第40話 届かなかった靄と、本物だった
消去フェイズの通知は、深部エリアの中間点を過ぎた頃に来た。
【消去フェイズ:第三回計測 一時間前】
【現在の推定最低LVR:サトミ 87】
「今回もサトミか」とここなが言った。
「87あれば、一時間で三十上げられる」とユリアが言った。
「でも、シルエットが言った。サトミのLVR減衰速度が他より速い可能性がある」と聖夜は言った。
全員がサトミを見た。
サトミが自分のLVRを確認した。確認した瞬間、顔が変わった。
「……79になってる」
「さっきまで87だったのに」とここなが言った。「八下がってる。通常の減衰なら一時間に五のはず」
「速い」とユリアが言った。「シルエットの言った通りだ。設計の保護を受けていない分、減衰が不安定になっている」
「このペースで下がると」と美羽の会長モードが計算した。「一時間で十五から二十程度の減衰。現在79なら、計測時には六十台前半になる可能性がある」
「三十上げる必要がある」と聖夜は言った。「かつ、減衰速度が不安定なら、上げても追いつかない可能性がある」
「追いつかない」とサトミが繰り返した。
静かな声だった。諦めではなく、事実を確認している声だった。
「……そう、なるかもしれない」
「まだわからない」とここなが言った。
「でも、なるかもしれない」
「なるかもしれない、でも、なるとは決まってない」
サトミがここなを見た。
「……ここなちゃん、うちのために無理しないで」
「無理かどうかはうちが決める」
「前に靄を使いすぎた時、右手が白くなってた。また使いすぎたら」
「それもうちが決める」
「でも」
「サトミさん」とここなは言った。「うちが決めることに、サトミさんが口出しするのは、うちが嫌だ」
サトミが少し黙った。
「……わかった」と言った。
◆
一時間で出来ることを全員でやった。
ユリアが「感情の反射を意図的に使う」という方針を出した。フィールドの仕組みを逆用して、全員がサトミに向けて感情を送る。反射でサトミのLVRに届く可能性がある。
「感情は作れない」とラヴィニアが言った。「意図して出せるものじゃない」
「作らなくていい」とユリアは言った。「サトミさんへの本物の感情があれば、それを意識するだけでいい」
「本物の感情があれば、の話ね」
「あると思います。この層を一緒に歩いてきた分だけ」
ラヴィニアが少し黙った。
「……嫌いじゃない、その前提の立て方」と言った。
美羽が静かに言った。
「サトミさんが水筒を貸してくれた時のことを、覚えています。それは本物の感情です」
イリヤーナが「うちも、ここなさんを助けようとしてくれたことを覚えています」と言った。
全員の感情が、方向を持ち始めた。
ここなが靄を出した。
「……全員の感情を集めて、サトミさんに送る。うちのスキルで、できるかどうか、今日初めて試す」
「やれるか」とユリアが言った。
「やってみないとわからない。でも、理屈は通る。靄は感情を運べる。一人分じゃなく、複数人分を束ねて送れるかどうか、が問題」
「限界を超えた場合のリスクは」
「右手だけじゃ済まないかもしれない」とここなは言った。平坦な声で言った。「でも、やる」
「ここな」と聖夜が呼んだ。
「なに」
「無理をするな、とは言わない。ただ、お前が倒れたら意味がない」
「倒れない」
「確信があるか」
「……ない。でも、やる」
聖夜は少し黙った。
「……わかった。お前が決めることだ」
ここなが少し目を細めた。
「聖夜も、うちに口出ししないんだね」
「選んだのはお前だ」
「……ありがとう」
◆
ここなが両手を前に出した。
靄が出た。いつもの水色より、少し濃い色だった。密度が高い。全員の感情を集めているからだ。サトミへの感情、美羽からの感情、イリヤーナからの感情、ユリアからの感情、ラヴィニアからの感情。それぞれが靄の中に溶け込んでいく。
「……聖夜も」とここなが言った。
「ああ」
聖夜は、サトミのことを考えた。
第二層でサクラとして動いていた女が、本音を吐き出して、ここまで来た。計算と感情が混ざりながら、少しずつ本物を増やしてきた。ここなに靄で読まれて、怖かったのに嫌じゃないと言った。美羽に水筒を差し出した。設計の外から来たと知らされても、ここで死ぬほうがましだと言った。
それは全部、本物だった。
聖夜の感情が、靄に溶けた。
ここなの靄が、濃くなった。
手のひらから腕まで、白くなり始めた。右だけでなく、左も白くなっていた。それでもここなは止めなかった。靄を前に向けて、サトミに向けて、全員の感情を束ねて押し出した。
サトミが、それを受けた。
胸の奥から何かが広がる感覚が来た、とサトミは後に言った。温度があった。複数の温度が、それぞれ違う形で来た。ここなの靄は水色で、美羽のは白くて、ユリアのは冷たい青で、ラヴィニアのは深い赤で、イリヤーナのは濃いピンクで、聖夜のはあったかかった。
全部が、サトミに届いた。
【LVR:サトミ 79→108(上昇確認)】
「……届いた」とここなが言った。
声が、かすれていた。
両手が、肘まで白くなっていた。感覚が戻るには、かなり時間がかかりそうだった。
「ここな」とサトミが来た。
「大丈夫。感覚がないだけだから」
「痛い?」
「痛くはない。ただ、重い」
サトミがここなの手を取った。白くなった手を、両手で包んだ。
「……ありがとう」
「お礼はいい」
「それでも言う」
ここなが少し黙った。
「……うちも、本物で動けた」と言った。「計算じゃなかった」
「わかってる」
「サトミさんのために動いて、うちのLVRも上がった。みんなのためになるかもと思ったら計算になるから、ただサトミさんのためだけに動いた」
「……それが、うちには届いた」
◆
計測が来た。
【消去フェイズ:第三回計測 完了】
【全プレイヤーLVR基準値クリア 強制BAN対象者:なし】
全員が息を吐いた。
聖夜はLVRを確認した。
【LVR:聖夜 135、ユリア 94、美羽 76、ここな 91、ラヴィニア 84、サトミ 108、イリヤーナ 92】
サトミが108になっていた。全員分の感情が束になって届いた結果だった。
「……うちのLVRが、一番高い」とサトミが言った。
「一時的にそうなっただけだ」と聖夜は言った。「次の計測までにまた落ちる可能性がある」
「それでも……今だけ、一番高い」
サトミが少し笑った。
笑顔を見たのは初めてだった。計算の入っていない、素の笑顔だった。
「……こんな顔できるんだ、うち」とサトミが言った。自分で驚いているような顔だった。
「できる」とここなが言った。
「知らなかった」
「これからは知ってる」
サトミが少し俯いた。
「……帰りたいな、って初めて思った」
「今まで思わなかったのか」と聖夜が訊いた。
「……帰る場所があるかどうか、自信がなかったから、思わないようにしてた」
「今は」
「……ここなちゃんが、返信が来てるって言ってくれたから。それを確かめたい」
ここなが「確かめよう」と言った。
サトミが頷いた。
◆
しかし。
四時間後、第四回計測の通知が来た時、サトミのLVRは54になっていた。
「……速い」とここなが言った。
108から54まで、四時間で五十四下がった。通常の減衰は四時間で二十。三十四分、設計外の余分な減衰があった。
「……次の計測まで六時間。今は54。このペースで行くと」と美羽が計算した。「計測時には、ほぼゼロになります」
沈黙が落ちた。
ここなが、また靄を出そうとした。
「待て」と聖夜が言った。
「でも」
「お前の両手がまだ戻っていない。今また全力で出したら」
「サトミさんが死ぬ」
「お前も動けなくなる可能性がある。ボス前に」
ここなが止まった。
全員がわかっていた。ここから先にボスがいる。ここなのスキルなしでボスに挑む難易度は、格段に上がる。
「……うちが動けなくなっても」とここなは言いかけた。
「ここな」とサトミが言った。
ここなが振り返った。
サトミが、笑っていた。さっきの笑顔とは少し違う。何かを決めた顔だった。
「うちは、大丈夫」
「大丈夫じゃない。LVRが」
「ここなちゃん、聞いて」
サトミが、ここなの前に来た。
「うちは、設計の外から来てる。ここなちゃんがさっき言ってくれたこと、届いた。帰りたいって思えた。それは本物だった」
「だから」
「だからこそ、ここなちゃんのスキルを、ボスのために取っておいてほしい」
「でも、サトミさんが」
「うちのために、ボスで全員が死ぬのは嫌だ」
ここなが少し黙った。
「……計算で言ってる?」
「計算じゃない」とサトミは言った。「全員に生き残ってほしいから言ってる。それだけ」
ここなの目が、少し赤くなった。
「……嫌だ」
「ここなちゃん」
「嫌だって言ってる」
「うちの選択だよ」
ここなが、止まった。
「選んだのは本人、って聖夜が言ってた。ユリアさんも言ってた。うちも言った。だから、うちの選択を止めないで」
ここなが何か言おうとして、止まった。
止まったまま、動かなかった。
「……わかった」とここなは言った。声が、かすれていた。「でも、うちは最後まで靄で側にいる」
「うん」とサトミは言った。「それは、うれしい」
◆
六時間後、計測が来た。
【消去フェイズ:第四回計測 完了】
【LVR最低値プレイヤー:サトミ LVR:3】
【強制BAN処理:実行】
通知が来た瞬間、サトミの体が光った。
白い光だった。第二層の審判フェイズの光とは違う、強制的な光だった。
ここなが「サトミさん」と呼んだ。
サトミが振り返った。
笑っていた。
「……うち、本物だったかな」
ここなが「本物だった」と答えた。
答えた瞬間、サトミが消えた。
ここなの靄が、サトミがいた場所に残った。水色の靄が、形を保ったまま、しばらく漂っていた。
それから、靄の色が少し変わった。
水色の中に、別の色が混ざった。
透明に近い、白に近い、でも確かに色がある、何かだった。
「……ここな」と聖夜が呼んだ。
ここなが、靄を見ていた。
「……サトミさんの靄が、うちの靄に混ざった」とここなは言った。声が、平坦だった。泣いていない。泣けていないのかもしれない。「うちのスキルに、サトミさんが残った」
誰も何も言わなかった。
しばらく、全員が動かなかった。
それから聖夜が言った。
「……行くぞ」
ここなが頷いた。
靄は、まだここなの周りに漂っていた。水色と、透明の白が混ざった靄が。
【LVR:聖夜 135、ユリア 95、美羽 77、ここな 93、ラヴィニア 85、イリヤーナ 93】
【サトミ:強制BAN 退場】
【ここな:スキル変容確認《靄伝》→《靄継》】
――その音を、遠い場所の何かが聞き届けた。
少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。




