやろ。だから俺の言う分は、呪文とちゃう。ただの本音や。……今夜は『だいじょうぶや』とは言わへん。うつつちゃんが今、だいじょうぶじゃないからや」


 「……うん」


 「そのかわり、いつか俺が言うたときは——全部ほんまや。そう思っといて」


 現は、手の甲で目元を拭いて、頷いた。窓の外で、飴色の簾がかすかに揺れる音がした。


---


 日曜の夕食後、好がルーズリーフを一枚、テーブルの真ん中に置いた。


 「事件の整理。……と、夏の宿題の答え合わせ」


 ペンで十字を引く。横軸の右端に「広い」、縦軸の上端に「深い」。全員がもう知っている紙だった。千も、退院したての顔でテーブルについていた。現は、初めてこの紙を正式に見る側の席にいた。


 「広さの端は、結ちゃん。ここは変わらず。で——」


 好のペンが、縦軸を上へ、上へ、たどっていった。千の位置を通り過ぎて、軸の一番上、紙の縁ぎりぎりで止まった。


 「深さの端は、うつつちゃん。痛みも、熱も、身体の一番内側まで届く。この家で——たぶん、私の知る限りで、一番深い」


 「……抜かれたんだ、私」


 千がぽつりと言った。ぽつりと言ってから、「べつに、いいけど。端っこ、疲れるし」と付け足した。妹チームの先輩から後輩への、位の譲渡だった。


 「うつつ、高いところ、ちょっと……怖いかも」


 現が紙をのぞきこんで言った。怖い、が、するりと出た。一が、味噌汁のお椀の向こうで、小さく「言えたわね」と笑った。


 「それでね。夏の宿題」


 好はペンを置いた。


 「八月の夜、群衆の中で一人だけ波及しなかった人。私はあのとき『広さゼロ、深さゼロ。あるいはこの紙と別の紙』って言った。——半分、訂正します」


 好は縦軸の一番上、紙の縁を、指でとん、と叩いた。


 「測れなかったんじゃない。深さがここまで突き抜けてたから、私の紙が短くて、届かなかっただけ。……測れないものの半分には、名前がついた。強信現さん。この家の、新しい家族」


 「じゃーん」と結が効果音をつけて、現が照れて、食卓が少し笑った。


 「てことはさ!」


 結が身を乗り出して、紙の右端と上端を交互に指差した。


 「あたしが横の端で、うーちゃんが縦の端! 端っこ同士じゃん!」


 「ん。端っこ同盟だねぇ」


 差し出された結の手のひらに、現がのんびり手を合わせた。世界で一番ゆるいハイタッチだった。


 「軸は違うけどね」と好が水を差し、


 「軸が違うから、いいのよ」と一が掬い上げた。「端っこの席はね、真ん中より、みんなの顔がよく見えるの。食卓と一緒よ」


 一の言うことは、いつもどおり誰にでも当てはまりそうで、そのくせこの二人にだけ、妙に深く刺さる言葉だった。広さの端は、客席の全部が見える席。深さの端は、痛みの底まで見える席。見えすぎる席に座った子たちに、この家がどう映っているのか——それは、たぶん居心地の答えで測るしかない。


 「ね、りっくんはどこに載るの?」


 「律くんは、載らない」


 好が即答した。「この紙は、ことわりつきの紙。律くんのは——たぶん、別の紙」


 「仲間はずれだ」とななせが笑った。


 「ほっとけ」


 別の紙。冗談の顔をして通り過ぎたその三文字を、律は一拍だけ、口の中で転がした。俺の紙には、どんな軸が引かれてるんやろな——考えかけて、やめた。それはたぶん、まだめくる時期の来ていない紙だった。


 「半分、ってことは」と律は言った。


 「もう半分は、まだ外」


 好の視線が、一瞬だけ、ななせの上を通った。通っただけで、止まらなかった。デジャヴは人の中身ではなく時間に触れている。あの夏の言葉のまま、この紙のどの軸にも、あの子の場所はない。律とななせだけが、「外」の本当の意味を知っている。目は、合わせなかった。


 講義が解散して、ななせと現が縁側のほうへ消えて、律が食器を運んでいると、紙を畳んでいた好が、独り言みたいな音量で言った。


 「律くん。オープンラベル・プラシーボの、応用問題」


 「……なんですか、急に」


 「知ってて、それでも効いてる感情は——本物? 偽物?」


 律は、布巾を持ったまま少し考えた。


 「……効いてるんなら、本物なんとちゃいます。仕組みを知ってても、効くもんは効くんやし」


 「そう。私も、その結論」


 好はルーズリーフを畳んで、ファイルに挟んだ。挟みながら、ほとんど聞こえない声で付け足した。


 「——だから、あれは嫉妬。やっと名前をつけた」


 「……なんの話です?」


 「私ね、昔から、スマホにメモをつけてるの。どきどきした日のこと。……その中に一つだけ、ずっと名前を決められなかったやつがあって。今日、決まった。それだけの話」


 好はファイルを抱えて、さっさと自室へ歩いていった。廊下の途中で一度だけ、肩越しに振り返った。


 「言っとくけど、本人には教えない主義なの」


 誰の話なのかは、聞かないでおいた。聞かないのが、たぶんこの家の礼儀だった。


---


 麦茶を——冬が近いので、熱い麦茶を——取りに戻った律は、縁側の手前で足を止めた。


 障子の向こうに、二人分の声があった。


 「うつつね、ななちゃんに聞きたいことがあったの」


 「なあに」


 「ななちゃんは、いつも、ケロッとしてるでしょ。……あれって、どうやるの」


 麦茶を諦めるかどうか、迷う間もなかった。ななせの答えは、静かだった。


 「私もね、ずっと唱えてたんだよ。口の中で。——『ケロッとした顔』っていう呪文」


 「……効いてた?」


 「……ずっとね。効きすぎてた、ってくらい」


 縁側の板が、こと、と鳴った。誰かが湯呑みを置いた音だった。


 「うつつのと、同じだ」


 「ん。おんなじ。……だからね、うつつちゃん。呪文は、悪者じゃないよ。私、あれがなかったら、たぶんもたなかった。うつつちゃんの十五年も、そうだったんじゃないかな。呪文が守ってた夜が、いっぱいあったんじゃないかな」


 「…………うん」


 「ただ、順番が逆になってただけ。ほんとはね、『だいじょうぶじゃない』って言える場所を先に見つけて、それから、呪文は出かけるときのお守りにするの。……私も最近、覚えたばっかりだけど」


 「……ななちゃんは、まだ唱えてる?」


 「たまにね。でも、唱えなくても平気な日が、だんだん増えた。この家のせい」


 「……うつつも、そうなるかな」


 「なるよ」


 即答だった。


 「保証する。唱える側の、先輩として」


 律は、熱い麦茶を諦めて、音を立てずに廊下を戻った。


 あの縁側は、今夜はあの二人のものだった。唱える者同士の、静かな引き継ぎの夜だった。


 自室に戻って、机の上の学業御守が目に入った。二重がけの、効かないはずのお守り。手に取ると、やっぱり少しだけ、あたたかい気がした。効く効かないと、嬉しい嬉しくないは、別の帳簿。その帳簿の今夜のページに、律は一行だけ書き足した気分になった。


 この家の呪文が一つ、今夜からお守りに変わった。


 それは、たぶん、回復と呼んでいい出来事だった。


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