第37話 記憶の部屋と、兄の声
通路の先に、扉があった。
鏡ではなく、木製の扉だった。この層に入ってから初めて見る、鏡以外の素材だった。古びた木で、表面に細かい罅が入っている。取っ手は金属で、錆びていた。扉の上部に、小さな刻印があった。
「……文字ですか」とユリアが近づいて読んだ。「記憶、と書いてあります」
「記憶の部屋か」と聖夜は言った。
「入るか入らないかは選択できるようです。強制ではない」
ここなが靄を出して、扉の周囲を読んだ。
「……中に何かある。感情じゃなくて、情報に近いもの。靄で読んだことのない質だ。でも……危険な感じはしない」
「入ろう」と聖夜は言った。
「全員で?」とラヴィニアが訊いた。
「入りたくない者は外で待て。強制はしない」
全員が顔を見合わせた。
サトミが少し間を置いて「入ります」と言った。ラヴィニアが「好奇心には勝てない」と言った。美羽が「一緒に行きます」と言った。ユリアは聖夜を見て、無言で頷いた。ここなが「あーしも」と言った。
イリヤーナが最後に「聖夜さんが行くなら」と言った。
◆
扉を開けると、部屋があった。
広さは十畳ほど。床も壁も天井も、外の鏡とは違う素材で、白い石だった。光源が見当たらないのに、部屋全体が均一に明るかった。
部屋の中央に、何もなかった。
「……何もないな」とここなが言った。
「入った瞬間に何かが起きるかもしれない」とユリアが言った。
全員が部屋の中に入った。扉が、音もなく閉まった。
それと同時に、部屋の空気が変わった。
温度が変わったわけではない。光が変わったわけでもない。ただ、何かが変わった。空気の密度が変わったのか、時間の流れ方が変わったのか、言葉にできない変化だった。
「……来る」とユリアが言った。
◆
映像が来た、というより、感覚が来た。
視覚的なものではなく、空間全体が変化した。部屋の中にいながら、別の場所にいるような感覚。体は部屋にあるのに、感覚だけが別の場所に引っ張られていく。
聖夜は、それを受けた。
場所は、見覚えがあった。
古いマンションの一室だった。壁紙が剥がれかけていて、窓から外の音が漏れてくる。コーヒーの匂いが、かすかにあった。
兄の部屋だった。
聖夜が大学に入る前、まだ兄が東京で働いていた頃に一度だけ泊まりに行った部屋だ。その時の記憶ではなく、感覚だった。部屋の空気の質、光の入り方、床の感触。全部が、その部屋だった。
兄の声が来た。
声だけだった。姿はなかった。でも、声ははっきりしていた。
『聖夜、お前は真面目すぎる。もっと適当に生きていい』
聖夜は動けなかった。
声を聞いたのはいつだったか。あの部屋に泊まった夜だったか、もっと前だったか。記憶の輪郭が曖昧だった。でも声の質は正確だった。兄の声の低さ、言葉の置き方、語尾の丸め方。全部が正確だった。
『お前が頑張りすぎると、俺が頑張らなくていい理由がなくなる。だから、もう少し手を抜いてくれ』
冗談だった。兄はそういう冗談を言う人間だった。でも、冗談の裏に本音があることも、聖夜は知っていた。
兄は、疲れていた。
ずっと疲れていた。それでも笑っていた。聖夜の前では笑っていた。
『お前が弟でよかった』
その言葉は、いつ言われたかを聖夜は覚えていた。
死ぬ三ヶ月前、電話で話した時だった。急に言われて、聖夜は何も答えられなかった。「なんで急に」と言ったきり、会話が別の話題に流れた。それが最後になるとは思っていなかった。
聖夜は返事をしていなかった。
「……お前が兄でよかった」と、言っていなかった。
◆
聖夜が気づくと、部屋の中に戻っていた。
白い石の壁。均一な光。部屋の中に、全員がいた。
全員の表情が、それぞれ違う何かを受け取った後の顔をしていた。各自に別の記憶が来たのだと、見ればわかった。
ここなが目を赤くしていた。泣いているわけではないが、目の縁が赤かった。
美羽が目を閉じたままで、ゆっくり息を吐いていた。
ラヴィニアが壁に背を向けて立っていた。背中を見せていた。
サトミが床に視線を落として、動かなかった。
ユリアが聖夜を見た。
何も言わなかった。ただ、聖夜の顔を読んだ。それだけだった。
イリヤーナが、聖夜の方に来た。
「……聖夜さん」
「ああ」
「何が来ましたか。話せますか」
「……兄の声が来た」
イリヤーナが少し止まった。
「……聖夜さんのお兄さんは、亡くなっているんですね」
「ああ」
「……聞いていいですか。何を言っていましたか」
聖夜は少し考えた。話す必要はない。でも、話せない理由もなかった。
「お前が弟でよかった、と言っていた」
「……それは」
「電話で言われた言葉だ。実際に言われた。でも、俺は返せなかった。お前が兄でよかった、と言えなかった」
イリヤーナが聖夜を見た。
濃いピンクの瞳が、揺れた。
「……それは、ずっと残っているんですね」
「ああ」
「言えなかったことが」
「言えなかったことと、言わなかったことの、どちらかわからないのが、一番残ってる」
イリヤーナが少し間を置いた。
「……うちが受け取っていいですか」
「何を」
「聖夜さんの記憶を。言えなかったことを。うちが全部受け取れるわけじゃないけど……一緒に持っていたい」
聖夜は少し黙った。
「……重いぞ」
「重くても大丈夫です」
「なぜ」
「聖夜さんだけが理由です」
同じ言葉だった。でも今回は、意味が少し変わって聞こえた。最初に言われた時とは違う重さで、聖夜の中に入ってきた。
「……勝手にしろ」と聖夜は言った。
「はい」とイリヤーナは言った。
怒っているわけではないことは、イリヤーナにはわかっているはずだった。
◆
しばらくして、ユリアが聖夜の隣に来た。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
「嘘をつく時のあなたの声は、平板になります。今は平板じゃないので、本当だと思います」
「よく見てる」
「見ています。ずっと」
聖夜は少し黙った。
「……ユリアには何が来た」
ユリアが少し間を置いた。
「……氷の中にいた記憶が来ました。私がここに来る前の、何かの場所の記憶だと思います。誰もいない場所で、寒くて、でも怖くはなかった。それだけです」
「怖くなかったのか」
「一人でいることに、慣れていたから。でも今は……」
ユリアが少し止まった。
「今は、違いますか」と聖夜は訊いた。
「……一人でいることを、怖いと思えるようになりました。あなたがいるから。いなくなることを想像できるようになったから」
「それは、いいことか悪いことか」
「……いいことだと思います。怖いと思えることは、大切にしているということだから」
聖夜はユリアを見た。
氷色の瞳が、平静を保っていた。でもその奥に、かすかに何かがあった。それが何かを、今の聖夜には言葉にできなかった。
「……俺も、お前がいなくなることを想像したくない」
ユリアが少し止まった。
「……それは」
「返せなかった言葉が、兄には届かなかった。お前には、届く間に言う」
長い沈黙があった。
「……ありがとうございます」とユリアは言った。声が、平板ではなかった。
【LVR:聖夜 116→128(上昇確認) ≪純愛×3.0・ユリア由来≫】
【ユリア→聖夜:魂リンク強度 +4 記憶共鳴確認】
◆
扉が、また開いた。
部屋を出る時、サトミが最後に出た。
「……サトミに何が来た」とここなが小声で訊いた。
「……誰かに連絡を取っている記憶が来ました。現実で」
「誰への連絡」
「……わからないんです。相手の顔が見えなかった。でも、送った言葉だけが残っていて。『一人でいるのが嫌だ』と送っていました」
「……返信は」
「来ていませんでした」
ここなが少し黙った。
「……今は、来てる」とここなは言った。
サトミが「え」という顔をした。
「うちが読んでる。返信が来てる」
サトミが、少しだけ目を潤ませた。
鏡の通路が、また続いていた。
【LVR:聖夜 128、ユリア 88、美羽 68、ここな 91、ラヴィニア 77、サトミ 79、イリヤーナ 85】
――その音を、遠い場所の何かが聞き届けた。
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