第8話:揺れ動く言葉の間
アパートの鉄のドアが、やけに重かった。
鍵を開けて中に入ると、いつものように換気扇の下でタバコを吸う大樹の背中があった。数時間前までなら、その丸まった背中に「私の居場所」を見出そうと必死に取り繕っていたかもしれない。
しかし、今の亜乃の目には、ただの「寄生虫の背中」にしか見えなかった。
妄想の中の神様だった涼は、女から金を搾取する冷酷な男だった。
そして目の前にいる男もまた、私から金と生活を搾取している。違うのは、涼が圧倒的な強者として女を支配していたのに対し、大樹はみすぼらしく私に縋りついているという点だけだ。
「お、おかえり。……って、お前、手ぶら?」
夕飯のコンビニ弁当がないことに気づき、大樹が不満げに眉をひそめた。
「……大樹、荷物まとめて」
亜乃の口から出たのは、ひどく低く、自分でも驚くほど冷たい声だった。
大樹は一瞬きょとんとした後、ニヤリと笑って戯けてみたりして、亜乃の肩に腕を回そうとした。
「なんだよ、怒ってんのか? 弁当くらいでさぁ。ごめんって、明日俺が美味いもん奢ってやるから」
「触らないで」
亜乃は、伸びてきた大樹の手を力一杯振り払った。
パンッ、と乾いた音が狭い部屋に響く。宙を泳いだ大樹の手と、拒絶した亜乃の手。
おもしろいくらいにすれ違う手と手の間。もはや、二人の間に交わる体温は一ミリも残されていなかった。
「……は? なんだよ急に。頭おかしくなったのか?」
大樹の声に怒りが混じる。亜乃は靴を脱ぐこともせず、玄関に立ったまま大樹を真っ直ぐに見据えた。
「頭がおかしかったのは、ずっと前からだよ。涼さんのことも……あんたのことも」
「リョウ? 誰だよそれ。男か? お前、俺がいながら他の男と……」
「出てって。今すぐ」
亜乃は部屋の隅にあった大樹のボストンバッグを掴み、その中に散らかっていた彼の服や私物を無造作に詰め込み始めた。
「おい、ふざけんなよ! 急に出てけって言われても行くあてなんかねぇよ!」
「知らない。パチンコ屋にでも住めばいいじゃない」
「亜乃! お前、本気で言ってんのか!?」
大樹は慌てて亜乃の手を止めようとする。怒鳴り散らしても亜乃が怯まないのを見てとると、今度は態度を急変させ、すがるような情けない声を出した。
「悪かった、俺が悪かったよ! ちゃんと働くから。パチンコもやめる。お前を一人にしないから、な? 俺たち、ずっと一緒に支え合ってきただろ?」
大樹の口から次々と飛び出す、言い訳と懇願。
揺れ動く言葉の間には、ただ「自分を見捨てないでくれ」という身勝手な自己保身しか詰まっていなかった。
「支え合う……? あんたが私から吸い取ってただけでしょ。私も、一人になるのが怖くて、あんたっていうゴミ箱に自分を捨ててただけ」
あぁ 二人はきっと馬鹿さ 馬鹿さ。
一人で立って歩くのが怖くて、お互いの足首を鎖で繋ぎ合って「これで転ばないね」と笑い合っていただけの、救いようのない馬鹿。
「俺は……俺は本気でお前のこと……!」
「それを『愛』って呼ぶのは、もうやめようよ」
亜乃は、荷物を詰め終えたバッグを大樹の胸に力強く押し付けた。
それは愛だ 愛だ。
そう思い込むことでしか、この惨めな現実をやり過ごせなかった日々は、今日で終わりだ。涼という偶像が打ち砕かれた今、もう麻酔は効かない。痛みを誤魔化すことはできないのだ。
「……っ、このクソアマが! 勝手にしろ! お前みたいな暗くてつまんねぇ女、こっちから願い下げだ!」
大樹は顔を真っ赤にして吐き捨てると、バッグを乱暴にひったくり、ドアを蹴り開けて出て行った。階段をドスドスと下りていく足音が、次第に遠ざかっていく。
静寂が、鼓膜を痛いほどに圧迫した。
タバコの煙の匂いだけが残る、六畳一間の空っぽの部屋。
亜乃はその場にへたり込み、冷たいフローリングに手をついた。
もう、誰もいない。依存する現実の男も、逃避するための妄想の男も、完全に失った。
正義も犠牲もないそんな世界に、たった一人で放り出された。
これからは、何の鎮痛剤もなしに、この正解のない世界を、自分の足で歩いていかなければならない。
「……あ、あはは……」
乾いた笑い声が、誰にも聞かれることなく部屋に吸い込まれていく。
窓の外は完全に夜の闇に包まれており、ぼやけた夕焼けの残骸すら、もうどこにも見当たらなかった。




