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第38話 三角の形と、それぞれの距離

 記憶の部屋を出てから、通路の空気が変わった。


 


 鏡の反射が、以前より穏やかになっていた。強度が落ちたのではなく、全員の感情が記憶の部屋を経て、少し整理されたのだと聖夜は感じた。出てきた直後は誰も多く話さなかった。それぞれの内側に、何かが残っている。それを処理しながら歩いている。


 


 先頭はユリアで、後尾はサトミだった。


 


 聖夜は中間を歩いた。左にイリヤーナ、右にここなという位置になっていた。意図してそうなったわけではなかったが、自然にそうなった。


 


「……さっき、受け取ると言ったこと」とイリヤーナが聖夜に小声で言った。


 


「ああ」


 


「やっぱり、重かったですか」


 


「重くはなかった」


 


「なぜ」


 


「お前が問いかけたからだ。押しつけなかった」


 


 イリヤーナが少し考えた。


 


「……うちは、押しつけていたこともあったと思います。第一層とか、第二層で情報を集めていた時とか。聖夜さんに近づきたくて、でも近づき方がわからなくて」


 


「それがサクラと同じ方法を取った理由か」


 


「……違います。うちはサクラじゃなかった。ただ、情報を集めてどこかで使うつもりだった。でも……」


 


「でも、何だ」


 


「聖夜さんの話を聞いているうちに、使う気がなくなりました。集めた情報を、誰かに流す理由がなくなった」


 


「なぜ聞いていたんだ」


 


「声が好きだったので」


 


 聖夜は少し黙った。


 


「……声が」


 


「落ち着いた声で、感情を乗せない話し方をする人が好きです。うちは感情が大きくなりすぎることが多くて、そういう人のそばにいると、安心する」


 


「お前の感情が大きいのは知っている」


 


「迷惑でしたか」


 


「迷惑ではない。ただ、受け取るのに準備が要った」


 


 イリヤーナが少し目を細めた。


 


「……準備、してくれていたんですね」


 


「お前のためじゃなく、俺の問題だ」


 


「でも、してくれていた」


 


「……ああ」


 


 ◆


 


 しばらく歩くと、また鏡の反射が強くなる区画に入った。


 


 今度は中枢エリアではなく、通路の幅が狭くなっている場所だった。両側の鏡が近い分、反射が密になる。全員の感情が狭い空間に集まって、混ざり合う。


 


 ここなが靄を出して前方を確認した。


 


「……記憶の部屋の後だから、感情の質が全員変わってる。反射も変わるかもしれない。気をつけて」


 


「どう変わる」


 


「記憶の後は、感情の根が見えやすくなってる。それが反射されると……深いところが出てくる」


 


 深いところ、とここなが言った意味は、通路に入って少ししてから分かった。


 


 反射が来た。


 


 今回は外からではなく、自分の内側から来る感じだった。外部の感情が反射して返ってくるのではなく、自分が持っているものが引き出されて、鏡に映されて、また返ってくる。


 


 聖夜は立ち止まらずに歩いた。


 


 返ってきたのは、兄への言葉ではなかった。


 


 ユリアのことだった。


 


 第三層の夜に、肩が触れるか触れないかの距離で並んでいた感覚。審判の広場で手を繋いで転送された感覚。記憶の部屋を出た後に「届く間に言う」と言った自分の言葉。全部が鏡に映されて、増幅されて、戻ってきた。


 


 重くはなかった。


 


 温かかった。


 


 ここなが以前「聖夜のはあったかかった」と言ったのを思い出した。自分の感情が反射されて戻ってくると、温度があった。感情に温度があることを、聖夜は今まで考えたことがなかった。


 


 ◆


 


 狭い通路を抜けた先で、ユリアが待っていた。


 


 先頭を歩いていたユリアが、通路の出口で全員を待っていた。


 


「全員、通過できましたか」とユリアが言った。


 


「問題ない」と聖夜は答えた。


 


「……反射は来ましたか」


 


「来た」


 


「何が来ましたか」


 


 聖夜は少し考えた。


 


「お前のことが来た」


 


 ユリアが止まった。


 


 氷色の瞳が、わずかに動いた。


 


「……私のことが、反射されたということは」


 


「俺がお前のことを感情で持っているということだ」


 


「……それは」


 


「事実の確認だ。感情で動いていれば、反射が来る」


 


 ユリアが少し黙った。


 


 イリヤーナが聖夜の隣で、その会話を聞いていた。


 


 口を挟まなかった。表情も変えなかった。ただ、聖夜とユリアの会話を、静かに聞いていた。


 


「……イリヤーナ」とユリアが呼んだ。


 


「はい」


 


「あなたにも、反射が来ましたか」


 


「来ました」


 


「何が」


 


「聖夜さんのことが、返ってきました」とイリヤーナは静かに言った。「当然ですが」


 


「当然、と言える人は強いと思います」とユリアは言った。


 


「……強くはないです。うちは、ただそれしかないから」


 


「それだけを持っていることは、強さです」


 


 イリヤーナがユリアを見た。


 


「……ユリアさんは、うちのことを否定しないんですね」


 


「する理由がありません」


 


「正室として、脅威に感じませんか」


 


 ユリアが少し間を置いた。


 


「……感じます」とユリアは言った。「あなたの感情の純度は、私より高い。それは事実です」


 


「でも、否定しない」


 


「否定することと、脅威を感じることは別の話です。それと……」


 


 ユリアが少し続けた。


 


「あなたの感情が本物である以上、聖夜もそれに向き合う責任があります。私が間に入って遮ることは、聖夜に対して失礼です」


 


 イリヤーナが少し目を細めた。


 


「……難しい考え方ですね」


 


「聖夜に教わりました」


 


「何を教わったんですか」


 


「選んだのは本人だ、ということです」


 


 ◆


 


 ラヴィニアが後ろから来て、二人の会話を聞いていた。


 


「……面白い三角ね」とラヴィニアが言った。


 


「三角、ですか」とイリヤーナが振り返った。


 


「一人が中心で、二人が別の位置から向いてる。でも二人が互いを潰そうとしていない。普通、こういう状況はもっと険しくなる」


 


「険しくなる理由がない」とユリアが言った。


 


「感情的には険しくなる理由があるわよ。あなたたちが感情を持っているなら」


 


「……感情はあります」とユリアは言った。「でも、感情があることと、行動することは別の話です」


 


「さっきも似たようなことを言っていたわね」


 


「同じことです。繰り返す価値があると思っています」


 


 ラヴィニアが少し口の端を上げた。


 


「……嫌いじゃない」


 


「ありがとうございます」


 


「褒めてないわよ」


 


「知っています」


 


 ラヴィニアが聖夜を見た。


 


「あなたはこれについて何か言わなくていいの」


 


「二人が話しているところに入る理由がない」と聖夜は言った。


 


「当事者でしょうに」


 


「二人が決めることだ」


 


 ラヴィニアが少し考えた。


 


「……なるほど。選んだのは本人、ということね」


 


「ユリアから聞いたか」


 


「今聞いた」


 


「そういうことだ」


 


 ラヴィニアが「嫌いじゃない、その考え方」と言った。今日何度目かのその言葉だったが、今回は少し重さが違った。


 


 ◆


 


 美羽が聖夜の隣に来た。


 


「聖夜さん」と現実人格の声で呼んだ。


 


「何だ」


 


「……記憶の部屋で、妹の声が来ました」


 


「そうか」


 


「会いたいです、と思いました。強く」


 


「ああ」


 


「……第四層を越えれば、第五層です。第五層をクリアすれば、帰れると思っていました。でも今、帰れるかどうかが、少し怖くなっています」


 


「なぜ怖い」


 


 美羽が少し考えた。


 


「……帰れなかった時のことを、初めてリアルに想像したからです。今まで、帰ることを前提に動いてきました。でも妹の声を聞いた後、帰れなかった場合の妹の顔が浮かんで」


 


「怖くて当然だ」と聖夜は言った。


 


「……弱いですね、うちは」


 


「弱くない。怖いと思える感情を持っていることは、帰る理由を持っているということだ」


 


 美羽が少し黙った。


 


「……聖夜さんは、怖くないんですか」


 


「怖い」と聖夜は言った。「ただ、怖さより前に行くべき理由がある」


 


「それは、どこから来るんですか」


 


 聖夜は少し考えた。


 


「兄が、お前が弟でよかったと言った。俺はそれに返せなかった。でも……俺がここで生き残ることが、遅れた返事になると思っている。兄が生きていた場所に、俺が帰ることが」


 


 美羽が、少し目を潤ませた。


 


 泣かなかった。でも、目の縁が赤くなった。


 


「……それは、強い理由ですね」


 


「お前にも、強い理由がある」


 


「妹ですか」


 


「ああ」


 


 美羽が頷いた。会長モードではなく、現実人格のまま、背筋を伸ばした。


 


「……行きます。弱音は今日だけです」


 


「弱音は毎日言っていい」と聖夜は言った。


 


 美羽が少し目を細めた。


 


「……聖夜さんは、たまに優しいですね」


 


「たまにか」


 


「たまにです」


 


 それだけ言って、美羽が前を向いた。


 


 【LVR:聖夜 128→135、ユリア 91、美羽 72、ここな 93、ラヴィニア 80、サトミ 81、イリヤーナ 88】


 【反照の迷宮:深部エリアへ接近中】


 


 ――何かが、微かに笑った気がした。




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