第34話 感情が、返ってくる
光の柱に近づくにつれて、鏡の質が変わった。
通路の鏡は歪んでいたが、中枢エリアの壁面は完全な平面だった。歪みがない分、映り方が正確だった。自分の顔が、自分の顔のままで返ってくる。それがかえって不快だった。自分の感情が正確に映されているということだから。
「……止まれ」とユリアが言った。
全員が止まった。
「何が見えた」と聖夜が訊いた。
「鏡の表面が変化しています。光の柱に近い壁だけ、映り方が違う」
確かに、中枢に近い鏡は他と違った。表面が微かに揺れていた。水面のような揺れ方で、映像が安定していない。
「……触れたらどうなる」
「試していません。でも、感情を映すフィールドであれば、触れた瞬間に何かが起きると考えるべきです」
美羽の会長モードが口を開いた。
「接触は避けたほうが無難です。ただ、先に進むためには中枢エリアを通過する必要がある。迂回路があるかどうかを先に確認しましょう」
「迂回路は、ない」とイリヤーナが静かに言った。
全員がイリヤーナを見た。
「……この層に入ってから、ずっと一人で歩いていました。迂回できる通路は探しましたが、見つかりませんでした。全ての道がここに繋がっています」
「確認したのか」
「三日分。ここに来る前に、外周を全部歩きました」
三日。それだけの時間を、一人でこの層にいた。LVRが76あったのはそのためだ、と聖夜は思った。一人で動きながら、自分のやり方でLVRを保ってきた。
「……わかった。通過するしかない」
◆
中枢エリアに入った瞬間、システム通知が来た。
【反照の迷宮:中枢エリア 感情反射フェイズ 開始】
【このエリア内では、プレイヤーの感情が増幅されて鏡面から反射されます】
【反射強度:感情の深度に比例 反射対象:感情の送り手に最も近い存在】
「感情の送り手に最も近い存在」とユリアが読んだ。「……反射が自分に返るのではなく、感情の対象に向かうということです」
「俺が誰かへの感情を持てば、その誰かに反射が届く、ということか」
「逆も然り。誰かの感情が強ければ、その対象であるあなたに反射が来ます」
ここなが口を開いた。
「……これ、あーしのスキルで事前に測れる。誰がどの方向に感情を持ってるか、靄で確認できれば」
「できるか」
「やってみる」
ここなが右手を上げた。靄が出た。水色の薄い靄が空気に溶けて、エリア全体を包むように広がった。ここなの目が細くなった。読んでいる。
「……ユリアは聖夜に向いてる。美羽は聖夜と全体に向いてる。ラヴィニアは歌と聖夜に向いてる、比率は七対三くらい。サトミは……複数方向に散ってる。あーしは……」
ここなが少し黙った。
「うちは、全員に向いてる。聖夜に少し多め」
「俺への感情は」
「……イリヤーナ、測ってもいい?」
ここながイリヤーナを見た。
イリヤーナが静かに頷いた。
ここなの靄がイリヤーナに向かった。一秒ほどで戻ってきた。ここなの表情が変わった。
「……」
「何だ」と聖夜が訊いた。
「……聖夜に向いてる感情が、全員の中で一番大きい。桁が違う。ユリアの次に大きいと思ってたけど、違った。単純な量で言えば……イリヤーナが一番多い」
静かな告知だった。
イリヤーナは何も言わなかった。否定もしなかった。当然のことを言われたような顔をしていた。
ユリアが聖夜を見た。氷色の瞳が、わずかに動いた。
「……つまり」とユリアが言った。「このエリアで最も大きな反射が来るのは、あなたです」
「わかった」
「大丈夫ですか」
「わからない。でも、進むしかない」
◆
中枢エリアの中央に向かって歩いた。
最初は何も起きなかった。床の感触が変わった。石から、薄い氷のようなものに変わった。踏むたびに、内側から光が漏れる。体重が乗るたびに、足元の光が少し広がる。
十歩進んだところで、来た。
胸の中心から、何かが広がった。
熱ではなかった。重さに近かった。何かが圧縮されて詰まっているような、内側から押し広げられるような、感覚。呼吸がわずかに狭くなった。息を吸えないのではなく、吸うたびに何かが混ざってくる感じだった。
誰かの感情だった。
「……っ」
聖夜は足を止めた。
「聖夜」とユリアが来た。「どうした」
「……感情が、入ってくる」
「反射が来ています。誰からか、確認できますか」
確認するまでもなかった。
質が違った。ユリアの感情は知っている。ここなの感情も、美羽の感情も、ラヴィニアの感情も、この数層で何度も近くで感じてきた。全員の感情に、それぞれの色がある。
これは、どれとも違った。
一方向だった。他に向いていない。枝がない。分岐がない。全部が一点に向かって絞り込まれた感情で、その一点が聖夜だった。
量が、多かった。
第三層の反照扉で感じた愛着や悲嘆とは、重さの次元が違う。倍率の問題ではなく、根の深さが違う。どれだけの時間をかけてここまで積み上げたのか、想像できなかった。
【《エンプティ・リンク》:外部感情の反射を受信中】
【入力感情係数:純愛×5.0】
【LVR:聖夜 100→114(上昇中)】
LVRが上がった。反射を受けているだけで上がった。
「……やばい」と聖夜は言った。
「状態を教えてください」
「感情が入ってくる。量が多い。体感的に……少し動けない」
ユリアが聖夜の腕を掴んだ。
「支えます。離すな」
「ああ」
イリヤーナが前に出てきた。
「……聖夜さん。ごめんなさい」
「謝るな」
「でも、これはうちの感情が原因で」
「原因は迷宮のフィールドだ。お前の感情は悪くない」
イリヤーナが少し止まった。
「……聖夜さんは、怒らないんですね」
「怒る理由がない」
「重かったはずなのに」
「重かった」と聖夜は正直に言った。「でも、悪いものじゃなかった」
イリヤーナの瞳が、一瞬だけ揺れた。濃いピンクの色が、少し深くなった。
「……ありがとうございます」
「礼はいいと言った」
「それでも言わせてください」
聖夜は少し黙った。
「……わかった」
◆
中枢エリアを抜けるまで、全員で支え合って歩いた。
反射は聖夜だけでなく、全員に来た。ユリアにも来た。美羽にも。ここなにも。ラヴィニアは「不快だけど耐えられる」と言った。サトミは途中で膝をついた。ここなが隣に行って、靄で感情の方向を逸らすように補助した。
「……サトミさん、大丈夫?」
「……なんか、自分の感情が返ってきて、気持ち悪かった」
「反射が自分に来たの?」
「……感情の向き先がバラバラだから、自分自身に反射したのかもしれない」
ここなが少し考えた。
「靄で少し分散させる。感情の方向を一つに絞れると、反射も一方向になって対処しやすくなる」
「……一つに絞るって、どうやって」
「何か一個だけ考えること。帰りたいとか、会いたいとか。なんでもいい」
サトミが少し下を向いた。
「……帰って、一人じゃない場所にいたい」
「それでいい」
ここなの靄がサトミの周囲に薄く広がった。サトミの表情が少し楽になった。
「……ありがとう」
「うちのスキルが使える相手でよかった」とここなは言った。「あーし的には、助けたくて助けてるから」
サトミが顔を上げた。何か言おうとして、止まった。
「……うん」とだけ言った。
◆
中枢エリアを抜けると、また通路に戻った。
鏡は続いているが、反射の強度が落ちた。呼吸が楽になった。
聖夜は壁に背を預けて、少し息を整えた。
イリヤーナが近くに来た。遠すぎず近すぎず、ちょうどいい距離だった。
「……疲れましたか」
「少し」
「横になりますか」
「立てる」
「でも、少し顔色が悪いです」
「お前に見えるのか」
「……聖夜さんのことは、よく見えます」
聖夜はイリヤーナを見た。
真剣な顔だった。煽っていない。冗談でもない。ただ観察した結果を言っていた。
「……なぜ俺を探していた」
「聖夜さんだけが理由です」
「それは聞いた。理由を聞いている」
イリヤーナが少し首をかしげた。
「……第一層の話を聞いたんです。最初に出会った女の子を守るために、自分のLVRを全部差し出した男がいる、という話。それを聞いた時、会いたいと思いました」
「ただそれだけで」
「ただそれだけです。でも、うちには十分でした」
聖夜は少し黙った。
ユリアが聖夜の隣に来た。
「……聖夜。先に進みましょう」
「ああ」
「……イリヤーナ」とユリアがイリヤーナを呼んだ。
「はい」
「あなたの感情は本物だと思います。それは否定しません」
イリヤーナがユリアを見た。
「……ありがとうございます」
「ただ、感情が本物であることと、行動が正しいことは別の話です。それだけ覚えておいてください」
「……覚えておきます」
ユリアが前を向いた。背筋がまっすぐだった。
聖夜が歩き始めた。
【LVR:聖夜 114、ユリア 81、美羽 59、ここな 57、ラヴィニア 70、サトミ 43、イリヤーナ 79】
【反照の迷宮:中枢エリア 通過完了】
――その音を、遠い場所の何かが聞き届けた
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