第35話 炙り出しと、41という数字
中枢エリアを抜けてから二時間ほど歩いた。
鏡の通路は続いていた。曲がり、分岐し、また合流する。迷宮の構造は単純ではなく、来た道を戻ろうとすると必ず違う場所に出た。鏡の反射が方向感覚を狂わせる。自分の背中が前にも見え、前方にも自分の顔が映っている。どちらに進んでいるかを判断するには、床の傾斜か、空気の流れを読むしかなかった。
「……この迷宮、進んでるのかどうかわからなくなる」とここなが言った。
「傾斜がある」とユリアが言った。「わずかですが、前方に向かって下がっています。下に向かって進めば、奥に行けます」
「床で判断してたのか」
「最初から」
ラヴィニアが「そういう細かいことに気づくのね」と言った。感心でも皮肉でもない、ただの観察だった。
「私の役割です」とユリアは答えた。
「役割、という言い方をするのね」
「違いますか」
「……嫌いじゃない、その言い方」とラヴィニアは言った。
◆
休憩のために全員が通路の壁際に座った時、システム通知が来た。
【反照の迷宮:追加ルール 発動】
【消去フェイズ:六時間ごとに、全プレイヤーのLVRを計測します】
【LVR最低値のプレイヤー一名が、強制移送対象としてマーキングされます】
【マーキングされたプレイヤーが次の計測までにLVR30以上を上昇させない場合、強制BAN処理が実行されます】
【次の計測まで:五時間四十七分】
全員が通知を読んだ。
誰も、すぐには言葉を出さなかった。
「……最低値、か」と聖夜が言った。
全員のLVRは今この瞬間も聖夜には見えている。七人の中で最低値は、サトミの43だ。
サトミも自分の数値を見た。顔が、少し青くなった。
「……私、ですね」
誰も否定しなかった。否定できなかった。
「五時間四十七分で、三十以上上げる」と聖夜は言った。「43から73か。不可能な数字じゃない」
「でも……どうやって」とサトミが言った。「うちのLVRの上げ方は、今まで……計算で、少しずつ積み上げてきたものだから。一気に三十は」
「計算で上がるのは係数が低い」とここなが言った。「うちも最初はそうだった。でも、本物の感情が一回入ると、係数が変わる」
「本物の感情、って」
「誰かのために、計算じゃなく動くこと」
サトミが少し黙った。
「……それが、うちには難しいから、ずっと計算でやってきた」
「わかってる」とここなは言った。「でも今は五時間ある。できることを考えよう」
◆
全員で現状を整理した。
七人のLVRの状態を並べると、サトミとここなの差が大きかった。ここなは57で、サトミは43。その差の原因は、ここなが第二層以降で「うち」の声で動いてきた積み重ねにあった。計算ではなく、感情で動いた量の差だ。
「第四層のフィールドは感情を反射する」とユリアが言った。「つまり、本物の感情が大きいほど、反射で相手のLVRも上がる。サトミさん自身の感情が本物になれば、それが反射されて自分のLVRにも返ってくる可能性があります」
「自分の感情が自分に返ってくる、ということですか」
「このフィールドの仕組みとして、あり得ます」
サトミが少し考えた。
「……うちの感情で、本物のものは何だろう」
誰も答えなかった。それはサトミ自身が見つけるものだったから。
しばらく静かな時間があった。
イリヤーナが、通路の壁に背を預けて座っていた。ロザリオを両手に持って、静かに目を閉じている。祈っているのか、考えているのか、わからない。
聖夜はイリヤーナを少し見た。
「……お前は、怖くないのか」とイリヤーナに聞いた。
イリヤーナが目を開けた。
「何がですか」
「このゲーム全体。LVRがゼロになったら死ぬ、という状況」
イリヤーナが少し考えた。
「……怖いです。でも、聖夜さんがいるので」
「俺がいれば怖くない、ということか」
「……正確には、聖夜さんのそばにいたいという気持ちが、怖さより大きい、ということです」
聖夜は少し黙った。
「……それは、危ない考え方だ」
「そうかもしれません」
「俺のために怖さを消すのは、俺を守ることにはならない」
イリヤーナが聖夜を見た。濃いピンクの瞳が、少し揺れた。
「……怒っていますか」
「怒っていない。心配している」
「……心配、してくれるんですね」
「当然だ。同じパーティで動いてる」
イリヤーナが、少し俯いた。髪が肩から前に落ちた。漆黒の毛先がワインレッドに変わっていくところが、鏡に映っていた。
「……聖夜さんに心配してもらえるとは思っていなかったので」
「なぜ」
「……うちみたいなのを、重いと思う人が多くて」
「重いかどうかは関係ない」と聖夜は言った。「重くても、ここに来たなら仲間だ」
イリヤーナが顔を上げた。
何かを言おうとして、止まった。
口元が、ほんの少しだけ動いた。笑顔ではなかった。でも、何かが緩んだ顔だった。
◆
四時間が経過した。
サトミのLVRは43から51に上がっていた。八上がった。五時間で三十上げるには、まだ二十二足りない。残り一時間四十七分。
「……間に合わないかもしれない」とサトミが言った。
「まだ間に合う」とここなが言った。
「でも、あと二十二は」
「サトミさん、一個聞いていい」
「……何」
「うちのこと、どう思ってる」
サトミが少し驚いた顔をした。
「え……」
「計算とか抜きで。うちのことが好きか嫌いかとか、信用できるかどうかとか、何でもいい」
サトミが少し考えた。
「……怖い、って思ってる。ここなちゃんには全部読まれてるから。隠せない相手は怖い」
「それだけか」
「……でも、それが、嫌じゃない。読まれるのが嫌なのに、ここなちゃんに読まれるのは嫌じゃない。なんでかわからないけど」
「わかった」とここなは言った。
「え、何が」
「サトミさんがうちのこと信用してる理由が」
「そんなこと言ってない」
「言ってないけど、靄で出てる」
サトミが少し赤くなった。
「……読むな」
「読まないと助けられないから」
少し間があった。
「……ありがとう」とサトミが言った。今度は、さっきよりも低い声で言った。計算の入っていない声だった。
ここなの靄が、わずかに揺れた。
【LVR:サトミ 51→59(上昇確認)】
「上がった」とここなが言った。「本物が入った」
サトミが自分のLVRを確認した。
「……八上がった」
「あと十四。残り一時間四十六分。いける」
サトミが少し唇を噛んだ。
「……うち、なんで今まで計算でやってきたんだろう」
「怖かったからじゃないの」とここなは言った。「本物を出して、それが届かなかった時が怖かったんじゃない?」
サトミが答えなかった。
答えないことが、答えだった。
◆
残り三十分。
サトミのLVRは67まで上がっていた。あと六。
「……あと六だ」とここなが言った。「もう少し」
「でも、どうすれば」
「誰かのために、何かしろ。計算じゃなく」
サトミが周囲を見渡した。
美羽が疲れた顔で壁に背を預けていた。会長モードも解けていて、現実人格のままだ。目の下に疲労の色がある。
サトミが、美羽のそばに行った。
「……大丈夫ですか」
美羽が少し顔を上げた。
「……疲れていますが、動けます」
「水、ありますか。うちのをどうぞ」
サトミが自分の水筒を差し出した。
美羽が少し驚いた顔をした。
「……いいんですか」
「うちはまだあるから」
本当はそれほど余裕があるわけではなかった。でも、計算していなかった。差し出してから、計算していなかったことに気づいた。
美羽が受け取った。
「……ありがとうございます」
「いえ」
【LVR:サトミ 67→74(上昇確認)】
七上がった。
計測まで、二十一分。
「……間に合った」とサトミが言った。
声が、かすれていた。
ここなが「よかった」と言った。外向きの「あーし」ではなく、「うち」の声で言った。
【消去フェイズ:第一回計測 完了】
【全プレイヤーLVR基準値クリア 強制BAN対象者:なし】
通知が来た。
全員が息を吐いた。
サトミが膝に手をついて、少し前に屈んだ。泣いているのかと思ったが、違った。ただ、力が抜けた姿勢だった。
「……一人でいる時間が長すぎて、誰かのために動くのを忘れてた」とサトミは言った。
誰にも向けていない言葉だった。
「次の計測は六時間後だ」と聖夜は言った。「その前に先に進む」
「はい」とサトミが答えた。
立ち上がった。さっきより、少しだけ背筋が伸びていた。
【LVR:聖夜 114、ユリア 82、美羽 62、ここな 60、ラヴィニア 71、サトミ 74、イリヤーナ 80】
――何かが、微かに笑った気がした。
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