第45話 兄の部屋と、返せなかった言葉
奥の扉を開けたのは、翌朝だった。
全員が揃って、両開きの扉の前に立った。取っ手が二つある。ユリアと聖夜が、それぞれ片方の取っ手に手をかけた。
「開けます」とユリアが言った。
「ああ」
同時に引いた。
扉が開いた。
その向こうは、廊下ではなかった。
広い空間があった。天井が高く、床が木だった。廊下の木とは違う、古びた木の色をしていた。壁に窓がいくつかあって、外から光が入っていた。今度は光だけではなく、外の景色が見えた。
曇り空だった。東京の、見覚えのある曇り空だった。
「……外が見える」とここなが言った。
「現実の空だ」と聖夜は言った。
全員が窓に近づいた。窓の外は確かに現実の景色だった。でも、音がなかった。車の音も、風の音も、人の声も、何もなかった。映像だけがあった。
「……写しだ」とユリアが言った。「現実の写し。本物の現実ではなく、現実を映したものです」
システム通知が来た。
【第五層:現実の写し 発動】
【各プレイヤーに、現実の記憶に関連した空間が展開されます】
【この空間は、各自に個別に見えています】
【他のプレイヤーには、あなたの空間は見えません】
「……個別に見える」とここなが読んだ。「全員に別々の空間が見えてる、ということか」
「そうだと思います」とユリアが言った。「今、私には何が見えていますか」と聖夜に訊いた。
「古い木造の建物の内部だ。曇り空が窓から見えている」
「……私には、別のものが見えています」
「何が見える」
「……少し待ってください」とユリアは言った。表情が、わずかに変わった。
◆
それぞれが、それぞれの場所に入った。
物理的に移動しているわけではなかった。全員が同じ空間にいるはずだった。でも、それぞれが自分だけに見える光景の中にいた。
聖夜の目の前に、部屋があった。
見覚えがあった。
古いマンションの一室。壁紙が少し剥がれかけていて、窓から外の音が聞こえた。コーヒーの匂いがあった。
第四層の記憶の部屋で来た時よりも、鮮明だった。
部屋の中が見えた。本棚があった。机があった。机の上に、使い込まれたマグカップがあった。窓際に観葉植物が一鉢あって、少し枯れかけていた。
兄の部屋だった。
第四層では声だけだった。今回は、部屋の全体が見えた。
聖夜は部屋に入った。物理的に入ったのか、意識が入ったのかはわからなかった。ただ、床の感触があって、空気の質があって、コーヒーの匂いがあった。
机の前の椅子が引かれていた。
誰かが座っていた痕跡だった。でも、今は誰もいない。
聖夜は机に近づいた。
マグカップが目の前にある。使い込まれたマグカップで、縁に細かい傷がついている。いつも使っていたやつだ、と思った。どこで見たか、いつ見たか、記憶の輪郭が曖昧だったが、このマグカップは知っていた。
「……兄貴」
声に出した。
誰もいなかった。
部屋には聖夜だけだった。
「……返せなかった言葉がある」と聖夜は言った。「お前が弟でよかった、と言ってくれた時に、俺は何も言えなかった。お前が兄でよかった、と言えなかった」
部屋が静かだった。
「……今、言う」
聖夜は机の前に立った。誰もいない椅子に向かって立った。
「お前が兄でよかった。俺がお前の弟でよかった。ブラックな職場で消耗して、それでも弟に愚痴を言わなかった。笑っていた。俺はそれに何もしてやれなかった。でも、お前が残したものは、ここまで来た」
聖夜は少し間を置いた。
「……俺が帰る理由になった。それがお前が残したものだ」
部屋の空気が、微かに動いた。
窓から光が差し込んだ。曇り空だったのに、一筋だけ光が来て、マグカップに当たって、少し輝いた。
それだけだった。
返事はなかった。
でも、聖夜は言えた、と思った。遅かった。届いたかどうかわからない。でも、言えた。
◆
しばらくして、写しが薄れた。
部屋の輪郭が曖昧になって、また木造の廊下が戻ってきた。
全員が、それぞれの場所から戻ってきた顔をしていた。
ここなが目を赤くしていた。泣いていないが、目の縁が赤かった。美羽が目を閉じて、ゆっくり息を吐いていた。ラヴィニアが壁に背を向けていた。イリヤーナが下を向いていた。ユリアが、まっすぐ前を向いていたが、瞳が少し揺れていた。
「……全員、大丈夫か」
誰も即座に答えなかった。
少し間があって、ここなが「大丈夫じゃないかもしれないけど、大丈夫」と言った。
「それでいい」と聖夜は言った。
「……聖夜は何が見えた」とここなが訊いた。
「兄の部屋が見えた」
「……言えたの」
「言えた」
ここなが少し頷いた。
「よかった」
それだけだった。聖夜も「ああ」とだけ言った。
ユリアが聖夜の隣に来た。
「……聖夜」
「何が見えた」と聖夜は訊いた。
「……氷の部屋でした。以前も来た記憶の部屋より、はっきりしていました。私が生まれた場所だと思います。魔の国の、城の一室だと思います。誰もいなかった。でも、今回は怖くなかった」
「なぜ」
「……あなたが帰る場所だと、思えたからです」とユリアは静かに言った。「もし帰れたら、あの部屋に戻ることになります。でも、今は一人じゃない。そう思えたら、怖くなかった」
「俺も一緒に行くことになるのか」
「……なるかもしれません」
「なるかもしれない、ということは、わかっているのか」
ユリアが少し間を置いた。
「……第二章で、話すことになると思います。今は、まだ」
「わかった。その時に聞く」
ユリアが短く頷いた。
◆
美羽が静かに言った。
「……妹の顔が見えました。現実の、リビングにいる妹の顔が。こっちを見ていました。何かを言おうとしていたけど、聞こえなかった」
「聞こえなかったのか」
「……写しだから、音まではなかったです。でも、口が動いていました。何を言っているかは読めなかった」
「帰ってから聞ける」と聖夜は言った。
「……はい」と美羽は言った。「帰ってから、聞きます」
ここなが「うちは、現実で言いかけた言葉が見えた」と言った。
「誰かへの言葉か」
「……友達への言葉。うちが靄スキルを使うみたいに、現実でも人の感情を読みすぎることがあって、それが怖くて、距離を置いてた子がいた。その子に、言いかけて止めた言葉が見えた」
「なんて言おうとしてた」
「……友達だよ、って。当たり前のことなのに、言えなかった」
「帰ったら言える」
「……言う。言えると思う、今は」
ラヴィニアが振り返った。
「……私は、昔歌っていた場所が見えた。初めて人前で歌った場所。客席が空だった。でも、その時の感覚が戻ってきた。初めて歌った時の感覚。評価される前の、ただ歌いたかった時の感覚」
「それが見えた意味は」
「……忘れていたものが、戻ってきた」とラヴィニアは言った。「それだけ。でも、それで十分だった」
イリヤーナが顔を上げた。
「……うちは、現実で一人でいた部屋が見えました。誰もいない部屋で、窓から外を見ていた。でも、今回は違って見えました」
「何が違った」
「……あの部屋を出た後に、どこかへ行けると思えた。以前は、ただ、一人でいた場所として見えていた。でも今は、あの部屋を出て、聖夜さんに会いに行った、という繋がりが見えた」
「出発点として見えた、ということか」
「……はい。牢屋じゃなくて、出発点でした」
聖夜はイリヤーナを見た。
「それは、大きい違いだ」
「……そうですね」とイリヤーナは静かに言った。「うちにとっては、とても大きい」
◆
全員が戻った後、廊下の奥にまた変化があった。
奥の扉の向こうに、さらに先の廊下が見えた。続きがある。まだ先がある。
「……次は何が来るんだろう」とここなが言った。
「シルエットだと思う」と聖夜は言った。
「名前を言うって約束したやつ」
「ああ」
「……楽しみなような、怖いような」
「怖くていい」と聖夜は言った。「怖くても、会いに行く」
ここなが少し笑った。
「それも聖夜っぽい」
「そうか」
「うん」
【HP:全員100/100】
【LVR:聖夜 152→163(上昇確認)≪悲嘆→解放 係数変動≫】
【ユリア 106、美羽 91、ここな 117、ラヴィニア 98、イリヤーナ 124】
【第五層:現実の写し 完了】
【先の廊下:出現確認】
――何かが、微かに笑った気がした。
少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。




