第7話:正義も犠牲も交う世界
その日、亜乃は見てはいけないものを見た。
どんよりとした鉛色の雲が、街全体を重く押し潰しているような金曜日の夕暮れ。役に立たなくなった空の下、いつものようにカフェを出た涼の後ろ姿を、亜乃は少し離れた距離から無意識に目で追っていた。ストーカーのような真似をするつもりはなかった。ただ、もう少しだけ、あの完璧な背中を眺めていたかったのだ。
涼は駅へと向かう大通りから外れ、人通りの少ない裏路地へと足を踏み入れた。亜乃も角の陰に隠れるようにして立ち止まる。
裏路地の先には、一人の若い女が立っていた。
派手なメイクに、季節外れの薄着。女は涼の姿を認めるなり、すがりつくように彼の腕を掴んだ。
「涼、お願い、電話出てよ! 私、もうどうしたら……っ」
女の悲痛な声が、湿った路地に響く。
亜乃の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。涼の恋人だろうか。いや、そんなはずはない。私の神様である彼が、あんな安っぽい女と関わりがあるはずが……。
「触んなよ、汚らしい」
氷のように冷たい、そしてひどく苛立った声。
亜乃が息を呑んだ次の瞬間、涼は女の体を乱暴に突き飛ばした。女はアスファルトに無様に尻餅をつき、ヒステリックに泣き叫び始める。
「なんでよ! あんなにお金貸したのに! 私のこと愛してるって言ったじゃない!」
「勘違いすんなよ。俺がお前みたいな底辺の女を相手にするわけないだろ。金ならそのうち返す。だから二度と俺の前に現れるな」
涼はポケットから数枚の千円札を無造作に取り出すと、泣き崩れる女の顔に投げつけた。ひらひらと舞い散る紙幣。
亜乃は、自分の目が信じられなかった。
そこにいたのは、静かに本を読む高潔な青年でも、無垢な笑顔を見せる王子様でもなかった。女を金づるにし、用済みになればゴミのように捨てる、最低の男。
涼が女を軽蔑しきった目で見下ろした時、その顔が亜乃の視界に鮮明に映った。
怒りと嫌悪で歪み、眉間に深い皺が刻まれた、醜悪な表情。
君の皺くちゃな顔をさ。
あんなに美しかったその顔が、今はただひどく醜い、生々しい人間のそれだった。
私を救ってくれると信じていたあの笑顔は、最初から存在しなかったのだ。勝手に理想のパーツを繋ぎ合わせて、私が脳内で作り上げただけの怪物。
浮かばせるたび、まだ何にでもなれるよ。
……なれるわけがない。
彼は、大樹と同じだ。いや、大樹よりもずっとタチの悪い、冷酷な現実そのものだった。
足元から、ガラガラと音を立てて何かが崩れ落ちていく。
私が命綱のように握りしめていた「絶対的な愛」が、泥水の中に溶けていく。
正義も犠牲も交うこんな世界。
女は自己犠牲を愛だと勘違いし、涼は自分の正義(欲望)のために女を搾取する。誰もが傷つけ合い、利用し合いながら泥沼を這いずり回っている。美しいものなんて、この世界のどこにもなかったのだ。
涼が舌打ちをして、路地の奥へと消えていく。女は散らばった千円札を拾い集めながら、まだ泣き続けていた。
亜乃はその場にへたり込みそうになるのを必死に堪え、来た道をフラフラと引き返した。
正解のない世界。
何が正しいのか、何が間違っているのか。
私は、狂信的な妄想に逃げ込むことで、自分だけは「特別な痛み」を知っているのだと思い上がりたかっただけだ。大樹との薄汚い生活から目を背けるために、彼という偶像を捏造しただけ。
それでも届けるよ。
……どこへ? 誰に?
届ける先なんて、最初からなかった。
すべてが嘘だった。私の狂気も、愛も、生きる意味も。
残されたのは、ただ無様に呼吸を続ける、空っぽで惨めな自分自身だけ。
確かなこの僕を 僕を 君に。
亜乃の目から、初めて涙がこぼれ落ちた。それは誰かのためでも、悲しみのためでもない。自分の愚かさと、圧倒的な孤独に対する、絶望の涙だった。
薄暗いネオンが点き始めた疲れた街並みに、亜乃の細い肩が震える影だけが、黒く長く伸びていた。




