第3話:疲れた街並み
ドアを開けると、むわっとした生活臭が亜乃を包み込んだ。
万年床、脱ぎ散らかされた服、そして缶チューハイの空き缶に山盛りの吸い殻。六畳の空間は、外の冷気から完全に遮断された、淀んだ水槽のようだった。
「あ、おかえり。煙草買ってきた?」
ベッドに寝転がり、テレビのバラエティ番組を見ながらスマホゲームに熱中していた大樹が、画面から目を離さずに手を差し出す。「おかえり」の言葉に温もりはなく、ただの条件反射の音声だった。
亜乃は無言でコンビニの袋を彼のお腹の上に落とす。
「サンキュ。つか、今日帰ってくるの遅かったじゃん。シフト、朝までだろ?」
「……ちょっと、寄るところがあって」
「ふーん。金ねぇくせに」
大樹は袋から煙草を取り出すと、すぐに火をつけた。紫色の煙が、天井の染みへ向かって立ち昇っていく。亜乃はコートも脱がず、窓辺に歩み寄った。
カーテンの隙間から見下ろす世界。そこには、灰色のビル群と、無機質な車列が延々と続く疲れた街並みが広がっていた。誰もが皆、何かに追われるように生きている。働くことも、食べることも、眠ることも、ただ「死なないため」の作業でしかない。じゃあ、死なないことの先には一体何があるのだろうか。
「ねえ、大樹」
「ん?」
「生きてて、何が楽しい?」
不意に口をついて出た問いに、大樹は一瞬だけスマホを操作する指を止め、鼻で笑った。
「なんだよ急に。病んでんの? 別に、楽しいことなんてねぇよ。パチンコで勝った時と、こうやってダラダラしてる時くらいか?」
「……そっか」
あまりにも薄っぺらい回答。けれど、それはきっと真実なのだろう。
あぁ 二人はきっと馬鹿さ 馬鹿さ。
何の生産性もない日常を貪る彼も、そんな男の側にいることでしか孤独を紛らわせない私も、救いようのない馬鹿だ。
大樹は亜乃の乾いた声に少しだけ気まずさを感じたのか、起き上がって戯けてみたりして、亜乃の頬を指でつついた。
「なんだよ、暗い顔すんなって。明日こそはハロワ行くからさ。俺、本気出したら凄いんだから」
「先週も同じこと言ってたよ」
「いや、マジだって。今度こそお前に楽させてやるよ」
大樹の指先からは、ニコチンと安い整髪料の匂いがした。
信じてなどいない。揺れ動く言葉の間には、何の責任も未来も存在しないことくらい、とっくに気づいている。口から出まかせの優しい嘘。それでも亜乃は、大樹の言葉にすがりつくフリをして、小さく頷いた。
「うん。……期待しないで待ってる」
そうやって、お互いの傷を舐め合っているだけなのだ。
一人の部屋に帰りたくない。誰の記憶にも残らないまま、この疲れた街並みの一部として消えていくのが怖い。だから、たとえそれがどれほど歪み、腐りかけた関係であったとしても、誰かの体温に依存する。
それは愛だ 愛だ。
そう自分自身を洗脳しなければ、今にも心が壊れてしまいそうだった。愛という美しい言葉でパッケージしなければ、この惨めな現実に耐えられなかった。
「腹減った。弁当温めてくんない?」
「わかった」
亜乃は窓から離れ、買ってきたばかりのコンビニ弁当を電子レンジに放り込む。「ジーッ」という安っぽい稼働音が部屋に響く。
温められるのを待つ数十秒の間、亜乃の脳裏には、またしてもあの静かで美しい青年の姿が浮かんでいた。
大樹のひどい寝癖や、だらしない笑い顔、無責任な言葉を浴びるたびに、妄想の中の「涼」の姿はより一層、神聖で完璧なものへと昇華されていく。
もしも、涼が私の隣にいたら。
こんなコンビニ弁当じゃなくて、陽の当たるカフェで一緒に笑い合えていたら。
「チン」という甲高い電子音が、亜乃を現実へと引き戻した。
正義も犠牲も交うこんな世界で、私は何者にもなれないまま、今日も生きている。
温まったプラスチックの容器を取り出しながら、亜乃は偽物の愛と、本物の妄想の間で、深く、深く息を吐き出した。




