第5話 死の森3日目・腐食の森の匂い
第二セーフポイントに入って最初にしたのは、人数を数えることだった。
八十七人。
聖夜はその顔を一人ずつ見ていった。知っている顔はほとんどいない。
あの計算キスの男は、いた。生き残っていた。
桐島の元いたグループの女の子は、いなかった。
(……あの子、名前も知らなかった)
壁に背を預けて座りながら、聖夜はそのことだけを考えた。
ゲームに入ってまだ三日だ。でも、もう百十三人分の空白がある。
「……食事を取ってください」
ユリアが乾燥した何かを差し出した。
セーフポイントの配給だ。無味で固いが、カロリーは入る。
「食欲ない」
「食べなければ、明日動けません」
「わかってる」
「ならば食べてください」
聖夜は受け取った。噛んだ。味はしなかった。
桐島が隣で静かに食べていた。
あの「百十三人」の一言から、ずっと黙っている。
◆
夜の間に、聖夜は情報を集めた。
他のプレイヤーから断片的に聞こえてくる話を拾い集めた。
第三セーフポイントまでの距離は約二十キロ。でも、途中に「腐食の森」と呼ばれるエリアがあるらしい。
「腐食の森って何だ」
聖夜が近くにいた男に聞いた。
二十代後半、がっしりした体格。スキルは剣系らしく、刃物をいくつか腰に提げていた。
「知らないのか。第一層のボスエリアだ。ただの森じゃない。あそこに入ったら、植物が動く。木が獲物を追いかけてくる」
「植物が?」
「腐食してる。触れたものが溶けていく。昨日突入したグループが全滅したって聞いた。迂回しようにも、腐食の森を通らないと先に進めない構造になってる」
聖夜は地面を見た。
「……ボスがいるのか」
「中心部に何かいるらしい。でかい。でも誰も倒してない。倒せてない、が正確か」
男は立ち上がって行ってしまった。
聖夜はユリアを見た。ユリアは静かに頷いた。
「聞こえていました。明日、腐食の森に入ることになります」
「お前の氷結は植物に通じるか」
「……試したことはありません。でも、水分を含む植物なら凍結するはずです」
「毒蔓は」
「触れなければ問題ありません」
聖夜はしばらく考えた。
「桐島」
桐島が顔を上げた。
「腐食の森、音と振動で獲物を察知するモンスターがいる。お前の感知が逆に使える。こちらが音を立てないようにする判断を頼む」
桐島が少し黙った。
「……私でいいんですか」
「お前じゃないと無理だ」
「……わかりました」
◆
翌朝、腐食の森の入口に着いた。
最初に気づいたのは、匂いだった。
甘い。腐った果実みたいな甘さが、空気の底に沈んでいる。吸い込むたびに喉の奥がねばつく感じがした。
木々の色が変わっていた。
緑ではなく、黒と茶が混ざった色。幹の表面がぬめっている。根が地面から浮き上がって、まるで爪みたいに土を掴んでいた。
「……臭い」
聖夜が思わず声に出した。
「静かに」
桐島が低い声で言った。目を閉じている。両手を広げて、空気の流れを読んでいる。
「……中に、何かいます。大きい。動いていない。でも、こちらの振動を感じている気がします」
「今から音を立てるな。全員、足音を殺せ」
三人が息を合わせた。
腐食の森に入った。
足を置くたびに、地面が微かに沈む感触があった。腐敗した土が柔らかくなっている。
木の根を踏まないように、蔓を避けながら、一歩一歩慎重に進んだ。
風が止まっていた。
鳥の声もない。虫の音もない。
ただ、遠くで何かが低く唸っている音だけが、地面を通して伝わってくる。
「……右の蔓、動いています。触れないで」
桐島が囁いた。
ユリアが即座に左に体を寄せた。聖夜も続いた。
右の蔓がゆっくりと、意志を持つように空中に伸びた。さっきまで聖夜が立っていた場所を、先端が通過した。
聖夜は息を止めた。
蔓の先端が触れた地面が、黒く変色した。
腐食だ。触れたものを溶かしていく。
「……あれに触れたら」
「黙って」
桐島が囁いた。
「中心部に近づいています。もうすぐです」
◆
森の中心部は、開けた場所だった。
木々が円形に避けて、直径三十メートルほどの空間がある。
その中央に、それはいた。
巨大だった。
四本の太い幹のような脚が地面に根を張っている。全身に腐食した蔓が絡まり、幹の表面からはゆっくりと黒い液体が滲んでいる。
顔の代わりに、ただ巨大な口だけがあった。目がない。耳もない。
ただ、口が開いていた。
腐敗した甘さの源が、そこだった。
「……あれが、ボスですか」
桐島が囁いた。
「たぶん」
「……どうやって倒すんですか」
聖夜はそれを観察した。
目がない。音と振動で動く。蔓が武器。そして、全身が腐食している。
胸部の中心に、黒い液体が特に濃く集まっている場所がある。
核だ。あそこが弱点のはずだ。
「ユリア、胸の中心が見えるか」
「見えます」
「あそこに氷結を集中させられるか」
「……距離があります。近づく必要があります」
「近づく時に音が出る」
「……出ます」
三人が黙った。
桐島が手を上げた。囁く。
「……提案があります」
「言え」
「あれは音と振動で動く。なら、大きな音を出して意識をそちらに向ければ、ユリアさんが近づく隙ができます。私が反対側で音を出します」
「それはお前が囮になるということだ」
「……わかっています。でも、私には戦う手段がない。感知しかない。それを使いたい」
聖夜は桐島を見た。
昨日守った。今日は自分から囮になると言っている。
「……逃げられるか。音を出した後」
「木の陰に入れば、振動が追いにくくなると思います。たぶん」
「たぶん、か」
「……確実とは言えません」
聖夜は地面を見た。
LVRの数字が視界の端に浮いている。【LVR:44】。
(……行けるか、行けないか、じゃない。行くしかない)
「わかった。桐島、反対側まで音を立てずに回れるか」
「回れます」
「合図は俺が石を投げる。石が地面を叩いたら音を出せ。その瞬間にユリアが走る」
「……わかりました」
ユリアが静かに頷いた。
剣に凍気を集め始めた。白い光が刃に集まっていく。
◆
桐島が音もなく動いた。
木の根を避け、蔓を避け、腐食の森の中を反対側まで回り込んでいく。
二分かかった。聖夜には二時間に感じた。
石を拾った。
腐食の森番の反対側に向けて投げた。
石が地面を叩いた音が響いた瞬間、反対側から桐島が木の枝を叩く音が連続して鳴った。
腐食の森番が反応した。
巨体が振動に向かって向きを変えた。四本の幹脚が地面を踏みしめ、音のした方向に蔓を伸ばした。
「今」
ユリアが走った。
音を殺した走り方だったが、それでも足音がした。
腐食の森番の口が開いた。こちらに気づいた。
でも、一瞬遅かった。
ユリアの剣が、胸部の核に突き刺さった。
今日一番の凍気が、一点に解放された。
白い光が爆ぜた。
黒い液体が凍り、核が砕けた。
腐食の森番が、音もなく崩れた。
幹脚から力が抜け、蔓が垂れ、巨体がゆっくりと地面に倒れた。
腐敗の甘さが、一瞬で薄れた。
◆
桐島が戻ってきた。
右腕に蔓が掠めた跡があった。黒く変色している。
「桐島、腕」
「……触れてはいないです。掠めただけです。大丈夫」
「大丈夫じゃない。見せろ」
ユリアが腕を確認した。
皮膚の表面が少し変色しているが、深くは入っていない。
「冷やします。凍傷になりますが、腐食よりマシです」
「……お願いします」
ユリアが桐島の腕に凍気を当てた。桐島が小さく息を詰まらせたが、黙って受けた。
聖夜はその様子を見ながら、腐食の森番が倒れた場所を見た。
もう動いていない。蔓も、幹脚も、全部静止している。
【HP:68/100】【LVR:43】
戦闘なしで乗り切った。LVRの消費は減衰分だけだ。
「……やったな」
聖夜が言うと、桐島が冷やされた腕を押さえながら答えた。
「……私、役に立てましたか」
「役に立った」
「……よかった」
彼女は少し笑った。
また、泣きそうな顔で笑った。
◆
腐食の森を抜けると、視界が開けた。
霧が薄くなっていた。前方に、第三セーフポイントの外壁が見える。
昨日より遠い。でも見える。見えるなら、着ける。
三人で歩き始めた。
残り八キロ。
桐島の腕の変色は、ユリアの処置で止まっていた。痛みはあるが、動ける。
聖夜の右腕も、昨日の傷が固まりつつある。じくじくするが、耐えられる。
霧の中を歩いていると、廃墟が見えた。
かつて何かの建物だったらしい。石造りの壁だけが残っている。屋根はない。
その廃墟の影に、何かがいた。
「……人か」
聖夜が立ち止まった。
影が動いた。
壁の陰から、一人の少女が出てきた。
黒い髪だった。
ミッドナイトネイビーとでも呼ぶべき深い黒に、内側だけが深紅に染まっている。
有名進学校の生徒会風の制服が、三日間の森でぼろぼろになっている。
眼鏡をかけていた。金縁の、細いフレーム。
少女は聖夜たちを見て、一歩後退した。
「……っ、人、ですか」
「そうだ」
「……安全、ですか」
「腐食の森番は倒した。今この周辺には大きな敵はいない」
少女の膝が、微かに震えていた。
立っているのがやっとという様子だった。
「LVR、いくつだ」
聖夜が聞くと、少女は目を伏せた。
「……三十二です」
「いつからここにいる」
「……昨日の朝から。動けなくて」
一人で一日、廃墟の陰に隠れていた。
LVR32は、警告ラインのすぐ上だ。
「一緒に来い。第三セーフポイントまで八キロある」
少女が顔を上げた。眼鏡の奥の目が、聖夜を見た。アメジストと銀白が混ざった、複雑な色の瞳だった。
「……なぜ、私を」
「見捨てる理由がない」
短く言った。
少女はしばらくその言葉を見つめるように黙っていた。
それから、静かに頷いた。
「……わかりました。真壁美羽、です」
「神酒聖夜。こっちはユリアと桐島だ」
四人になった。
――その音を、遠い場所の何かが聞き届けた。
◆◆◆
【3日目 午後】
【HP:68/100】【LVR:43】
【腐食の森番撃破】【美羽と合流】
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