第39話 設計の匂いと、黒い手が近づく
深部エリアに入ると、鏡の質が変わった。
表面の歪みがなくなった。完全な平面になった。歪みがない分、映り方が正確すぎた。自分の顔が、自分の顔として完全に返ってくる。目の下の疲れも、肌の荒れも、全部が正確に映っていた。
「……嫌な鏡だ」とラヴィニアが言った。
「全部見える」とここなが言った。「外向きの顔が使えない。鏡が全部見てる」
「見られていて何か困るのか」とユリアが訊いた。
「困るというか……あーしは外向きと内向きで顔を使い分けてきたから、全部映されると落ち着かない」
「外向きと内向きの差が、ここではなくなる」
「そういうこと」
聖夜は自分の鏡像を見た。表情がない、というのが正確に映っていた。無表情ではなく、感情を外に出していない、という状態が映っていた。それがこの迷宮では「感情を抑えているほど鏡が正直になる」という仕組みと連動して、聖夜の映り方を他の全員より鮮明にしていた。
鏡の中の聖夜は、疲れていた。
本人が意識していない疲れが、映っていた。
◆
深部エリアを三十分ほど進んだところで、空気が変わった。
温度ではない。密度だ。空気の密度が上がった。息を吸うたびに、何か余分なものが混ざってくる感じがした。感情の粒子が空気に溶けているような、そういう感触だ。
ここなが立ち止まった。
「……靄が、変な反応してる」
「何がいる」と聖夜が訊いた。
「いる、というか……何かが近づいてる。でも、靄で読めない。今まで読めなかったものは、モンスターか、別のプレイヤーか、フィールドの仕掛けか、のどれかだった。でも今のは、どれでもない」
「どれでもない、とは」
「……靄で触れると、靄が吸い込まれていく感じがする。読もうとすると、読む側が引っ張られる」
ユリアが静かに言った。
「……それは、以前の層で感じたものと同じですか」
ここなが少し考えた。
「……審判の時のシルエットに、少し近い」
全員が静止した。
審判のシルエットは、各層のクリア後に現れるものだった。今は層のクリア前だ。クリア前にシルエットが現れたことは、今まで一度もなかった。
「……近づいてくるのか」と聖夜が訊いた。
「近づいてる。でも、速くはない。こっちが止まれば、向こうも止まる感じ」
「止まれ」
全員が足を止めた。
空気の密度が、一定を保った。近づいてくる何かも、止まった。
しばらく、全員が静止した。
「……様子を見る」と聖夜は言った。
◆
五分ほど静止した後、声が来た。
今まで審判の場で聞いてきた声だった。広場で全員に向かって話す声ではなく、もっと小さい声だった。近い距離から来ていた。
『こんなところで止まるの』
「お前か」と聖夜は言った。
『そう。驚いた? クリア前に来るのは初めてだから』
「何のために来た」
『見たかったから。深部エリアに入るまで、あなたたちがどう動くか、ずっと見ていた。中枢エリアも、記憶の部屋も、狭い通路も』
「全部見ていたのか」
『全部。それが仕事だから』
「仕事、と言うのか。設計者の仕事か」
少し間があった。
『……設計者、という言い方は正確じゃない。でも、全部否定もしない』
「じゃあ何者だ」
『まだ教えない。最終層で教えると言った』
「今日は何を教える」
また間があった。今度は少し長かった。
『一個だけ。あなたのパーティの中に、私が仕込んだわけじゃないものが一人いる』
全員が、互いを見た。
「どういう意味だ」
『このゲームは、全部が設計通りではない。私が設計した部分と、設計していない部分がある。設計していない部分から来たプレイヤーが一人いる』
「……それは誰だ」
『教えない。でも、あなたはすでに気づいている可能性がある』
聖夜は少し考えた。
設計通りではないプレイヤー。設計の外側から来た存在。
「……サトミか」
間があった。
『なぜそう思う』
「記憶の部屋で、サトミだけ別の記憶が来た。他の全員は自分の記憶が来たが、サトミだけ設計者視点の記憶が来たと、ここなが言っていた」
ここなが少し目を見開いた。
「……言ってない」
「お前は言わなかった。俺が、お前の靄の変化から読んだ」
ここなが聖夜を見た。
「……いつから気づいてたの」
「記憶の部屋を出た直後から」
ここなが少し黙った。
「……うちより先に読んでた」
「靄は使えない。でも、見ることはできる」
シルエットの声が、また来た。
『……正確だ。サトミというプレイヤーは、私の設計の外から来ている。でも、敵ではない。ただ、別の経路でここに入ってきた』
「別の経路とは」
『それは、最終層で』
「お前はいつも最終層で、と言う」
『全部を今教えたら、面白くないから』
「面白さのためにやっているのか」
少し長い沈黙があった。
今まで聞いたことのない質の間だった。考えている間ではなく、何かを感じている間のような、沈黙だった。
『……面白さだけのためではない。でも、面白さが全くないわけでもない』
「正直だな」
『あなたが正直に訊くから』
◆
サトミが、少し前に出た。
「……うちのことを、話しているんですね」
シルエットの声が、サトミの方向に向いた。
『そう』
「うちは、何なんですか」
『設計の外から来たプレイヤー。それだけ』
「設計の外、というのは……うちは、このゲームに入れられたわけじゃない、ということですか」
『入れられた。でも、私が入れたわけじゃない』
「誰が入れたんですか」
『それも、最終層で』
サトミが少し黙った。
「……うちは、このゲームで死ぬ可能性が高いんですか」
シルエットが止まった。
『……正直に答える。設計の外から来たプレイヤーは、設計の保護を受けない。あなたのLVRの減衰速度が他のプレイヤーより速い可能性がある』
ここなが息を飲んだ。
「……どれくらい速い」
『わからない。設計の外だから、私にも正確には読めない』
「わからない、というのは本当か」
『本当。設計の外は、私にも見えない』
サトミが、少し俯いた。
聖夜はサトミを見た。
「サトミ」
「……はい」
「今の話を聞いて、どうする」
サトミが少し顔を上げた。
「……怖い、です。でも……」
「でも、何だ」
「ここで一人になるより、ここで死ぬほうがましだと思います」
ここなが「そういうこと言うな」と言った。外向きの「あーし」ではなく、「うち」の声で、少し強く言った。
「……でも、本当のことだから」
「本当のことでも言うな。うちが聞きたくない」
サトミが、ここなを見た。
「……ここな、ちゃん」
「うちがいる。靄で読める。LVRが落ちる前に、対処する。だから、そういうことを言うな」
「対処できるかわからないのに」
「わからなくても言う」とここなは言った。「計算じゃなく言ってる」
サトミが、少し黙った。
それから「……ありがとう」と言った。
低い声だった。計算の入っていない声だった。
【LVR:サトミ 81→87(上昇確認)】
シルエットの声が、最後に来た。
『……一個だけ、余分に教える』
「何だ」と聖夜が言った。
『ここなというプレイヤーの靄スキルは、設計の範囲を超えている。私が想定していなかった方向に成長している』
「それは、良いことか悪いことか」
『設計者としては、想定外は基本的に良いことじゃない。でも……』
また、あの沈黙が来た。感情のある沈黙だった。
『……今回は、悪くないと思っている』
それだけ言って、空気の密度が戻った。
シルエットが、離れていった。
全員がしばらく動かなかった。
「……設計者が、悪くないと言った」とラヴィニアが静かに言った。
「ああ」
「……面白い存在ね、あれは」
「そうだな」
イリヤーナが聖夜の隣に来た。
「……聖夜さん」
「何だ」
「うちは、設計通りのプレイヤーですか」
「わからない」
「でも、どちらでもいいですか」
聖夜は少し考えた。
「設計通りかどうかは関係ない。ここにいることは本物だ」
イリヤーナが、少し目を細めた。
「……やっぱり、聖夜さんだけが理由です」
「知っている」と聖夜は言った。
今回は、それだけだった。
【LVR:聖夜 135、ユリア 92、美羽 74、ここな 95、ラヴィニア 82、サトミ 87、イリヤーナ 90】
【反照の迷宮:深部エリア 中間点通過】
【シルエット:クリア前接触 記録】
――どこかで、何かが静かに見ていた。
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