第30話 勝利の翌朝と、くさびを打ち込む声
神殿の最奥部に戻って、全員が壁際に座り込んだ。戦闘の余韻というよりは、消耗の底に沈んだような静けさだった。体のあちこちが鈍く痛んで、息を整えるだけで時間がかかる。ラヴィニアは壁に背を預けて目を閉じていた。美羽は制服の袖を直しながら状況を整理しているようだった。ここなが床に横になって、天井を見上げている。
ユリアだけが、座らずに聖夜の隣に立っていた。
「座れ」と聖夜は言った。
「もう少しだけ立っています」
「疲れてるだろ」
「あなたが座っているので」
意味がよくわからなかったが、ユリアは本気でそう言っているのだ、と聖夜はわかっていた。隣にいることが目的で、座るか立つかは手段に過ぎない。
「……好きにしろ」
「はい」
ユリアが、静かに壁に背を付けた。立ったままで、肩だけが少し聖夜に近づいた。触れるか触れないかの距離で止まった。
【HP:聖夜 51/100、ユリア 58/100、美羽 66/100、ここな 55/100、ラヴィニア 49/100】
【LVR:聖夜 88、ユリア 71、美羽 54、ここな 52、ラヴィニア 61】
◆
夜が明けた。
第三層の空は夜でも昼でも同じ色をしているが、光の質がわずかに変化する。明け方になると、神殿の氷の壁が少しだけ白みを帯びて、光を拡散させるように輝く。それが第三層なりの「朝」だった。
起き出すと、ここなが「審判いつ来るの?」と言った。
「第二層では、クリアから六時間後だった」とユリアが答えた。
「じゃあまだある。何かやることある?」
「回復だ」と聖夜は言った。「HPが全員五十台まで落ちてる。動ける状態にしておく」
「了解。あーし、回復アイテムまだ二つある」
「使っておけ。審判でまた何があるかわからない」
全員が各自の状態を確認して、アイテムを使った。ラヴィニアは自分のアイテムを一つ使って、少し表情が楽になった。美羽が「お水を分けます」と言って、水筒を回した。誰かがこういう細かいことをする人間だったことを、聖夜はいつも後になって気づく。
◆
問題は、二時間後に来た。
聖夜が壁際で目を閉じていると、近くで声がした。女の声だった。ユリアではない。ここなでもない。ラヴィニアでもなかった。
目を開けると、少し離れた場所に、別のプレイヤーが立っていた。
黒髪を後ろで一つに結んだ女だった。
第二層で、ケンのグループの中にいた人物だ。サクラだと、ここなが特定していた相手だった。
聖夜はすぐに体を起こした。
「……ここにいたんだ」と女は言った。声は柔らかかった。敵意のない声で、むしろ安心したような響きがあった。「よかった。第三層で合流できるかもしれないと思ってた」
「あなたは」と聖夜が言った。
「サトミ。一人で来てる。ケンさんのグループとは審判前に別れた」
「なぜ別れた」
「大きいグループのほうが、かえって動きにくかったから。第三層の構造的に、人数が多すぎると感情の方向性がバラバラになって、扉が開きにくい。それを説明しても、ケンさんたちには伝わらなかった」
説明の仕方が自然だった。嘘っぽくなかった。それが逆に、聖夜の中で静かに警戒を引き上げた。
ユリアが音もなく聖夜の隣に来た。
「……おはようございます」とサトミはユリアに言った。
ユリアが短く頷いた。
「聖夜さんのパーティ、強いですね。ボスも倒したって聞きました」とサトミが続けた。「……すごい。一人でここを切り抜けてきたんですよね、ユリアさん」
「二人です」とユリアが言った。「最初から聖夜が一緒でした」
「そうか……でも正室って、大変じゃないですか。あなたのあとにどんどん人が増えてきて」
ユリアの表情が変わらなかった。変わらないまま、視線だけが少し動いた。
「大変とは思っていません」
「そう、ですか。私は……」とサトミが少し声を落とした。「一人でいるのが怖いから、そういう関係になれたらと思ってしまって。でも正室制度があるなら、最初に契約した人が一番強いですよね。途中から来た人は、どれだけ感情があっても、序列では勝てない」
「序列で話していません」とユリアが言った。
「でも、ゲームのシステムは序列で動いていますよ。正室の承認がなければ、他の人はどれだけ感情があっても半分しか認められない。つまり……正室が決めているということです」
さりげなかった。攻撃的ではなかった。ただ、事実として正確なことだけを言っていた。
聖夜は口を開こうとした。
先にユリアが動いた。
「……聞いていいですか」とユリアはサトミに言った。
「何でしょう」
「あなたが言っていることは事実です。システムは序列で動く。私の承認が重要になる場面もある」
サトミが少し首を傾けた。
「……でも」とユリアが続けた。「あなたが私に話しかけているのは、私を動揺させるためですか、それとも本当にパーティへの参加を求めているからですか」
静かな問いだった。感情的ではなく、ただ直線的に、核を突いた。
サトミが一瞬だけ目を細めた。
「……両方、かもしれません」とサトミは言った。
「正直ですね」
「嘘をついてもあなたには伝わる気がして」
「……それが、あなたの正直な判断なら」とユリアが言った。「私は動揺していません。あなたが言ったことは全部、自分でも考えていたことです」
「え」
「途中から来た人間が、先にいた人間と同じ感情を持てるかどうか。私にはわかりません。でも、聖夜の判断を信じています。それだけです」
サトミが少し黙った。
◆
ここなが後ろから近づいてきた。
珊瑚色の髪が揺れて、大きな丸目がサトミをじっと見ていた。ギャルの外向きの顔ではなく、「うち」の目をしていた。
「サトミさん、一個聞いていい」
「……何ですか」
「あーしのスキルで、靄の形を読める。人が計算で動いてるか、感情で動いてるかを判別できる。今のあなた、両方混ざってる。計算の部分は見えてる。でも感情の部分も、ちゃんとある」
サトミが何も言わなかった。
「だから聞く。あなたが本当に怖いのって、正室制度のことじゃなくて、一人でいることですよね。今も、一人だから」
長い沈黙があった。
「……そうです」とサトミは言った。声が、少し変わった。さっきまでの柔らかい計算の声とは違う、何か別の質の声が出てきた。「第二層でずっと一人で動いてた。誰かのグループに入っても、本当の意味では一人だった。それが……怖かった」
「わかった」とここなが言った。「じゃあ、その話をしよう。ユリアへの揺さぶりじゃなくて、あなた自身の話を」
サトミが目を伏せた。
◆
聖夜は少し離れた場所から、その会話を見ていた。
ユリアが聖夜の方を向いた。目が合った。
「……どうする」とユリアが小声で訊いた。
「ここなに任せる。あいつが読んでる」
「……私は、動揺していないと言いました。本当です」
「知ってる」
「……でも」とユリアが少しだけ声を落とした。「今、自分がここにいる理由を、もう一度確認したくなりました」
「何のためにいる」
ユリアが少し間を置いた。
「……あなたのためです。それは変わりません。変わらない、という確信が今より少し強くなりました」
「なぜ強くなった」
「……揺さぶられたからです。揺れなかったので」
聖夜は少し黙った。
「……そうか」
ユリアの指先が、聖夜の手の甲に触れた。一瞬だけ触れて、離れた。
それだけだった。
【LVR:聖夜 88→94 ≪純愛×3.0・ユリア由来≫】
【ユリア→聖夜:魂リンク強度 +3 覚醒余波確認】
通知が視野の端に出て、消えた。
遠くで、ここなとサトミの話し声が続いていた。ラヴィニアが目を開けて、その様子を静かに見ていた。
――どこかで、何かが静かに見ていた。声
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