第1話:役に立たなくなった空
「なんで生きてるんだろうね、私たち」
換気扇の下で煙草をふかす大樹の背中を見つめながら、亜乃はポツリと呟いた。大樹は振り向きもせず、ただ紫色の煙を吐き出して「さあな」とだけ答えた。
時刻は午後五時を少し回ったところ。六畳一間のアパートの窓から見える空は、ひどく濁っていた。子供の頃は、夕焼けを見ると胸が締め付けられるような、どこかへ走り出したくなるような衝動があったはずなのに。今の亜乃にとって、役に立たなくなった空は、ずっと今でもぼやけた夕焼けでしかない。ただ時間が過ぎたことを知らせるだけの、無意味なグラデーションだった。
21歳。高校を卒業してから、いくつかアルバイトを転々とし、今は深夜のコンビニでレジを打っている。何が楽しいのか、何のために息をしているのか、時折ひどく分からなくなる。生きている意味なんて、考えても答えが出ないことくらい知っている。それでも、空っぽの胃袋のように、心の中にぽっかりと空いた穴が冷たい風をスースーと通すのだ。
大樹が煙草の火を灰皿に押し付け、ベッドに寝転がる亜乃の隣へともぐりこんできた。彼の腕が亜乃の腰に回る。シャンプーと、安い煙草の匂いが混ざり合う。
「飯、どうする?」
「……適当でいい。なんか買ってこようか」
「亜乃が奢ってくれるなら何でもいいや」
大樹は悪びれもなくそう言って、亜乃の首筋に顔を埋めた。大樹は元バイト先の先輩で、気がつけばこうして入り浸るようになっていた。彼には夢もなければ、定職もない。亜乃の少ない給料に寄生し、ただお互いの体温と孤独を埋め合わせるだけのために一緒にいる。
あぁ、二人はきっと馬鹿さ。馬鹿さ。
亜乃は天井の染みを見つめながら、自嘲気味に心の中で呟いた。客観的に見れば、最低な関係だということは分かっている。おもしろいくらいにすれ違う手と手の間。本当に心が繋がっているわけではないのに、離れることもできない。大樹が求めるのは亜乃の金と体温で、亜乃が大樹に求めるのは「一人ではない」という錯覚だけ。それでも、この息が詰まるような共依存のぬるま湯を、亜乃は心のどこかでそれは愛だ、愛だと思い込もうとしていた。そうしなければ、自分が崩れてしまいそうだったからだ。
しかし、大樹が隣で眠りに落ちるのを確認すると、亜乃はそっと抜け出し、スマホの画面を開いた。
画面には、今日こっそりと遠くから盗み撮りをした、ある青年の横顔が映っている。名前は涼。亜乃が昼間に時々立ち寄るカフェの常連客だ。
透き通るような白い肌、長い睫毛、そして本を読む時の伏せられた静かな瞳。彼は亜乃の泥沼のような現実とは対極にいる、美しい存在だった。もちろん、言葉を交わしたことなんて一度もない。ただ遠くから思い出す背中を反芻するだけで、亜乃の心は奇妙なほどに満たされた。
彼はきっと、教養があって、優しい人で、こんな淀んだ世界とは無縁の場所で生きているに違いない。亜乃の妄想の中で、涼は完璧な王子様として君臨していた。
現実の大樹のいびきを聞きながら、亜乃は目を閉じ、今日カフェで見た涼の顔を思い浮かべる。店員に話しかけられ、ふっと笑った時の彼の顔。
君の皺くちゃな顔をさ、浮かばせるたび、まだ何にでもなれるよ。
そう、彼が笑うと、目尻に少しくしゃっとしたシワが寄るのだ。その人間らしい、でも無垢な笑顔を思い出すだけで、亜乃のどす黒い心に一筋の光が差し込むような気がした。彼と話すことができたら。彼に触れることができたら。そう妄想の世界に浸っている時だけは、「まだ何だってできる」ような、自分が特別な存在になれたような気がするのだ。
正義も犠牲もないそんな世界。正解のない世界。
亜乃が生きている現実は、そんな理不尽で無意味なものばかりだ。一生懸命働いても生活はカツカツで、隣には怠惰な男が眠っている。
だからこそ、亜乃は目を閉じる。妄想の中の涼に向けて、心の中で呼びかける。
この虚ろな現実の中で、それでも届けるよ、確かなこの僕を、僕を、君に。
いつか彼に、本当の自分を見つけてほしい。この濁った世界から救い出してほしい。
そんな叶うはずもない妄想の羽を広げながら、亜乃は再び、役に立たなくなったぼやけた夕焼けが沈み切った夜の闇の中へ、深く深く沈んでいった。




