第2話:思い出す背中
深夜のコンビニエンスストア。等間隔で並ぶ蛍光灯の無機質な光の下で、亜乃はただ機械のようにバーコードをスキャンしていた。
「ピッ」「ピッ」という単調な電子音が、深夜の静寂に吸い込まれていく。深夜帯の客は、どこか人生に疲れ切ったような顔をしている人が多い。カゴいっぱいにストロング系の缶チューハイを詰め込むサラリーマン、カップラーメンを一つだけ買って無言で立ち去る若者。彼らの顔を見るたびに、亜乃は鏡で自分自身の顔を見せられているような錯覚に陥った。
——何が楽しいんだろう。
レジの画面に表示された金額を見つめながら、亜乃はふと自問する。息をして、ご飯を食べて、排泄して、眠る。ただそれだけの繰り返し。何のために生きているのか。その答えを持っている人間なんて、この世界にどれだけいるのだろう。少なくとも、この深夜のコンビニには一人もいない気がした。
早朝のシフト交代を終え、外に出る。冬の名残がある冷たい空気が肺に入り込んできた。
いつから、こんな風に心がすり減ってしまったのか。落とした日々探しながら、亜乃はアスファルトのひび割れを見つめて歩いた。ふと顔を上げると、ビルの隙間から見える空は、朝だというのに白茶けていて、そっと見渡すぼやけた夕焼けのようだった。朝も夜も、今の亜乃には同じだ。どちらもただ、この疲れた街並みを無情に照らすだけの、生ぬるい光でしかない。
アパートに帰れば、きっと大樹が昨日の夜のまま、だらしない格好で眠っているだろう。帰る足取りは重かった。
亜乃はアパートとは逆の方向へと歩き出した。向かう先は、駅前の小さなカフェだ。
開店直後のその店には、まだ客はまばらだった。亜乃は一番奥の席に座り、ブラックコーヒーを頼む。そして、斜め前の窓際の席をじっと見つめた。
今日は、彼はいない。
涼がいつも座る特等席は、空っぽのままだった。
それでも、亜乃の網膜にはしっかりと焼き付いている。コーヒーカップの縁をなぞる綺麗な指先、伏し目がちに文庫本を読む横顔、そして、少しだけ丸まった思い出す背中。
彼がそこに座っている姿を想像するだけで、ささくれ立っていた心が、少しだけ凪いでいくのがわかった。
涼はどんな声で話すのだろう。どんな音楽を聴き、どんな人生を歩んできたのだろう。
きっと、大樹のようにパチンコで負けて金をせびったりはしない。亜乃の安い時給で作られた生活を、むさぼり喰うようなことはしない。彼は、この濁った世界に咲く、一輪の純白の花なのだ。
ブーッ、ブーッ。
ポケットの中でスマートフォンが下品に震えた。画面を見ると『大樹』という文字が表示されている。
『腹減った。なんか買ってきて。あと煙草』
亜乃は深くため息をつき、スマホを裏返してテーブルに置いた。
これが現実だ。どうしようもなく泥臭くて、重たくて、私の足首を掴んで離さない現実。生きる意味なんてわからないくせに、誰かに依存され、誰かに必要とされているという呪縛から逃れられない。
だからこそ、亜乃は逃避する。目を閉じ、脳内に涼の姿を鮮明に描き出す。
先日、彼が店員と話していた時に見せた、あの無邪気な笑顔。
君のくしゃくしゃな顔をさ、浮かばせるたび、亜乃は息を吹き返す。
現実の自分がどれほど惨めな底辺のフリーターであっても、彼の笑顔を妄想のキャンバスに描く時だけは、自分が特別なヒロインになれたような気がするのだ。彼にふさわしい、美しくて純粋な何かに。
まだ何だってできるよ。
心の中で、小さな声がした。それは、すり減った亜乃の魂が絞り出した、悲痛な祈りのようなものだった。
あの笑顔のためなら、私はまだ生きていける。この退屈で残酷な世界でも、あの光さえあれば、私は。
できるよ。
できるよ。
できるよ。
自己暗示のように、亜乃は心の中で繰り返した。冷めきったブラックコーヒーを喉に流し込む。苦味が舌の奥に広がる。
大樹の待つ、あの湿っぽい部屋へ帰ろう。今はただ、妄想という名の麻酔を打ちながら、この「正解のない世界」を歩き続けるしかないのだから。




