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第9話:正解のない世界

大樹が出て行ってから、三日が過ぎた。

部屋は、恐ろしいほどに静かだった。テレビの音も、誰かのいびきも、タバコの匂いもしない。ただ、冷蔵庫の低いモーター音だけが、等間隔に時を刻んでいる。

亜乃はシフト以外の時間は一歩も外に出ず、ただ布団にくるまって天井を眺めていた。

不思議と、涙は出なかった。悲しいのか、寂しいのかすらわからない。ただ、体の中身をすべてくり抜かれて、風通しの良い空洞になってしまったような、奇妙な浮遊感だけがあった。

ふと起き上がり、洗面所に向かう。

鏡の前に立ち、そこに映る自分自身をじっと見つめた。

ひどく青白い肌、光の宿っていない虚ろな目、への字に結ばれた薄っぺらい唇。人相の知識などなくても、それが「自分の足で立てない、中身のない人間の顔」であることくらいは、痛いほどによくわかった。

視線を落とし、水栓の縁に置いた自分の両手を開いてみる。

か細い指先。手のひらに刻まれた皺は浅く、生命線も運命線も、どこかぼやけて途切れ途切れに見える。誰かに縋りつくためだけに伸ばしてきたこの手は、結局何も掴むことができなかった。

おもしろいくらいにすれ違う手と手の間。

涼とも、大樹とも、私はまともに手を繋ぐことすらできていなかったのだ。相手の体温を通して、自分の空虚さを埋めようとしていただけ。

「……空っぽだね」

ひび割れた自分の声が、タイル張りの壁に反響した。

妄想の神様だった涼は、ただの底意地の悪い男だった。

現実の逃避先だった大樹は、ただの寄生虫だった。

彼らを失った今、私には何が残っているのだろう。

生きている意味は? 何が楽しいのか?

答えは「何もない」だった。

私は、誰かの特別になりたかったわけじゃない。ただ、「何も持っていない自分」を直視するのが怖くて、誰かに依存するという名の麻酔を打っていただけなのだ。

蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。

タオルで顔を拭い、もう一度鏡を見る。水滴の滴る顔は、相変わらず無様で、ちっぽけだった。

でも。

この惨めさも、この空っぽな心も、今度こそ誰のせいでもない、私自身のものだ。

正義も犠牲もないそんな世界。

正解のない世界。

この世界には、私を無条件で救い出してくれる白馬の王子様もいなければ、共に堕ちてくれる都合の良い共犯者もいない。愛だの絆だのという言葉でパッケージされた、美しい正解なんて、最初からどこにも用意されていなかったのだ。

窓の外を見ると、今日もまた濁った空が広がっている。

かつては、それを役に立たなくなった空だと見下し、絶望の象徴だと思い込んでいた。

けれど、今は少しだけ違って見える。

空は、ただそこにあるだけだ。夕焼けがぼやけていようが、濁っていようが、空は誰かのために色を変えたりはしない。世界はただ、無関心に存在しているだけ。

その圧倒的な「無関心」が、今の亜乃にとっては、奇妙なほどに心地よかった。

誰も私を見ていない。誰も私に期待していない。誰も私を救わない。

まだ何だってできるよ。

かつて涼の笑顔を妄想して呟いたその言葉が、今度は全く違う重さを持って胸の奥で響いた。

何もないからこそ、もう失うものは何もない。誰にも依存せず、ただ息をして、ご飯を食べて、眠る。そんな動物のような、意味のない日々を一から始めてもいいのではないか。

亜乃は、ゆっくりと自分の両手で、自分の両肩を抱きしめた。

冷たかった。でも、確かに脈を打っている。

確かなこの僕を 僕を 君に。

君、というのは、他の誰でもない。鏡の向こうにいる、不格好に生きている私自身だ。

それでも届けるよ。

このどうしようもない現実を、正解のない世界を、ただ歩いていくために。

亜乃は、数日ぶりにカーテンを全開にした。

部屋の中に、ぼんやりとした午後の光が差し込んでくる。埃の舞う六畳一間で、彼女は小さく、けれど確かに、自分自身の足で立っていた。

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