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エピローグ あけないでください

 十二月が来て、国立の街は音の少ない季節に入った。大学通りの銀杏はあらかた散って、あの金色の天井は、歩道の絨毯に商売替えをした。


 セオリア荘の日常は、おおむね回復した。


 十一月の終わりに受けた模試の結果が、返ってきた。手応えと結果は、今回はぎりぎり同居してくれた。判定を報告すると、現は自分のことみたいに胸を張った。


 「お守り、効いたねぇ」


 「効かへんはずやけどな、俺には」


 「ん。でも、効いたねぇ」


 効く効かないと、嬉しい嬉しくないは、別の帳簿。その帳簿のつけ方で言うなら、たしかに効いた。俺の努力の欄が主で、お守りの欄が従。それでええ、と律は思う。


 千のツケが回収されたのは、ある夜の居間だった。


 「……うーちゃん。ツケ、回収する」


 マンガから顔も上げずに千が言って、現が、すっと息を吸った。


 「だーいじょぶ、だいじょぶ」


 節は、最後まで落ちなかった。


 「……利子」


 「だーいじょぶ、だいじょぶ」


 二回目も、落ちなかった。千は満足そうに頷いて、マンガに戻った。効いたかどうかは、たぶんどうでもよかったのだと思う。あの注文は、退屈に効く薬ではなくて、うーちゃんに効く薬だった。妹チームの帳簿は、今夜も正確だった。


 現は、変わった。というより、増えた。


 呪文は今も唱える。ただし出かける前とか、寝る前とか、お守りの位置で。そして週に何回かは、金平糖を齧りながら、ごく普通の顔で言う。


 「今日はね、ちょっとだけ、だいじょうぶじゃなかった」


 報告を受けた者は、うん、と受理する。それだけの、新しい習慣だった。


 もう一つ、最近の現は、律が単語帳を音読していると、隣に座って真似をする。英単語の意味はまるでわかっていないらしいが、「自分で唱えるやつ、うつつも練習するの」だそうだ。発音は律より良かった。納得は、いっていない。廊下ですれ違うと、わたあめの香りが薄くする。あの甘さの下に何が沈んでいるのか、この家はもう知っている。知っていて、隣にいる。


---


 事件は、十二月最初の土曜日に起きた。


 「ちょっ……みんな来て! 二階!」


 結の声で、全員が階段を上がった。二階の廊下の突き当たり。最後の空き部屋——飴色の簾の部屋と並んだ、まだ誰のものでもない一室。


 その戸に、貼り紙があった。


 白い紙に、手書きの、丁寧な字。


 『あけないでください』


 沈黙が、五秒。


 「……開けたい」


 最初に言ったのは千だった。


 「奇遇だね。私も」とななせ。


 「禁止されると開けたくなる心理は、実験でも——」と好が言いかけて、


 「はいはい。講義は、次の子が来てからね」と一が笑って止めた。


 次の子。


 その言葉に、誰も反論しなかった。この家で、空き部屋に前触れが現れたら、それはもう天気予報と同じだ。降るのだ、近いうちに。


 「りっくん、開けちゃう?」


 「開けたい側の人間に聞くな」


 正直に言えば、律も開けたかった。ことわりつきの効かない体質のはずだが、この胸のむずむずには、たぶん法則もへったくれもない。禁じられた戸を開けたくなるのは、人間の仕様だ。


 管理会社に電話をかけた好は、三十秒で戻ってきた。


 「『メンテナンスです』だって」


 「「「出たー」」」


 貼り紙は、剥がさないことにした。剥がして開けたら負けな気がする、という全会一致の、根拠のない結論だった。


---


 その夜、律とななせは縁側にいた。


 定位置に、定間隔。湯呑みの中身は熱い麦茶で、庭の暗がりには、もう冬の底の色があった。


 「三人目、来るね」


 「……そやな」


 「あと一部屋。次の子が来たら、この家、満室だよ」


 ななせは湯呑みを両手で包んで、二階のほうを見上げた。


 「満室になったら——どうなるんだろうね、ここ」


 軽い声だった。軽い声のまま、目の奥の一枚だけが、いつもの観測者の色をしていた。集められている、と知っている者の目だ。部屋が埋まるということは、誰かの計画が、一区切りつくということでもある。


 「……ま、考えても答え出えへんし」


 「うん。出ないね」


 「来たら、迎えるだけや。いつもどおり」


 「うん。いつもどおり」


 鼻の奥は、静かだった。焦げの香りは、まだしない。


 まだ、しないだけだ。


---


 居間から、笑い声が聞こえた。


 結の「どーん!」と、千の「……左」と、好の「そこじゃない」と、一の柔らかい笑い。その隙間に、のんびりした声がひとつ。


 「だーいじょぶ、だいじょぶ」


 ゲームのピンチに、お守りが一発。効いたかどうかは知らない。直後に全員の悲鳴が上がったから、たぶん効いていない。でも、笑い声は倍になった。


 それでいい、と律は思う。


 呪いは治らない。呪文は消えない。十五年の地層が、ひと月で埋まるわけもない。それでもこの家には、痛いと言える台所と、だいじょうぶじゃないと報告できる食卓と、剥がさない貼り紙と、次の子の席がある。


 唱えても、いい。


 唱えなくても、だいじょうぶ。


(了)


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