第41話 鏡が割れる時と、黒い手が見えた
ボスの部屋は、迷宮の最奥にあった。
扉はなかった。通路が突然広くなって、気づいたら部屋の中にいた。境界がない。鏡の通路が、そのままボス部屋に溶け込んでいた。
部屋の大きさは、今まで経験した中で一番広かった。天井が見えない。壁が遠い。床だけが鏡で、そこに全員の姿が映っていた。六人分の映り方が、それぞれ違った。
「……サトミさんが映っていない」と美羽が静かに言った。
六人分だけだった。当然のことだが、言葉にすると重さがあった。
「行くぞ」と聖夜は言った。
◆
ボスが現れた。
天井の見えない高さから、降りてきた。
形は人型だった。でも、全身が鏡でできていた。文字通りの鏡の体だった。表面が完全な平面で、全員の姿を映している。どこを向いても自分たちが映っている。顔は一つの大きな鏡面で、表情がなかった。手が四本で、それぞれが床に届くほど長かった。
【反照の王:HP不明、鏡型崩壊ボス】
「……全身が鏡だ」とここなが言った。
「感情反射を使ってくる」とユリアが言った。「攻撃するたびに、こちらの感情が反射される。前のエリアよりさらに強い密度で来る可能性がある」
「受けながら戦えるか」
「やってみなければわかりません」
ラヴィニアが「歌で補助できる」と言った。「感情の方向を一定に保つ効果が、歌系スキルにはある。全員の感情が乱れにくくなる」
「やれ」
「わかった」
ラヴィニアが歌い始めた。
旋律は複雑ではなかった。低く、一定で、波のような歌だった。でも、聞いていると何かが落ち着いた。感情が乱れにくくなる、とラヴィニアが言った意味が、聞いた瞬間にわかった。感情の揺れが、歌の波に同調して安定していく。
「……歌いながら戦うのか」とここなが言った。
「動きながら歌える。問題ない」
「プロだ」
「当然よ」
◆
ボスが動いた。
四本の腕が、同時に地面を叩いた。床の鏡が割れた。割れた鏡の破片が飛び散って、光を乱反射させた。視界が一瞬、白く染まった。
「散れ」と聖夜が叫んだ。
全員が別方向に動いた。
破片が全員をかすった。鏡の破片は、当たると感情反射が起きた。かすった瞬間に、内側から何かが押し広げられる感覚。防御できない。当たった分だけ、感情が引き出されて増幅される。
「……っ」とここなが声を上げた。
「ここな」
「大丈夫。ただ、うちの靄が反応した。サトミさんの分が動いた」
「今はそっちに意識を向けるな」
「わかってる」
ユリアが前に出た。氷の槍を三本、連続でボスの体幹に叩き込んだ。一本がボスの左腕に命中した。鏡の表面にひびが入った。
ひびが入った瞬間、ボスの反射が変わった。
乱れた。
完全な鏡面だった時は反射が安定していたが、ひびが入ると反射の方向が読めなくなった。どこに感情が返ってくるかが不規則になった。
「ひびを増やせば、反射が乱れる」とユリアが叫んだ。
「ひびが多くなると崩壊するのか」
「段階崩壊型だと思います。ひびが一定量を超えた時、一気に崩れる」
「第二層のボスと同じ構造か」
「はい」
聖夜が走った。
ボスの足元に潜り込んで、腕の関節部に攻撃を叩き込んだ。鏡の体は硬かった。拳で殴ると、手の甲が痛んだ。でも、ひびが入った。小さいひびだったが、確実に入った。
ボスの腕が振り下ろされた。
間一髪で横に跳んだ。腕が床を叩いて、また鏡が割れた。破片が飛んだ。
【HP:聖夜 100→82】
「……っ」
かすった。腕の側面に当たった。当たった場所から、感情の反射が来た。
兄の声が来た。
記憶の部屋で聞いた声だった。
『お前が弟でよかった』
戦闘の最中に来た。動きながら、その言葉を受けた。止まれなかった。だから止まらなかった。
「聖夜」とユリアが来た。氷の盾を展開して、ボスの次の攻撃を受けた。「HP確認」
「82。戦える」
「無理をするな」
「言われた」
ユリアが少し目を細めた。それから前に向いた。
◆
戦闘の中盤、ここなが動いた。
「……試す」と言った。
「何を」とユリアが訊いた。
「《靄継》。サトミさんの靄が混ざってから、まだ使ってない。使えるかどうか、今ここで試す」
「ボス戦の最中に初めて試すのか」
「タイミングを選んでる時間がない」
ここなが両手を前に出した。
靄が出た。
水色の靄の中に、透明の白が混ざっていた。それがボスに向かって広がった。ボスの鏡面に靄が触れた瞬間、何かが起きた。
鏡面が、曇った。
完全な反射が、靄によって部分的に遮断された。遮断された部分では、感情反射が起きなかった。
「……反射を止められる」とここなが言った。
「サトミさんの靄が混ざったことで、感情を保存する方向と、遮断する方向の両方が使えるようになったのか」とユリアが言った。
「たぶん。全部はわからないけど、今はこれが使える」
「ボスの鏡面を全部曇らせられるか」
「全部は無理。でも、攻撃の瞬間だけ、ピンポイントで当てられる」
「やれ」
ここなが靄を制御した。
ボスの腕が振り下ろされる瞬間に、靄が腕の鏡面に当たった。感情反射が遮断された。純粋な物理攻撃だけが来た。
「今です」とユリアが叫んだ。
反射がない攻撃は、対処できた。ユリアが氷盾で受けて、その反動を利用してボスの体幹に氷槍を叩き込んだ。
ひびが増えた。
「左の腕に集中します」と美羽の会長モードが指令を出した。「全員、左腕のひびを優先してください」
ラヴィニアの歌が少し変わった。旋律が高くなった。感情の方向を全員の攻撃に揃える音だった。
全員の攻撃が、左腕に集中した。
ひびが深くなった。腕の根元まで届いた。
左腕が崩れた。
鏡の体の四分の一が崩落した。崩れた部分から、何か有機的なものが見えた。芯になっている何かだった。
「芯がある」と聖夜は言った。
「あそこを壊せばいい」とユリアが言った。
「ここなの靄で鏡面を遮断しながら、残りの腕を崩す。美羽が指令を出せ」
「わかりました」と美羽が答えた。
◆
残りの三本の腕を崩すのに、さらに二十分かかった。
途中で聖夜のHPが64まで落ちた。ユリアが82、美羽が91、ここなが78、ラヴィニアが85、イリヤーナが79だった。
イリヤーナは戦闘中、聖夜の死角を補い続けていた。ボスの攻撃が聖夜の背後から来る瞬間に、先回りして位置を取った。スキルではなく、聖夜の動きを読んでの行動だった。
「……なぜわかる」と聖夜が一瞬だけ訊いた。
「ずっと見ていたので」とイリヤーナは答えた。
それだけだった。
最後の腕が崩れた時、ボスの芯が完全に露出した。
芯は、一枚の鏡だった。
他の部位とは違う、完全に透明な鏡だった。何も映していなかった。
「……何も映していない」とここなが言った。
「壊せ」と聖夜は言った。
全員が、芯に向かって攻撃を集中した。
◆
鏡が割れた瞬間、部屋全体の鏡が一斉に割れた。
音が来た。鏡が割れる音が、全方向から同時に来た。光が乱れた。感情反射が、一瞬だけ最大出力になった。全員の感情が、同時に反射されて返ってきた。
それが収まった後、部屋が静かになった。
ボスが消えた。
床の鏡が全部割れていた。割れた床の下は、石だった。石の上に立っていた。
「……倒した」とここなが言った。
【反照の王:討伐完了】
通知が来た。
その直後に、別の変化があった。
部屋の中央の空気が、歪んだ。
歪みが人型を取った。
シルエットだった。
今まで見てきたシルエットとは違った。頭から足まで、完全な輪郭があった。顔も、輪郭だけなら見えた。手が、はっきりと見えた。指の形が見えた。
黒い手だった。
シルエットが全員を見た。
声が来た。
『……ここまで来た』
「ああ」と聖夜は答えた。
『強くなった』
「お前が言うのか」
『私が一番見ていたから、言える』
シルエットが少し動いた。ボス戦を見ていた、という動きだった。
『ここなのスキルが、また変わった』
「《靄継》だ」とここなが言った。「サトミさんが残してくれた」
『……知っている』
「サトミさんのことを、どう思ってる」
間があった。
今までで一番長い間だった。
『……設計の外から来たプレイヤーだった。でも、最後は設計の中で一番本物だった』
ここなが少し目を細めた。
「……認めてるじゃないか」
『認めている』とシルエットは言った。『認める理由がある』
「何だ」
『最終層で話す。でも今日は、一個だけ言う』
「聞く」
『あなたたちは、私が想定していた以上のものを持っている。それは、設計の成功ではない。設計の外で、自分たちで作ったものだ』
全員が黙った。
シルエットが聖夜を見た。
輪郭だけの顔が、聖夜の方を向いた。
『……第五層で会う』
「ああ」
『そこで全部話す』
「待っている」
シルエットが、消えた。
部屋が静かになった。
割れた鏡の破片の上に、六人が立っていた。
ユリアが聖夜の隣に来た。
「……シルエットの輪郭が、完全に見えました」
「ああ」
「顔が、見えそうだった」
「第五層で見える」
「……怖いですか」
聖夜は少し考えた。
「怖くはない。会いたいと思っている」
「なぜ」
「何者かを知りたい。そして、何のためにこのゲームを作ったかを聞きたい」
ユリアが少し頷いた。
「……私も、聞きたいです」
「ああ」
【HP:聖夜 64/100、ユリア 82/100、美羽 91/100、ここな 78/100、ラヴィニア 85/100、イリヤーナ 79/100】
【LVR:聖夜 135、ユリア 97、美羽 79、ここな 95、ラヴィニア 87、イリヤーナ 94】
【第四層:ボス討伐完了 審判フェイズへ移行準備】
【シルエット:完全輪郭 初出現確認】
――何かが、微かに笑った気がした。
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