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第36話 盾になる感情

 六時間後の計測まで、三時間を切った。


 


 鏡の通路を進みながら、全員がそれぞれのLVRを意識していた。口には出さないが、視野の端に数値が出るたびに、自分の状態を確認している。その癖が、第一層からずっと続いている。


 


 現在の数値を聖夜は把握していた。


 


 【LVR:聖夜 114、ユリア 83、美羽 63、ここな 61、ラヴィニア 72、サトミ 74、イリヤーナ 81】


 


 前回の計測から六時間、全員が動いてきた。サトミが74まで戻っているのは前話の結果だ。次の計測でまた最低値が誰かにマーキングされる。今の数値で言えば、ここなか美羽が候補になる。


 


「……次の計測、あーしが最低値になるかもしれない」とここなが言った。


 


「気づいてたか」


 


「靄で全員の数値を大体読めるから。うちと美羽の差が二しかない。どっちかが下になる」


 


「対策は」


 


「本物の感情で動けば上がる。それはわかってる。でも、意識してやろうとすると、計算になる」


 


「矛盾してるな」


 


「そうなんよ。考えれば考えるほど、計算になっていく。だからあーしは、なるべく考えないようにしてる」


 


「それが難しいんだろうが」


 


「難しい」とここなはあっさり言った。「でも、やってきた」


 


 ◆


 


 問題は、突然来た。


 


 通路の角を曲がった瞬間、フィールドの質が変わった。


 


 床の光が強くなった。鏡の表面が揺れ始めた。中枢エリアの時と似ているが、あの時より速い。揺れの周期が短く、空気の密度が変わった。


 


 システム通知が来た。


 


 【反照の迷宮:高密度反射ゾーン 突入】


 【このゾーンでは感情反射の強度が通常の三倍になります】


 【滞在時間:推奨十五分以内】


 


「三倍」とラヴィニアが言った。「通過できる?」


 


「長さを確認しろ」と聖夜は言った。


 


 ユリアが前方を見た。


 


「……五十メートルほどあります。全力で走れば一分かかりません。ただ、感情反射を受けながら走ることになる」


 


「受けながら走れるか」


 


「試してみなければわかりません」


 


 聖夜は少し考えた。中枢エリアの時、純愛×5.0の反射を受けた時は「少し動けない」状態になった。それの三倍が来れば、走るどころか立っていられない可能性がある。


 


「イリヤーナ」と聖夜は呼んだ。


 


「はい」


 


「このゾーンで、お前の感情が三倍で俺に来る。耐えられるかどうかわからない」


 


 イリヤーナが聖夜を見た。濃いピンクの瞳が、少し揺れた。


 


「……うちが、邪魔になりますか」


 


「邪魔とは言っていない。確認している」


 


「……聖夜さんが辛くなるのは、うちのせいです」


 


「フィールドのせいだ」


 


「でも、元はうちの感情が」


 


「イリヤーナ」と聖夜は言った。


 


 イリヤーナが止まった。


 


「感情を消せ、とは言わない。ただ、俺のために感情を責めるな。それは俺が頼んだことじゃない」


 


 イリヤーナが少し黙った。


 


「……わかりました」と小さく言った。


 


 ◆


 


 高密度反射ゾーンに入る直前、ここなが言った。


 


「……一個、試したいことがある」


 


「何だ」


 


「靄を前方に張る。反射が来る前に、靄の層で感情を一度分散させる。そうすれば直撃を防げるかもしれない」


 


「お前の靄で防げるか」


 


「わからない。でも、第三層でサトミさんの感情の方向を変えた時に、感情そのものに触れることはできたから。防げるかどうかは試してみないとわからない」


 


「リスクは」


 


「靄を大量に出すと、うちの体感に影響が出る。右手が白くなる。しばらく感覚が戻らない。前も言ったやつ」


 


「わかった。やれ」


 


 ここなが前に出た。両手を前に出して、靄を出した。白みがかった水色の靄が通常より大量に出た。靄が層を作って、前方に向かって広がっていく。


 


「……行きます」とここなが言った。


 


 全員で走った。


 


 ◆


 


 反射が来た。


 


 ここなの靄の層が、前方からの反射を受けた。靄がざわめいた。水面に石を投げ込んだ時のように、揺れが広がった。全員に届く前に、靄の中で散っていく。完全には防げていない。それでも、直撃より格段に弱くなっていた。


 


 聖夜は走りながら感じた。胸の奥から何かが広がる感覚は来た。でも、中枢エリアの時のように動けなくなるほどではなかった。


 


 五十メートルを、全員が走り抜けた。


 


 ゾーンを出た瞬間、ここなが膝をついた。


 


「ここな」


 


「……大丈夫。少し待って」


 


 右手が白くなっていた。靄を出し過ぎた時の副作用だ。指先から手首まで、色が抜けたように白くなっている。感覚が戻るまで時間がかかる。


 


「無理するな」


 


「無理じゃない。ちゃんと計算した上で出した」


 


「計算したのか」と聖夜は言った。


 


「……少しだけ」とここなが笑った。「全部感情でやると、こういう場面で足りなくなる。あーしも少しは学んだ」


 


 ◆


 


 全員が通過したことを確認して、休憩を取った。


 


 ここなの右手が徐々に色を取り戻していた。その間、イリヤーナが隣に来て、ロザリオを外した。


 


「……これ、貸します」


 


 ここなが見た。


 


「なに、これ」


 


「回復補助の効果があるんです。呪詛系のスキル補助具なんですけど、使ってない時は回復補助になる。右手に持っていると感覚が戻りやすいと思います」


 


「……いいの?」


 


「うちには聖夜さんがいるので、ロザリオがなくても大丈夫です」


 


 ここなが少し黙った。それからロザリオを受け取った。


 


「……ありがとう」


 


「お礼は要らないです。聖夜さんのパーティの人なので」


 


「あーしは聖夜の仲間だからってこと?」


 


「……それもありますが」とイリヤーナは少し考えて言った。「ここなさんが、さっきみんなを守ってくれたので」


 


 ここなが少し目を細めた。


 


「……イリヤーナって、ちゃんと見てるんだね」


 


「見ています。ずっと」


 


「誰を」


 


「全員を。でも、一番は聖夜さんを」


 


「それは知ってる」とここなは言った。「聞き方が悪かった。全員を見てるって言いたかったんだろうなって思ったから」


 


 イリヤーナが少し首をかしげた。


 


「……ここなさんも、ちゃんと見てますね」


 


「うちの仕事だから」


 


「靄で読む、ということですか」


 


「それだけじゃなく」とここなは言った。「見ようとしてる、ってこと」


 


 ◆


 


 計測まで四十分になった頃、再び通知が来た。


 


 【消去フェイズ:第二回計測 三十分前】


 【現在の最低LVR推定値:ここな 61】


 


「……あーしか」とここなが言った。


 


「六時間で三上がっただけか」と聖夜は言った。


 


「靄を大量に使ったから消耗した。LVRに影響した可能性がある」


 


「三十分で三十上げる必要がある」


 


「……きつい」


 


 三十分で三十は、かなり厳しい数字だった。第三層でもそれだけの上昇を短時間で出したことはなかった。


 


「できないことはない」とユリアが言った。「でも、何かが必要です」


 


「何かとは」と聖夜が訊いた。


 


 ユリアが少し間を置いた。


 


「……ここなさんへの、誰かの本物の感情が、反射として届けばいい。このフィールドの仕組みを使います」


 


「俺がここなへの感情を出せば、反射でここなのLVRに届くということか」


 


「それが一番効率が良い。あなたの感情係数は今最も高い状態にあります」


 


 聖夜はここなを見た。


 


 ここなが聖夜を見た。


 


「……言っておく」と聖夜は言った。「お前には、助けられてきた。第二層から、ずっと。靄で読んで、補助して、今日もさっき全員を守った。それは本当のことだ」


 


 ここなが少し目を細めた。


 


「……計算で言ってる?」


 


「計算じゃない」


 


「じゃあ、なんで今言うの」


 


「言う機会がなかった。今が機会だ」


 


 ここなが少し黙った。


 


 珊瑚色の髪が肩から前に落ちた。大きな丸目が、いつもより少し細くなっていた。


 


「……うちも、言っておく」とここなは言った。「うちが、本物の感情で最初に動けるようになったのは、聖夜がいたからだと思う。計算せずに動いても大丈夫だと思えたのは、聖夜が計算で動いてる人を止めなかったからだ」


 


「……どういう意味だ」


 


「田中さんを止めなかったこと。サトミさんを怒らなかったこと。うちが計算と感情が混ざってた時も、靄で読んだだけで何も言わなかったこと。そういうのが……うちには、安心だった」


 


 鏡の壁面が揺れた。


 


 【LVR:ここな 61→89(上昇確認)】


 


 二十八、一気に上がった。


 


「……上がった」とここなが言った。少し驚いた顔だった。


 


「反射が来たか」


 


「来た。聖夜の感情が返ってきた。……なんか、あったかかった」


 


「あったかい?」


 


「感情の反射って、温度があるんだよ。イリヤーナのは熱くて、ユリアのは冷たくて、聖夜のは……あったかかった」


 


 聖夜は少し黙った。


 


「……そうか」


 


「そうだよ」


 


 ◆


 


 計測が来た。


 


 【消去フェイズ:第二回計測 完了】


 【全プレイヤーLVR基準値クリア 強制BAN対象者:なし】


 


 二回連続で全員が生き残った。


 


 サトミが小さく息を吐いた。自分のLVRを確認して、また吐いた。


 


「……今回は、誰のせいでもなかった」


 


「そうだな」と聖夜は言った。


 


「うちが一番低かったけど、うちのためにみんなが動いてくれたわけじゃなかった。みんながみんなのために動いたら、結果的にうちも上がった」


 


「そういうことだ」


 


 サトミが少し俯いた。


 


「……第二層のサクラをやってた時は、こういうのが想像できなかった」


 


「今はできるか」


 


「……少し、できる気がします」


 


 ラヴィニアが「嫌いじゃない、その答え方」と言った。


 


 サトミが少し顔を上げて、ラヴィニアを見た。


 


 ラヴィニアが「褒めてないわよ」と言った。


 


「……わかってます」とサトミは言った。でも、口元が少し動いた。


 


 【LVR:聖夜 116、ユリア 85、美羽 65、ここな 89、ラヴィニア 74、サトミ 76、イリヤーナ 83】


 


 ――どこかで、何かが静かに見ていた。




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