第3話 死の森2日目・生き残り方の違い
二日目の朝は、霧が深かった。
木々の輪郭がぼやけ、十メートル先が白一色に溶けている。
地面は夜露で湿り、踏み出すたびに靴底が土に吸い付く感触があった。腐葉の臭いと、朝の冷気が鼻の奥を刺す。
【HP:82/100】【LVR:74】
一夜でLVRが13削れていた。
睡眠中も減衰は止まらない。一般プレイヤーより倍速で、容赦なく。
ユリアは聖夜の半歩前を歩いていた。
昨夜と同じ位置。盾の場所。
「……眠れたか」
「少し」
「嘘つくな」
「……少し、です」
彼女の外套の裾が、昨日より短い。
聖夜の傷の手当てに使った分だ。聖夜が気づいていることに、ユリアは気づいていない。
◆
遭遇したのは、歩き始めて四十分後だった。
人の声が聞こえた。
一人ではない。複数。霧の中から、言い争うような声が届いてくる。
聖夜はユリアと視線を交わした。
ユリアが先に動いた。剣には手をかけず、ただ音を殺して近づく。
木の陰から覗くと、開けた場所に六人のグループがいた。
男四人、女二人。全員、装備は一日経って傷んでいる。でも、誰もケガはしていなかった。
「だから言ってるだろ、キスくらいしとけよ!LVRが落ちたら全員終わりだって!」
「あたしはあんたとそういう関係じゃない!」
「関係とか言ってる場合か、ゲームの話だ!」
「ゲームでも嫌なもんは嫌!」
男が声を荒らげた。女が一歩引いた。
グループの残りの四人は、それを黙って見ていた。仲裁しようとする者はいない。
聖夜は木の陰でそれを見ていた。
(……LVRが切迫してる。だからあいつは焦ってる)
計算は理解できた。感情はついてこなかった。
「……行きますか」
ユリアが小声で言った。
通り過ぎるという意味だ。
「……少し待て」
聖夜は動かなかった。
グループの中で、一人の少女が端に座っていた。
言い争いには加わっていない。膝を抱えて、俯いている。
服の袖が長くて、手が見えない。でも、その肩が微かに震えていた。
「……あの子、LVRヤバいんじゃないか」
「……そうかもしれません」
「一人で抱えてる顔だ」
「……見ます」
◆
聖夜が木の陰から出ると、グループが一斉に振り向いた。
言い争いが止まった。警戒の目が向いてくる。
「……誰だ」
「通りすがりだ。喧嘩してるなら、声が遠くまで届く。モンスターに知らせてるのと同じだぞ」
男が黙った。
正論だった。言い返す言葉がない。
聖夜はグループ全体を見渡してから、端に座っている少女に目を向けた。
「……お前、LVRいくつだ」
少女が顔を上げた。二十歳前後に見える。目が赤い。泣いていたか、眠れなかったか、どちらかだ。
「……三十一」
声が掠れていた。
グループの男が、驚いた顔をした。
たぶん、知らなかった。彼女がそこまで追い詰まっているとは。
「警告、出てるか」
「……さっき、出ました」
【LVR WARNING:30以下です。強制排除まで残り僅かです】
聖夜は一度、ユリアを見た。
ユリアが微かに頷いた。
「俺たちと組め。一緒に動けばLVRは稼げる。共闘でも上がる」
「……でも、あんたたちには関係ない話だろ」
男の一人が言った。警戒ではなく、純粋な疑問に聞こえた。
「関係ないな。でも見過ごせない」
聖夜は短く言った。
それだけだった。
◆
少女の名前は桐島、と言った。
スキルは風系の補助魔法。戦闘には向いていないが、周囲の気流の変化を感知できる。
モンスターが近づく前に、風の乱れで察知できるらしい。
「……それ、かなり使える」
「でも誰も必要としてくれなかった。直接攻撃できないから、って」
桐島は自分の手を見ながら言った。声に棘はなかった。ただ、事実として言っていた。
「俺も攻撃スキルはない。ユリアが戦う。俺は判断と位置取りをする」
「……そうなんですか」
「役割は違っても、機能すれば同じだ」
ユリアが桐島の隣に立った。
「私の感知範囲は視覚依存です。霧が深いと精度が落ちる。あなたの風の感知があれば、補完できます」
「……私の、感知が?」
「はい。使えます」
桐島が、初めて少し顔を上げた。
◆
元のグループの男たちは、結局ついてこなかった。
一人が「俺たちは俺たちでやる」と言い、残りも同じ顔をした。
聖夜は止めなかった。止める権利がない。
三人で歩き始めた。
桐島が前に出て、両手を軽く広げる。目を閉じている。
「……左前、五十メートルくらいに何かいます。小さい。複数」
「群れか」
「……十匹以上、だと思います」
ユリアが剣を抜く。聖夜は太い枝を拾って構えた。
「迂回できる?」
「右に回れば、たぶん」
「行こう」
三人で右に逸れた。
五分後、聖夜たちが通り過ぎた左前の方向から、甲高い鳴き声と何かが倒れる音がした。
別の誰かが、その群れに当たったらしい。
桐島が振り向いた。
「……助けなくていいんですか」
「声聞こえてないか?」
「……します」
「なら、生きてる。生きてるなら、俺たちが突っ込むより向こうが自力で抜けるほうが早い。俺たちが行けば戦力分散するだけだ」
桐島は少し黙った。それから、また前を向いた。
「……そうですね」
「全員を助けようとすると、全員沈む。ゲームだから言えることだけどな」
「ゲームじゃないですよ、これ」
「……そうだな」
聖夜は前を向いた。
◆
昼を過ぎた頃、川に出た。
幅は十メートルほど。深さはわからない。水は茶色く濁っていて、底が見えない。
流れは穏やかだが、飛び石になるような岩はない。
「渡れるか」
「……わかりません」
桐島が水面に手をかざした。
「流れの強さは、膝くらいまでなら立てると思います。でも底の状態が読めない」
「ユリア」
「泳げます」
「聞いてない」
「失礼しました。底の感触を確認してから、お二人を誘導します」
ユリアが川に入った。
冷たいはずだが、表情は変わらない。ゆっくり進んで、中央で立ち止まった。
「膝下です。底は砂地、安定しています」
聖夜が続いた。
水が冷たい。靴の中まで染み込んでくる。それでも足はしっかり底に着いた。
桐島が最後に渡った。
途中、一度だけよろけた。聖夜が手を伸ばした。桐島が掴んだ。
対岸に三人で出た。
「……ありがとう、ございます」
「ドジ踏んだのはお互い様だ」
「私はドジ踏んでないんですが」
ユリアがそう言った。
聖夜は少し笑った。
◆
午後、歩きながら桐島が聞いてきた。
「……あの二人、LVRどうやって稼いだんですか」
「俺と、ユリアで」
「具体的に何したんですか」
聖夜は少し黙った。
「……手を握った」
「それだけで?」
「感情が本物だったから、らしい」
桐島がユリアを見た。ユリアは前を向いたまま答えた。
「契約しました。システムの要請ではなく、私が選んで」
「……そういうのって、どうやって決めるんですか。デスゲームで会って一日で、って」
「決めた理由はひとつです。彼のそばにいると、霧がかかっていた記憶が少しずつ晴れる感覚があります」
「記憶が?」
「私には、ここに来る前の記憶がありません。でも、彼と話すと、自分が何のためにここにいるか、少しわかる気がします」
桐島は少し黙った。
「……それって、恋愛感情なんですか」
「わかりません。でも、嘘ではありません」
聖夜は前を向いたまま、耳だけで聞いていた。
ユリアがそれをこんなふうに他人に説明するのを、初めて聞いた。
「……羨ましいです」
桐島が小声で言った。
「私、誰かとそういう話したことなかったから。リアルでも、VRでも」
「なぜここに来たんですか」
「大会の告知見て。賞金で、妹の手術代に、って思って」
静かな声だった。
言い訳のような、でも事実だけを言っているような声だった。
「……妹がいるのか」
「います。現実に。VRカプセルに入る前に、電話したんですけど、つながらなくて」
桐島は空を見上げた。赤黒い空が広がっている。
「……この空、嫌いです。本物の空じゃないみたいで」
「本物じゃない」
「でも、外には出られない」
「今は」
「……今は、か」
聖夜はそれだけ言った。
桐島が少し、表情を緩めた。
◆
夕方になって、霧が少し晴れた。
木々の隙間から、赤黒い空が見えた。
相変わらず、ゲームのステージの天井みたいに均一な色だ。
三人は木の根元に腰を下ろした。
【HP:78/100】【LVR:61】
一日でLVR13減。
昨日の戦闘と感情の積み上げで上昇分を稼いでいるが、消費も続いている。
あと何日、このペースで保つか。
「……LVRって、稼ぎ方が難しいですね」
桐島が膝を抱えながら言った。
「難しいか?」
「計算でやろうとすると、全然上がらなかった。嫌いな人とキスしても5くらいで。なんで自分だけ、って思ってました」
「システムが見てるんだよ、感情を」
「……なんでそれ知ってるんですか」
「ユリアが教えてくれた」
桐島がユリアを見た。ユリアは静かに返した。
「感情の深さで倍率が変わります。計算だと低い。本物だと高い。それだけです」
「本物って、どうやって証明するんですか」
「証明しなくていいんだと思います。証明しようとすること自体が、計算だから」
桐島は少し黙って、それから言った。
「……難しいですね」
「難しいです」
ユリアが答えた。
珍しく、同意するように。
◆
夜が来る前に、音が聞こえた。
桐島が先に気づいた。両手を広げて、目を閉じる。
その表情が、今朝とは別物になっていた。研ぎ澄まされた集中の顔だ。
「……来ます。真正面。大きい。一頭だけ」
「一頭でも大きいのはまずい」
「……普通のよりずっと大きいです。風の乱れ方が全然違う。まるで、周りの空気が押しのけられているみたいな」
聖夜とユリアは顔を見合わせた。
「ボスクラスか」
「……わかりません。でも、今まで感じたことのない気配です」
霧の向こうで、木が折れる音がした。
一本ではない。連続して。何かが真っ直ぐこちらに向かって、木をなぎ倒しながら来ている。
地面が、微かに揺れた。
足の裏から振動が上がってくる。心臓の鼓動と混ざって、どちらがどちらかわからなくなる。
「……ユリア」
「わかっています」
「逃げるか、戦うか」
「逃げた場合、追いつかれる可能性があります。足音からして、速い」
「戦えるか」
「……わかりません。でも、戦わなければどちらにせよ終わります」
ユリアが剣を抜いた。
白い刃が夕刻の光を受けて光る。凍気が集まり始めた。空気の温度が一段下がった。
「桐島、後ろに下がれ」
「でも、私も──」
「感知が必要だ。戦闘中も方向を教えてくれ。それが一番役に立つ」
桐島が頷いた。一歩、二歩と後退する。
聖夜は枝を構えた。
腕の内側が、わずかに熱を持った気がした。昨夜の契約の後から、ふとした瞬間に感じる熱さ。
体の底に、何かが眠っている。まだ全部は出ていない。
(……来い)
霧が割れた。
巨大な影が、木々の向こうから姿を現した。
黒。全身が漆黒の毛に覆われている。
高さは聖夜の頭二つ分以上。六本の脚が地面に食い込んでいる。
顔の中央に、目が一つだけあった。黄色い、大きな目が。
その目が、ゆっくりと聖夜を見た。
臭いが来た。
腐敗と、鉄錆が混ざったような重い臭いだった。昨日の獣より何倍も濃い。鼻の奥が焼けるように痛んだ。
「……なんだ、あれ」
「第一層のボスクラスではないはずです」
ユリアが静かに言った。声は落ち着いていた。でも、剣を持つ手に力が入っているのが見えた。
「でも、それに近い何かです。私の氷結が通るかどうか、わかりません」
「通らなかったら?」
「……考えます」
「考えてから言ってくれ」
「時間がありません」
一瞬の沈黙。
それから、六本の脚が地面を蹴った。
地鳴りのような音とともに、黒い塊が突進してきた。
――その音を、遠い場所の何かが聞き届けた。
◆◆◆
【2日目 夕刻】
【HP:78/100】【LVR:61】
【残り距離:約18km】【制限時間:残り1日と18時間】
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