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第10話:確かなこの僕を君に

アパートのドアを開けると、少し生ぬるい春の風が亜乃の頬を撫でた。

外に出るのは何日ぶりだろうか。階段を降り、見慣れたアスファルトを踏みしめる。

見上げれば、役に立たなくなった空は、ずっと今でもぼやけた夕焼けのままだった。相変わらず世界は劇的には変わらないし、奇跡も起きない。けれど、そのぼやけたグラデーションが、今の亜乃には不思議と優しく感じられた。

あてもなく、疲れた街並みを歩く。

すれ違う人々は皆、それぞれの重荷を背負い、足早に過ぎ去っていく。少し前の私なら、彼らを軽蔑し、自分だけは妄想の中で特別な存在なのだと見下していただろう。

あのカフェの前を通りかかった。

ガラス越しに店内を覗き込むと、奥の席には見知らぬサラリーマンが座っていた。もう、そこに涼の姿を探すことはない。彼がどこでどんな風に生きていようと、もう私には関係のないことだ。

大樹は今頃、どこかのパチンコ屋で別の誰かに甘い言葉を吐いているのだろうか。

あぁ 二人はきっと馬鹿さ 馬鹿さ。

互いの弱さを舐め合い、傷つけ合いながら、不器用に生き延びようとしていた。戯けてみたりして、必死に寂しさを誤魔化していた。あれは決して美しいものではなかったけれど、それでも私たちが生きていたという不格好な証ではあった。

揺れ動く言葉の間で、私たちは確かに何かを求めていた。

だから、もうあの泥沼の日々を憎むのはやめよう。あれは間違いなく、あの時の私にとっての精一杯の生存戦略であり、それは愛だ 愛だと思い込むことでしか立てなかった、過去の私自身なのだから。

駅前の大きなショーウィンドウに、亜乃の姿が映った。

地味な服、ノーメイクの青白い顔。お世辞にも魅力的とは言えない、ちっぽけな21歳のフリーター。

「……ひどい顔」

亜乃は、ガラスの向こうの自分に向かって、ふっと笑いかけてみた。

何日もまともに笑っていなかったせいで、顔の筋肉が強張って、ひどく歪な笑顔になった。目尻には皺が寄り、鼻の頭にシワが寄った、お世辞にも可愛いとは言えない不格好な笑顔。

でも、そのくしゃくしゃな顔を見た瞬間、亜乃の胸の奥で、小さく熱いものが弾けた。

ああ、そうか。

私が愛すべきだったのは、完璧な王子様でも、私に依存してくれる共犯者でもなかった。

こんなにも弱くて、愚かで、空っぽで、それでも必死に息をしようともがいている、この「私」自身だったんだ。

君のくしゃくしゃな顔をさ

浮かばせるたび

まだ何だってできるよ

これからは、私が私を肯定してやる。私が私を愛してやる。

誰かのために生きる意味なんて探さなくていい。「何が楽しいのか」なんて、立派な答えもいらない。ただ、この不格好な私のまま、今日を生き延びて、明日も息を吸う。それだけで十分じゃないか。

できるよ。

できるよ。

できるよ。

呪いのように唱えていた言葉が、今は確かな熱を持って、亜乃の全身を巡っていく。

ショーウィンドウから離れ、亜乃は再び歩き出した。

足取りは、数日前よりもずっと軽かった。行くあてなんてない。これからどうやって生きていくのか、何の計画もない。

正義も犠牲も交うこんな世界で。

誰かが誰かを踏み台にし、それでも誰もが救いを求めている。

正解のない世界。

私が出したこの答えだって、明日には変わっているかもしれない。

それでも届けるよ。

大きく息を吸い込む。冷たい空気が肺を満たし、私が生きていることを強く実感させる。

誰に認められなくてもいい。誰の記憶に残らなくてもいい。

私は私のために、この不完全な世界を歩いていく。

確かなこの僕を 今日も。

僕の 僕の 愛だ。

完全に陽が落ち、ネオンが灯り始めた街の雑踏の中へ、亜乃は迷いのない足取りで溶け込んでいった。

彼女の背中は、もう誰の面影も追っていなかった。

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