第6話:戯けてみたりして
「おい亜乃、起きろって! ほら、お前の好きなプリン買ってきてやったぞ!」
乱暴に肩を揺さぶられ、亜乃は浅い眠りから引きずり出された。
時刻は夜の九時。パチンコ屋の喧騒の匂いを全身に染み込ませた大樹が、ビニール袋を片手に上機嫌で立っていた。どうやら今日は大勝したらしい。
「ほら、食えよ」
大樹はベッドの上にコンビニの高級プリンを放り投げると、自分は缶ビールをプシュッと開けて喉に流し込んだ。「あーっ」と下品な声を出して笑う彼の顔は、心底楽しそうだった。
「今日さ、すげえ連チャンしてさ。店員もビビってたぜ。……おっ、なんだよその顔」
寝起きの無表情な亜乃を見て、大樹は戯けてみたりして、亜乃の頬を両手で挟んでぐにぐにと引っ張った。普段なら鬱陶しがるか、あるいはその体温に安心感を覚えていたはずのスキンシップ。けれど今の亜乃は、彼の指先から漂うタバコと機械油の匂いに、微かな吐き気すら覚えていた。
「来月からはマジでバイト探すから。そしたらこのボロアパート出て、もっとマシなとこ引っ越そうぜ。な?」
調子の良い時だけ飛び出す、実体のない未来の約束。
揺れ動く言葉の間に、真実など一つも隠されていないことなど、もう痛いほど分かっている。パチンコで勝った時だけの、安い高揚感から来るただの戯言だ。
あぁ 二人はきっと馬鹿さ 馬鹿さ。
数週間前までの私なら、この中身のない言葉にすがりついて、無理やりにでも笑顔を作っていただろう。お互いに嘘をつき合い、依存し合い、底辺を這いずり回るこの共犯関係を、それは愛だ 愛だと必死に思い込もうとしていた。
でも、今は違う。
「……大樹」
「ん?」
「何が、楽しいの」
亜乃の冷ややかな声に、大樹はビールの缶を口から離した。
「は? 何がって、勝ったから楽しいに決まってんだろ」
「そういうことじゃなくて。……生きてて、何が楽しいの。このまま、ずっとこんなこと繰り返して、それで最後はどうなるの?」
大樹の顔から、へらへらとした笑みがスッと消えた。気まずさと、苛立ちが入り混じったような、酷く人間臭くて見苦しい顔。
「……なんだよ、せっかく機嫌良く帰ってきたのに。お前、最近マジで暗いぞ。なんか文句あんのかよ」
大樹は舌打ちをすると、飲みかけのビールをテーブルにドンと置き、ベランダへとタバコを吸いに出て行ってしまった。
ガラス戸の向こうで、寒空の下、苛立たしげに煙を吐き出す大樹の背中。
その背中は、亜乃が日々妄想の中で想い描いている「彼」の背中とは、あまりにも違っていた。
大樹の背中には、生活の垢と、諦めと、みみっちい自己防衛がへばりついている。対して涼の背中は、いつも凛としていて、この薄汚い現実から切り離された絶対的な孤独と美しさを纏っていた。
私はなぜ、こんな男と一緒にいるのだろう。
いや、大樹が悪いわけではない。私自身が空っぽだから、手近なゴミ箱に自分を捨てていただけなのだ。
正義も犠牲も交うこんな世界で、誰もが何かをすり減らしながら、ギリギリのところで立っている。
大樹にとってはパチンコが、他の誰かにとっては仕事やお金が、生きるための鎮痛剤なのだろう。
ならば、私にとっての鎮痛剤は。
亜乃は、放置されたプリンには目もくれず、スマートフォンを握りしめた。
画面の向こうには、冷たい瞳をした涼がいる。絶対に手の届かない、私を見ることのない彼。
彼が私を愛してくれる日など、永遠に来ない。この感情は、どこにも辿り着かない。
それでもいい。いや、だからこそいいのだ。現実の汚らしい愛ごっこに比べれば、この純粋な絶望の方が、よほど私の魂を震わせてくれる。
正解のない世界。
何が正しくて、何が間違っているかなんて、もうどうでもいい。
大樹の偽物の優しさよりも、涼の氷のような無関心の方が、今の私にとっては圧倒的に「真実」だった。
それでも届けるよ。
心の中で、静かに決意する。この狂った感情を、誰にも知られず、ただ一人で抱きしめ続けよう。
確かなこの僕を 今日も。
画面の中の、あの人を想って。
これは誰にも侵されない、僕の 僕の 愛だ。
冷え切った部屋の中で、亜乃は一人、ひっそりと微笑んだ。
それは、ようやく自分だけの「生きる意味(狂気)」を見つけた、歪で無垢な笑顔だった。




