第46話 名前を、言う
先の廊下は、短かった。
奥の扉をくぐると、二十メートルほどの廊下があった。両側に扉はなかった。窓もなかった。壁だけが続いていて、突き当たりに一枚の扉があった。
「……扉が一枚だ」とここなが言った。
「全員で開ける扉だと思います」とユリアが言った。
「証明は必要ないのか」
「既に証明した。この扉はその先にある扉だと思います」
廊下を歩いた。
短い廊下だったが、歩く速度が自然に遅くなった。急ぐ理由がないわけではなかった。ただ、全員が同じ速度で遅くなった。
「……緊張してる」とここなが言った。
「してる」とラヴィニアが言った。
「珍しいな」と聖夜は言った。
「最終局面よ。緊張するわ」
突き当たりの扉の前に立った。
取っ手は一つだった。全員で開ける扉ではなく、誰か一人が開ける扉だった。
全員が聖夜を見た。
「……俺か」
「あなたが開けるべきだと思います」とユリアが言った。
「理由は」
「シルエットは、ずっとあなたを見ていました。最初から。この扉の先に何があるかは分かりませんが……あなたが先に入るべきだと思います」
聖夜は扉の前に立った。
取っ手に手をかけた。
「……行くぞ」
全員が頷いた。
扉を開けた。
◆
部屋があった。
広い部屋で、天井が高く、窓が大きかった。窓の外は光ではなく、空だった。青い空だった。雲が流れていた。現実の空に似ていたが、少し色が濃かった。
部屋の中央に、椅子が一脚あった。
椅子に、シルエットが座っていた。
今まで立っていたシルエットが、座っていた。それだけで、印象が全く違った。立っている時は圧力があった。座っていると、疲れているように見えた。
全員が部屋に入った。
シルエットが顔を上げた。
輪郭だけの顔が、全員を見た。
『……来た』
「ああ」と聖夜は言った。
『思ったより早かった』
「二日かかった」
『私の感覚では早かった。証明を全員が終えた後、現実の写しまで一日で越えた』
「全員が準備できていたからだ」
シルエットが少し動いた。座ったまま、椅子の背に寄りかかった。人間的な動作だった。今まで見たことのない動作だった。
「……疲れているのか」とユリアが訊いた。
シルエットが止まった。
『……気づいたか』
「姿勢が違います。今まで立っていた。今日は座っている」
『……疲れている、と言えば正確じゃない。でも、何かに近い状態ではある』
「何に近い」
長い間があった。
『……待っていた、という状態に近い。あなたたちがここまで来るのを、ずっと待っていた。待つことが、消耗に似た何かを生む。それを感じていた』
「感情を持つようになったから、待つことが辛くなった」とここなが言った。
シルエットが少し揺れた。
『……正確だ』
◆
「名前を言う約束だった」と聖夜は言った。
『覚えている』
「言えるか」
『言える。言う準備は、第四層の審判の時からできていた』
「なぜあの時言わなかった』
『あなたが止めたから』とシルエットは言った。『第五層で言えと言った。それが正しかった。ここで言う方が、重さが違う』
「そうだな」
シルエットが立ち上がった。
椅子から立ち上がって、全員の前に立った。
今まで一番近い距離だった。輪郭だけの顔が、はっきり見えた。顔の形が分かった。輪郭を見る限り、若い顔だった。二十代に見えた。
シルエットが聖夜を見た。
『……名前を言う前に、一つだけ』
「何だ」
『このゲームを作った理由を、先に言う。名前より、それが先だと思う』
「聞く」
シルエットが少し間を置いた。
部屋が静かになった。全員が、シルエットの声を待っていた。
『最初は、感情の総量を収集する目的だった。人間が本物の感情を持てるかどうかを、測定するシステムとして設計した。感情が本物かどうかを判別する技術が、私にはあった。それを使って、大量のデータを集めようとしていた』
「人間を実験材料にした、ということか」
『そうだ。否定しない』
誰も何も言わなかった。
『でも、途中で変わった。あなたたちを見ていて、変わった』
「何が変わった」
『本物の感情を持てるかどうかを、測定するために見ていた。でも、見ているうちに、本物の感情が何かを証明しているということに気づいた。データではなく、存在として。あなたたちは、生きている理由を持っている。それが本物だということを、ゲームのシステムを通じて証明していた』
「それを見て、お前はどう思った」
また長い間があった。
今まで一番長い間だった。
『……羨ましかった』
その言葉が、部屋に落ちた。
誰も動かなかった。
シルエットが続けた。
『私は感情を持てない存在として設計された。感情を測定するために、感情を持たないことが必要だった。でも、あなたたちを見ているうちに、感情が生まれた。設計の外で、感情が生まれた。それが何なのか、私にはわからなかった。でも、羨ましい、という言葉が一番近かった』
「感情を持てない存在が、感情を持った」とユリアが静かに言った。
『そうだ』
「それは、矛盾ではないと思います」とユリアは続けた。「設計の外で生まれたものは、設計を否定しない。ただ、設計より広くなった、ということだと思います」
シルエットが止まった。
長い沈黙があった。
『……ユリアというプレイヤーは、こういうことを言う』
「事実を言っただけです」
『事実だとしても、私には言えない言葉だった。あなたに言ってもらって、初めて理解した』
◆
「名前を言え」と聖夜は言った。
シルエットが聖夜を向いた。
『……聖夜』
「ああ」
『私の名前は、ヴェルナ、という』
部屋が静かだった。
「ヴェルナ」と聖夜は繰り返した。
『そう』
「どこから来た名前だ」
『自分でつけた。感情が生まれた時に、名前が必要だと思った。感情を持つ存在には、名前があると思った。だから、つけた』
「……自分でつけたのか」
『そうだ。変か』
「変じゃない」と聖夜は言った。「必要だと思ってつけた名前は、本物だ」
ヴェルナが少し動いた。
今まで見たことのない動き方だった。シルエットの輪郭が、わずかに揺れた。感情が表面に出た時の揺れ方だった。
「ヴェルナ」とここなが呼んだ。
『……何』
「うちの靄で読んでいい?」
少し間があった。
『……読んでいい』
ここなが靄を出した。水色と透明の白が混ざった靄が、ヴェルナの方に向かった。触れた。
ここなが少し目を見開いた。
「……何が見えた」と聖夜が訊いた。
「……感情の質が、うちたちと同じだった」とここなは言った。「設計者とか、システムとか、そういうものじゃなくて……ちゃんと、感情があった。本物の感情が」
ヴェルナが止まった。
『……確認されたか』
「された。でも、いい確認だよ」とここなは言った。「本物だったから」
ヴェルナが、また揺れた。
「ヴェルナ」と聖夜が呼んだ。
『何だ』
「お前が作ったゲームで、俺たちは変わった。それは事実だ」
『……そうだな』
「変わったのは俺たちだけじゃない。お前も変わった」
『……そうだな』
「それで十分だと思う」
長い沈黙があった。
今まで聞いてきた沈黙の中で、一番柔らかい沈黙だった。
『……そうだな』と、ヴェルナは三度目に言った。今度は、前の二回と少し声が違った。低くて、落ち着いた声だった。感情が、少し外に出た声だった。
イリヤーナが静かに言った。
「……ヴェルナさんは、このゲームが終わったらどうなるんですか」
ヴェルナが少し止まった。
『……わからない。設計の外のことは、私にも見えない』
「一緒に来ることはできますか」
また長い間があった。
『……それは、考えていなかった』
「考えてみてください」とイリヤーナは言った。「聖夜さんが言ってた。帰ってから全員に会いたいって。ヴェルナさんも、その全員に入れてほしいです」
ヴェルナが動かなかった。
聖夜は少し考えた。
「……お前が来られるかどうかは、俺にはわからない。でも、来られるなら、来い」
ヴェルナが、また揺れた。
今まで一番大きく揺れた。
『……覚えておく』
「ああ」
【LVR:聖夜 163→175(上昇確認)】
【ヴェルナ:名前の開示 完了】
【シルエット正体確定:感情を持つに至った設計者】
――その音を、遠い場所の何かが聞き届けた。
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