第8話 審判本番・黒いシルエットが来た
夜明けが来た。
広場の台座が、朝の光の中で輝いていた。
昨夜より格段に明るい。でも、まだ完全には起動していない。一万には届いていない。
六十一人が、眠れなかった顔で広場に立っていた。
疲弊している。消耗している。でも、目だけは覚めていた。これから何が起きるか、全員がわかっていた。
『おはよう』
またあの声が来た。
今度は声だけじゃなかった。
広場の中心、空中に影が現れた。
昨日のシルエットより、はっきりしていた。人の形をした、黒い輪郭。頭と胴体と腕の形が見える。顔の部分だけが、光を吸収するように真っ黒だった。
大きさは人間と同じくらいだ。でも、地面から浮いている。重力を無視して、ゆっくりと広場の中心に浮かんでいた。
六十一人が、後退した。
誰一人として前に出なかった。
『昨夜は頑張ったね。LVR合計、今どれくらいだろうか』
シルエットが手を挙げた。
台座に数字が浮かんだ。
【現在LVR合計:八千四百五十二】
『あと一千五百か。惜しいね』
シルエットが首を傾けた。顔がないのに、表情があるように見えた。
『でも時間は終わり。朝が来たから』
「待ってくれ」
誰かが声を上げた。二十代の女だった。
「あと少しで届く。もう少し時間をくれ」
『ん?』
シルエットが、女の方を向いた。
『時間の延長はできないんだよ、残念ながら。でも、別の方法がある』
シルエットがゆっくりと動いた。
浮遊しながら、広場の端の方に向かってくる。プレイヤーたちが道を開けた。
シルエットが、聖夜の前で止まった。
顔がない。顔がないのに、見られている感覚があった。
値踏みされている。全部見通されている。舐めるように確認されている。
背筋が冷えた。恐怖というより、もっと根本的な何かが反応していた。
これは人間の視線ではない。ゲームの管理者でも、システムの声でもない。
何か別の存在が、別の次元から、聖夜という個体を「見ている」感覚だった。
周囲のプレイヤーが後退した。誰もシルエットに近づこうとしない。
聖夜だけが、その場から動かなかった。動けなかった、というより、動く必要がないと判断した。
(……逃げても意味がない。こいつは全部見てる)
『あなたは、面白いね』
声が、耳ではなく頭の中に直接入ってきた。
『LVRが全員の中で一番低い水準で推移している。でも、一回の上昇量が一番大きい。矛盾してるでしょ』
「…………」
『計算で動かないから減衰に追いつかれる。でも、本物の感情で動くから上昇量が跳ねる。きれいな矛盾だ』
「何が目的だ」
聖夜が言った。
シルエットが、少し動いた。
「笑った」ように感じた。顔がないのに。
『娯楽だよ。私たちの』
私たち、という複数形が気になった。
『あなたたちが必死に生きて、感情をぶつけて、消えていく。それが最高の娯楽なんだよ。悪い?』
「最悪だ」
『そうだね。でも終わらないよ』
シルエットが広場の中心に戻りながら言った。
『さて、残り一千五百の処理方法を教えてあげよう。簡単だよ。一人、自分のLVRを全部差し出す人間がいれば、残り分は免除してあげる』
広場が静まり返った。
全部。LVRを全部差し出す。
それは死を意味する。LVRがマイナスになれば強制排除。現実の死に繋がる。
『誰もいないなら、全員まとめて排除してもいいけど』
軽い声だった。
「全員まとめて排除」が、天気の話をするような軽さで出てきた。
広場のどこかで、泣き声が上がった。
誰かが膝をついた。誰かが壁際に崩れ落ちた。
「……俺が出す」
声が出た。
自分の声だと、一瞬遅れて気づいた。
◆
ユリアの手が、聖夜の腕を掴んだ。
強い力だった。
騎士の手の力だった。
「駄目です」
「でも、全員が死ぬより──」
言いながら、聖夜は自分の中で何かが揺れているのを感じていた。
これは合理的な判断だ。一人の死で六十人が生き延びる。数字の話だ。
でも、それを言い訳にしている自分も、どこかにいた。
(……俺は、死んでもいいと思ってるのかもしれない)
そこに気づいた瞬間、ユリアの手が腕に食い込んだ。
ユリアが聖夜の正面に回った。
アイスブルーの瞳が、真っ直ぐ聖夜を見ていた。怒りと、怒りの下にある別の何かが混ざった目だった。
「あなたが死ぬのは、私が許しません」
「俺一人で全員が助かるなら──」
「全員が助かっても、あなたがいなければ意味がありません」
「それは論理的じゃない」
「感情に論理はありません」
ユリアが聖夜の腕を離さなかった。
広場のあちこちから、視線が集まってきた。
誰が名乗り出るか。誰が犠牲になるか。固唾をのんで見ている。
シルエットが、また動いた。
聖夜たちの方に向かってくる。
『いいねえ』
声に、本当に楽しそうな色があった。
『正室が動いた。こういうの、好きだよ』
シルエットの「手」が伸びた。
聖夜に向かって来た。触れようとした。
ユリアが前に出た。剣を抜いた。
白い刃が、シルエットの手の前に突きつけられた。
「触れるな」
声が低かった。騎士の声だった。
シルエットの手が止まった。
一秒。二秒。
『おっと』
引いた。
その瞬間、台座が反応した。
【LVR合計:八千四百五十二 → 九千三百十七】
ユリアの行動が引き金になった。
広場全体に波紋が広がるように、プレイヤーたちが動いた。
感情が連鎖していた。
ユリアが前に出た、その一瞬の出来事が、六十一人の感情を動かした。
泣いていたプレイヤーが顔を上げた。
座り込んでいたプレイヤーが立ち上がった。
諦めかけていたペアが、互いの手を取り直した。
「あと七百だ」
「行けるだろ」
「やろう、今なら」
◆
そこから先は、怒涛だった。
七百。残り七百。
計算でやっても効果が薄い。でも、今この広場の空気は違った。
ユリアが剣を突きつけた一瞬が、全員に何かを思い出させた。
諦めるな。計算じゃない。本物を出せ。
聖夜はそれを、広場の端で見ていた。
「……お前、わかってやったのか」
ユリアに聞いた。
「……いいえ」
彼女は静かに言った。
「あなたを止めたかっただけです。結果は、計算していませんでした」
「そうか」
「でも……あなたを止められたことと、あれで全体が動いたことは、どちらも本物です。計算じゃないから、効果があったんだと思います」
台座の光が、一際強く輝いた。
【LVR合計:一万百二十四】
達成だった。
『おめでとう』
シルエットが言った。声に、満足の色があった。本当に楽しかった、という色だった。
『第一層、クリア。みなさん、第二層へようこそ』
広場が揺れた。
地面の紋様が輝き、光が柱のように上昇した。
転送が始まる。
◆
光の中で、ユリアが聖夜を見た。
「……生きています」
「ああ」
「さっき、LVRを差し出そうとしましたね」
「……見てたか」
「見ていました」
ユリアが、少し間を置いた。
「怒っています」
「わかった」
「次に同じことをしたら」
「しない」
「本当に?」
「……本当に」
ユリアの目が、わずかに揺れた。
「……信じます。でも」
彼女が聖夜の前に立った。
「確認させてください」
光の中で、ユリアが聖夜の顔を両手で挟んだ。
冷たい手だった。でも、震えていた。
「あなたが死ぬことが、私には何より怖いです。それを覚えておいてください」
「……覚える」
「必ず」
光が強くなった。転送まで時間がない。
聖夜はユリアを引き寄せた。
光の中で、唇が触れた。
一秒。
ユリアが目を閉じた。震えが止まった。
【LVR:51 → 89】
【《エンプティ・リンク》:感情倍率・最大 初段から次段へ解放】
視界が白くなった。
青白い光が二人を包んだ。
聖夜の腕の内側に、紋様が走った。翼と鎖が混ざった形が、今度は消えなかった。輝いたまま、ゆっくりと皮膚に沈んでいった。
体の奥から熱いものが上がってくる。昨夜とは違う質の充足感だった。
空っぽだった何かが、形を持ち始めた気がした。
ユリアが唇を離した。
目が、少し潤んでいた。
「……契約、完了です」
小さな声で言った。
「……ああ」
「……責任、取ってください」
「取る」
「約束ですよ」
「約束だ」
光が全てを包んだ。
――その音を、遠い場所の何かが聞き届けた。
◆◆◆
【第一層 クリア】
【HP:74/100】【LVR:89】
【《エンプティ・リンク》次段解放】
【第二層へ転送】
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