第4話 死の森2日目・六本脚が喰らう
最初の突進が来た瞬間、聖夜は横に跳んだ。
間に合わなかった。
六本脚の右前肢が、聖夜の左脇腹を掠めた。布が裂け、皮膚が焼けるように痛んだ。吹き飛ばされて、地面を転がる。土の味が口に広がった。
(……速い)
昨日の獣とは次元が違う。あちらは読めた。こちらは読めない。
「左、来ます!」
桐島の声が飛んだ。
聖夜は即座に右に転がった。六本脚の左前肢が、さっきまで聖夜がいた地面を深く抉った。土が爆ぜた。石が飛んだ。
(……桐島の感知が通じてる)
ユリアが左から突っ込んだ。
剣先に凍気を集中させ、六本脚の胴体側面に突きを入れる。
白い光が走った。霜が張り付いた。でも浅い。毛皮が分厚すぎて、凍結が内部まで届いていない。
「……通りません」
ユリアが後退しながら言った。声は平静だったが、剣を持つ手が微かに震えていた。初めて見る震えだった。
「どこが薄い。目か、口か」
「……目です。でも、あの目に当てるには正面から行く必要があります」
「自殺行為だろ」
「はい」
六本脚が向き直った。黄色い単眼が、ユリアを捉えた。
「後ろ!」
桐島が叫んだ。
聖夜は振り返った。霧の中、別の影が動いていた。
小さい。六本脚の半分ほどの大きさ。でも、二頭いた。
(……群れだ)
親と子か、群れの先頭と後続か。どちらにせよ、正面の一頭に集中している場合ではなくなった。
「桐島、後ろの二頭から目を離すな。来たら声を出せ」
「でも私には戦う手段が──」
「声でいい。それだけでいい」
桐島が頷いた。両手を広げて目を閉じる。風を読んでいる。
◆
十分間の戦闘だった。
体感では一時間だった。
聖夜の右腕に爪が入った。深くはない。でも血が出た。
ユリアが六本脚の左眼を突いた。通った。凍気が目の内部に入り、獣が悲鳴を上げた。
でも、死ななかった。
「右眼が残っています」
「わかった。もう一回行けるか」
「……行きます」
ユリアの外套が半分以上なくなっていた。戦闘中に引き裂かれた。肩の鎧に傷が入っている。それでも彼女は前を向いた。
その時だった。
「後ろ、来ます。右後ろ。速い」
桐島の声が一段高くなった。
聖夜が振り返った瞬間、小さい方の一頭が桐島めがけて跳んだ。
桐島は動けなかった。両手を広げたまま、目を閉じたまま、硬直していた。
聖夜は走った。
間に合うかどうか、計算しなかった。ただ走った。
獣と桐島の間に滑り込んで、拾っていた太い枝を両手で構えた。
衝撃が来た。腕が痺れた。体ごと押し倒された。背中が地面を叩いた。
痛い。肺から空気が全部出た。
でも、桐島には当たっていない。
「……っ」
聖夜が起き上がろうとした瞬間、獣が上から覆いかぶさってきた。
牙が首元に向かう。
白い光が横から走った。
ユリアだ。親の方を放って飛んできた彼女が、子の後頭部に剣を突き立てた。
凍気が頭蓋に入る。獣が硬直した。そのまま横に倒れた。
もう一頭の子が逃げた。霧の中に消えた。
残ったのは、右眼だけになった親の六本脚と、三人だった。
◆
「桐島、右側に大きな木があるか」
「……あります。二十メートル先」
「走れ。あの木の陰に入れ。出てくるな」
「でも──」
「頼む」
聖夜の声が低かった。
桐島が何か言おうとして、やめた。走った。
二人になった。
「……作戦は」
ユリアが聞いた。
「右眼を潰す。左眼は死んでる。右眼を塞げば、あいつは何も見えなくなる」
「どうやって正面に立つか、という問題が残ります」
「俺が囮になる。お前が横から右眼を狙え」
「あなたが囮になれば、正面から踏み潰されます」
「踏まれる前に跳ぶ」
「根拠は?」
「……勘だ」
ユリアが少し間を置いた。
「わかりました」
彼女はそれだけ言った。
◆
六本脚が動いた。
残った右眼が聖夜を捉えた。
聖夜は正面に立った。逃げなかった。動かなかった。
獣が突進してきた。
聖夜は最後の一瞬まで待った。
(……今)
真横に跳んだ。六本の脚が聖夜の真上を通過した。風圧で体が押された。地面スレスレだった。
ユリアが右から飛んだ。
剣先に今日一番の凍気を集中させた。白い光が一点に絞られ、六本脚の右眼に深く突き刺さった。
獣が絶叫した。
聖夜はそのまま転がって距離を取った。六本脚がめちゃくちゃに暴れている。両眼を失った獣が、地面を叩き、木をなぎ倒し、方向を失って走り回る。
三十秒。
それから、脚がもつれた。
六本の脚が絡まり、巨体が地面に倒れた。
音が消えた。
◆
聖夜はその場に座り込んだ。
右腕が痛い。脇腹が痛い。背中が痛い。全部同時に痛い。
でも、それより息ができなかった。肺が空気を入れるのを忘れていたみたいだった。
ユリアが隣に座った。
膝をついて、聖夜の右腕を確認した。傷口に手を当てる。冷たい手だった。
「……深くはないです」
「そうか」
「でも、縫う必要があります」
「縫えるのか」
「……やってみます」
木の陰から桐島が出てきた。
顔が青かった。足元がふらついていた。聖夜の隣に崩れるように座った。
「……守ってくれたんですね」
「たまたまだ」
「嘘つかないでください」
桐島の声が震えていた。
「……私、足手まといでした。感知が最後、遅れました。あなたが飛び込んでくれなかったら」
「遅れてない。間に合った」
「でも──」
「間に合ったから、俺は生きてる。それだけだ」
桐島が黙った。
しばらく、三人とも何も言わなかった。
【HP:61/100】【LVR:57】
HPが大きく削れていた。LVRも少し落ちた。共闘の上昇分と減衰が相殺されている。
残り距離は約十六キロ。制限時間まで一日と十五時間。
(……行ける。でもギリギリだ)
◆
傷の処置をしながら、桐島が言った。
「……聞いていいですか」
「何を」
「あなたは、なぜそこまでするんですか。俺たちのこと、他人なのに」
聖夜はしばらく黙った。
ユリアが腕に布を巻く手を止めずに聞いている。
「……わからん」
「わからない?」
「合理的な理由はない。見捨てた方が生き残る確率は上がる。でも、できなかった。それだけだ」
「それって、弱さじゃないですか」
「そうかもしれない」
桐島が聖夜を見た。
「……弱さでいいんですか」
「弱さで死ぬなら、俺はそれでいい」
ユリアが布を縛った。きつく、でも丁寧に。
「……あなたは弱くありません」
彼女が静かに言った。
「弱い人間は、あの正面に立てません」
「勘で動いただけだ」
「勘で動ける人間が、弱いわけがありません」
桐島が、少しだけ笑った。
泣きそうな顔で笑った。
「……私、明日も一緒に行っていいですか」
「来るな、とは言ってない」
◆
夜になった。
三人で木の根元に寄り添って座った。
焚き火は作れなかった。煙で位置がバレる。暗闇の中、互いの体温だけが頼りだった。
桐島がいつの間にか眠っていた。疲弊しきって、そのまま落ちた。
ユリアが聖夜に寄り添った。
昨夜と同じ距離。いつの間にかそれが自然になっていた。
「……今日、怖かったか」
「はい」
「どの部分が」
「……あなたが正面に立った瞬間です」
ユリアが膝の上に手を置いた。
「私が右眼を狙うより早く動いていたら、間に合いませんでした。あの瞬間、全部が止まって見えました」
「止まって見えた?」
「……そうなると聞いたことがあります。感情が限界を超えると、時間の感覚が変わると。私には感情がないと思っていたのに、あの瞬間だけ、全部が遅くなった」
聖夜は空を見上げた。
格子状の木の枝の向こうに、赤黒い空が広がっている。星はない。本物の空じゃないから。
「……桐島が言ってたな。この空、嫌いだって」
「本物じゃないから、ですね」
「お前は?」
ユリアが少し考えた。
「私には比べる本物の空の記憶がありません。だから、これが普通です」
「……それは、寂しくないのか」
「寂しい、という感情がどういうものか、まだよくわかりません」
彼女は聖夜を見た。
「でも、あなたがそう言うなら、少し寂しいのかもしれません」
聖夜は何も言えなかった。
ユリアの言葉は毎回そうだった。感傷がなく、事実として言う。だから逆に、刺さる。
「……お前、記憶が戻ったら、ここを出ていくのか」
聞いてから、余計なことを言ったと思った。
ユリアは少し間を置いた。
「……覚えていますか。私が最初に言ったことを」
「死ぬな、か」
「その前です。あなたを守るために、ここにいると言いました」
「覚えてる」
「あれは命令ではありません。私が選んだことです。記憶が戻っても、その選択は私のものです。誰にも変えられません」
聖夜は、ユリアの横顔を見た。
赤黒い空の下、銀白の髪が暗闇の中でわずかに光っている。
「……お前、そういうことをさらっと言うな」
「事実を言っています」
「事実でも、さらっと言いすぎだ」
ユリアが少しだけ首を傾けた。
「……照れているんですか」
「違う」
「顔が赤いですが」
「暗くて見えないだろ」
「私には見えます」
◆
夜中に一度、遠くで獣の声がした。
近づかなかった。
明け方、聖夜は浅い眠りから目を覚ました。
【HP:68/100】【LVR:46】
HP回復。LVRは夜の間に11減った。予想通りのペースだ。
桐島がすでに起きていた。両手を広げて目を閉じている。夜明けの風を読んでいる。
「……今日の風、湿気が増してます。霧が濃くなりそうです」
「獣は」
「半径三十メートルには今はいません。でも遠くに複数、巡回している気配があります。パターンがあると思います。通れる隙間が見つかるかもしれない」
聖夜は立ち上がった。右腕を動かしてみた。痛いが、使えない痛みではない。
「桐島の感知でモンスターを避けながら進む。戦闘は極力避ける」
桐島が頷いた。
「……できます。やります」
◆
三人で歩き始めた。
桐島が先頭で風を読み、獣の気配を察知するたびに右か左かを指示した。
昨日まで力任せに進んでいたルートが、まるで別の道になった。静かだった。霧の中を、透明になったみたいに動けた。
五キロ進んだ頃、桐島が立ち止まった。
「……正面、十メートル。複数います。動いていない。巣だと思います」
「迂回できるか」
「三キロ以上かかります」
聖夜は迷わなかった。
「迂回する」
三キロ余計に歩いた。その間、一度も戦闘が起きなかった。桐島の感知が完璧に機能していた。
◆
昼過ぎに、前方に光が見えた。
霧の向こうに、白い壁がある。
次のセーフポイントの外壁だった。
「……見えました」
桐島の声に、珍しく感情が乗っていた。
三人で最後の坂を登った。扉の前に、すでに何人かのプレイヤーが集まっていた。
セーフポイントに入った瞬間、機械音声が響いた。
『第二セーフポイント到達者:現在まで八十七名。残り制限時間まで六時間』
二百人いたはずの参加者が、八十七人になっていた。
「……百十三人」
桐島が小声で言った。
「二日間で、百十三人」
聖夜は何も言えなかった。
それが答えだった。
――どこか遠い場所で、何かが静かに見ていた。
◆◆◆
【3日目 昼】
【HP:68/100】【LVR:46】
【第二セーフポイント到達】【生存者:87名】
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