第2話 死の森1日目・爪が喰らう夜
セーフエリアの扉が、重い音を立てて閉じた。
石と金属が噛み合う音。まるで棺桶の蓋が降りるみたいだった。
扉の向こうからは、まだ声が聞こえていた。
助けを求める声。悲鳴。何かが引き裂かれる音。
それから、何も聞こえなくなった。
「……何人、入れなかった?」
誰かがそう呟いた。
誰も答えなかった。
聖夜は石造りの壁に背中を預け、右肩に手を当てた。
服の下、皮膚が裂けた部分がじくじくと疼く。VRのはずなのに、痛みはリアルだった。指先が濡れている。血だ。
(……本物の血が出るゲーム、なんて聞いてないぞ)
横で、ユリアが静かに立っていた。
乱れた様子は一切ない。銀白の髪が薄明かりの中でわずかに光り、アイスブルーの瞳が聖夜の傷口を真っ直ぐ見ていた。
「……手当てをします」
彼女はそう言って、自分の外套の端を短剣でスパッと切り取った。
断りも、確認もない。当たり前のことをする顔だった。
「あ、いや、別に大したことは……」
「大したことがあります」
ユリアの手が聖夜の肩を掴む。力強い。騎士の手だ。
布を傷口に押し当てながら、彼女は淡々と言った。
「傷を甘く見る人間から死にます。ここは、ゲームではありません」
(……わかってる。わかってるけど)
聖夜は何も言えなかった。
セーフエリアの中は、じわじわと静かになっていった。
二百人のプレイヤーが、思い思いに壁に寄りかかり、膝を抱え、泣いている者もいた。
誰も会話しようとしない。ここに来るまでに、すでに何かを削り取られていた。
◆
夜が来た。
セーフエリアに窓はなかったが、天井の小さな格子から外の気配は伝わってくる。
森が、動いている。
葉の擦れる音。遠くで何かが走り回る音。一度だけ、人間のような悲鳴が聞こえた。
それも、すぐに途切れた。
聖夜は眠れなかった。
隣でユリアが壁に背を預け、目を閉じていた。眠っているのか、警戒しているのか判断がつかない。
(なんで俺の隣に居座ってるんだ、この子は)
不満ではなかった。ただ不思議だった。
ここで出会ったばかりの他人が、なぜ当然のように隣に座っているのか。
「……眠れないんですか」
ユリアが目を閉じたまま言った。
「……わかるのか」
「呼吸のリズムが起きている人間のそれです」
聖夜は少し黙って、それから言った。
「お前こそ、なんで俺の隣なんだ。別の人間と組んだほうが安全だろ。スキルだって……俺のは使えない」
「あなたのスキルの話を、私はしていません」
ユリアがゆっくり目を開けた。
薄暗い中でも、その瞳の色は澄んでいた。水底みたいな、冷たくて深い青。
「命令ではありません。選択です。私はあなたの隣を選びました」
「……理由は」
「わかりません」
短く、それだけ言って、また目を閉じた。
それ以上でも以下でもない答えだった。
聖夜はため息をついて、天井の格子を見上げた。
【HP:87/100】【LVR:4】
視界の端に浮かぶ数字を見て、胃が重くなる。
LVR4。ユリアが隣にいることで少し上がったらしい値。
あと4を失ったら、ゼロになる。そうなれば……
(考えるな。今は、朝まで生き延びることだけ)
◆
夜明け前、まだ薄暗い時間帯に動き出したのは聖夜とユリアだけではなかった。
七、八人のグループが、声を潜めながら相談している。
「聞いたか。ルールにもう一個、細則があったらしい」
「何が」
「LVRの時間減衰だよ。一時間ごとに勝手に下がっていく設計らしい。初期値の低い奴は、一晩寝てるだけで消えるかもしれない」
聖夜の耳が止まった。
「……本当か、それ」
「さっき別のプレイヤーから聞いた。システム上で確認したって」
聖夜はすぐに自分の視界を確認した。
確かに。LVR4が、さっきより3になっていた。
(……一時間で一減る?)
計算が一瞬で脳内に走る。今の値は3。朝まで何もしなければ、三時間で消える。
「ユリア」
声をかけると、彼女はすでに起きていた。
目が合う。彼女も聞いていたらしく、表情は変わらないが、視線の中に温度の変化があった。
「わかっています」
「……どうする?」
「戦います。生きます」
答えはそれだけだった。
◆
夜明けと同時に、扉が開いた。
機械音声が告げる。
『皆様へのご連絡です。セーフエリアの保護は解除されます。次のセーフポイントまでの距離は約三十キロ。到達期限は三日後の正午。時間内に到達できなかった方は、恋愛値の状態にかかわらず強制排除となります』
三十キロ。三日。
さらに、LVRは減り続ける。
「……マジか、このゲーム」
誰かが呟いた声が、聖夜の気持ちの代弁だった。
外に出ると、森は朝霧に包まれていた。
昨夜より明るいが、視界は十五メートルほどしかない。木々の間に、何かの気配がある。
地面に足跡があった。人間のものではない。爪の跡が、土に深く刻まれていた。
「……でかい」
聖夜が思わず声に出すと、ユリアが足跡の前にしゃがんだ。
指先でそっとなぞる。
「四本爪。昨夜から動いていたモンスターです。牙狼より一回り大きい。群れで動く習性がある」
「よく知ってるな」
「……知っています。なぜかは、わかりません」
また、その答えだった。
聖夜はそれ以上聞かなかった。
◆
最初の死闘が始まったのは、それから二十分後だった。
前を歩いていたグループが、突然悲鳴を上げた。
霧の中から飛び出してきたのは、確かに大きかった。
牙狼よりも頭ひとつ分は上背がある、黒灰色の獣。四本の脚のそれぞれに三本ずつの爪があり、地面を蹴るたびに土が削れた。
臭いが来る。獣臭と、腐った肉の混ざった重い臭い。鼻の奥が痛くなるほどだった。
グループの一人が吹き飛ばされた。
壁みたいな胴体に弾かれ、木の幹に背中から叩きつけられる。
音がした。嫌な音だった。
「っ……!」
聖夜は走る前に足が動いていた。
本能的に、体が勝手に前に出た。
なんのスキルもない。武器もない。ただ、何かをしなければと思った。
石を拾って投げた。当たった。獣の頭に当たり、注意が向いた。
黄色い目が、聖夜を見た。
(あ、やばい)
獣が飛び掛かってきた。
同時に、左から白い光が走った。
氷の剣先が獣の右肩に刺さる。
ユリアだ。音もなく飛び出してきた彼女が、突きを一閃していた。
凍結が走る。獣の毛皮に霜が張り、動きが一瞬止まった。
「右側、逃げてください」
ユリアの声は静かだった。指示、というより確認のような口調だった。
聖夜は右に跳んだ。
ユリアが続いて離脱する。獣が凍結から回復し、地面を引っ掻いた。爪が石をえぐり、火花が散った。
距離が開く。獣は追いかけてこなかった。霧の中でしばらく唸り声を上げたあと、別の方向へ消えた。
聖夜は膝に手をついて、息を整えた。
心臓が口から出そうだった。膝が震えている。
「……さっきの石投げ」
ユリアが隣に立ちながら言った。
「無謀です」
「わかってる」
「でも……助かりました」
小さな声だった。
ユリアの声がこんなに小さくなるのを、聖夜は初めて聞いた。
【HP:79/100】【LVR:3 → 5】
LVRが上がっていた。
共闘。一緒に戦ったことで、何かが動いた。
(これが、システムってことか)
聖夜の胸に、複雑な感情が溜まった。
本物の恐怖で、本物の血が出て、本物の震えがある。なのに、その中で「恋愛値」だけが勝手に動いている。
これを、誰かが見ている。
(……笑ってるんだろうな、上のほうで)
◆
吹き飛ばされた男のプレイヤーは死んでいた。
木の根元で、うつぶせに倒れていた。
出血は少ない。VRの死体は、現実のそれより静かだった。でも、消えなかった。ゲームなら消えるはずなのに、残っていた。
グループの仲間らしき少女が、その傍らで泣いていた。
声を殺して、膝をついて。
聖夜は何も言えなかった。
慰める言葉が出てこなかった。何を言っても嘘になる気がした。
ユリアだけが、静かにその場に立ち止まった。
「……行けますか」
泣いている少女に向かって言った。言葉に感傷はない。でも、切り捨てでもない。
ただ、事実として問いかけていた。
少女は顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃの顔で、それでも頷いた。
「……行きます」
「では、私たちについてきてください。一人よりは安全です」
ユリアはそれだけ言って歩き出した。
少女が立ち上がって、後をついてきた。
聖夜はユリアの隣に並んだ。小声で言った。
「……いいのか、連れて行って」
「駄目な理由がありません」
「荷物になるかもしれない」
「あなたも私も、今日の昼まで荷物でした」
反論できなかった。
◆
三人になった。
少女の名前はアン、と言った。スキルは探知系の初歩。戦闘力は低い。でも、静かで、足は速かった。
「……あの、ありがとうございます」とだけ言って、それ以後はほとんど喋らなかった。
霧の中を三人で進む。
地面の爪跡を確認しながら、獣の通り道を避けて、ゆっくり確実に歩く。
二時間ほど歩いた頃、視界の端に光が見えた。
「……何かいる」
アンが小声で言った。
探知スキルの反応らしい。人間だ、と彼女は言った。
茂みの向こうに、男が一人いた。
大柄で、装備は壊れかけている。膝から崩れ落ちていた。出血はしていないが、顔が白い。
(LVRが……やばいのか)
見なくてもわかった。
男の表情が、それを語っていた。
「……頼む、誰か……」
声が震えていた。
聖夜は止まった。
助けに行けば時間を使う。自分のLVRも消耗している。合理的に考えれば、通り過ぎるべきだ。
でも、足が動かなかった。
「……行くのか」
ユリアが聞いた。責めているのではない。確認だ。
「……行く」
「ならば、一緒に行きます」
◆
男の名前は関係なかった。
彼のLVR残量は2だった。一人で逃げてきた。パートナーになり得る相手は全員、霧の中で消えたと言った。
「……俺、このまま消えるのか」
男の目に、諦めがあった。
聖夜はそれが嫌だった。理由はわからなかった。
「俺たちについてこい」
「え」
「LVRは、共闘でも少し上がる。戦えなくてもいい。三人で動いて、どこかで稼ぐ方法を考える」
男は黙っていた。しばらく、何も言わなかった。
「……なんで、俺を」
「……わからん。でも、俺が見捨てたくないだけだ」
それだけ言った。
男は涙をこぼした。泣くつもりじゃなかったのだろう、手で顔を覆った。
「……ありがとう……っ」
四人になった。
◆
その日の夜、また別の獣に遭遇した。
今度は二頭。同時に来た。
ユリアが前に出る。氷の突きが一頭の脚を止める。
聖夜は大きな石を構えた。投げるためではなく、盾にするために。
アンが探知で次の動きを先読みして、声で知らせた。
男は木の陰に隠れて、出口を確保した。
役割分担など決めていなかった。でも、自然にそうなった。
一頭が聖夜の右腕に爪を掠めた。
布が裂け、皮膚に一本の線が走った。熱い。じくじくと、すぐに痛くなってくる。
「っ……!」
「離れないでください」
ユリアの声が右耳で響いた。すぐ隣にいた。
彼女が二頭目の急所に突きを当てる。凍結が走り、獣が悲鳴を上げる。
逃げた。
今日も生き残った。
◆
夜、焚き火を囲んで、四人が黙って座っていた。
【HP:71/100】【LVR:7】
LVRが少し上がっていた。
数字が動くたびに、聖夜はどこか複雑な気持ちになった。
(こんなふうに上がっていくのか。生き延びることと、誰かと繋がることが、同じ意味になってる世界か)
ユリアが聖夜の右腕に布を巻いた。昨日と同じように、外套の端を切ったものだ。
外套がだんだん短くなっていく。
「……外套、なくなるぞ」
「なくなる前に傷が治ればいいことです」
「……そうかよ」
炎が揺れた。
ユリアの銀白の髪が、火の光で少しだけ暖かい色に見えた。
アイスブルーの瞳が、炎を映して揺れている。
(こいつは、何者なんだろう)
聖夜はまだ、それを聞けていなかった。
「……聞いてもいいか」
「はい」
「お前は、何のためにここに来た? このゲームに、最初から入ってたのか?」
ユリアはしばらく黙った。
炎を見ていた。
「……覚えていません」
「え」
「起動した時から、ここにいました。前の記憶が、ひどく曖昧なんです。何かを、任されていたような気がしますが……それが何かが、わかりません」
彼女は指先を見た。
ゆっくりと、手のひらを閉じて、開いた。
「でも、あなたに会った時だけ、霧が少し晴れる感覚がありました」
「……俺に?」
「はい。あなたのそばにいると、何かを思い出しそうな気がします」
聖夜は何も言えなかった。
ユリアの言葉は感傷的ではなく、報告のように淡々としていた。だから逆に、リアルだった。
そういえば。
第一話でユリアに会った瞬間、彼女の目が一瞬だけ揺れた。まるで何かを認識したみたいに。あれは何だったのか。
(……まあいい。今は、それより)
「明日も、一緒に歩くか」
聖夜がそう言うと、ユリアは少しの間を置いて、答えた。
「……命令があるわけではありません」
「わかってる」
「でも、選びます。あなたの隣を」
炎が揺れた。
森の奥で、獣の遠吠えが聞こえた。三十キロの道のりは、まだ始まったばかりだ。
――どこか遠い場所で、何かが静かに見ていた。
◆◆◆
【1日目終了】
【HP:71/100】【LVR:7】
【残り距離:約26km】【制限時間:残り2日と15時間】
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