馬との格闘
イリゼという手駒を手に入れた私は、以前の引きこもりを反省して自分から行動を起こすようにしていた。
悪いことをしないのは絶対条件だとして、もし万が一ゲームのように罪を問われることになってしまった場合の対処法を学ぶ必要があるためだ。公爵令嬢の私が消えることで喜ぶ人は残念ながらこの世界にたくさんいるので、冤罪をかけられて表舞台から下される可能性もある。それ以外にも暗殺だってあり得る。
なのでせいぜいトラブルに対処できるだけの力をつけることにした。引きこもりだったので私は無知で力もない。このまま自分の身も守れないようじゃ宇宙の塵まっしぐらだ。
まず初めにダメ元でお父様に乗馬の訓練を受けさせてくれと打診してみた。剣術や護身術はきっと私には向いていない。純粋な筋力も体力もへっぽこな私では絶対に無理だ。習うとしたらもっと成長して体が強くなってからだろう。まぁ、成長したとして体が強くなるかは分からないけど。
なので何かあったとき逃げられるように乗馬を習うことにした。ユニベルは非力で戦闘に向いていないから、全ての危険から逃げられるように。馬さえいれば逃亡の成功率がぐんと上がるので、敵に立ち向かうよりはずっと現実的である。
お父様になぜ習いたいかの理由を聞かれたとき、部屋にこもっての勉強ばかりなので少しは外に出たいと言った。半分嘘でもう半分は本当だ。あまり信じてもらえていないようだけど、追求してこなかったのでまぁ大丈夫だろう。
結局いつもの授業は減らさず、授業の後に乗馬の訓練をするということでお許しを得ることができた。これで何かあっても馬さえいれば逃げられる可能性が格段に上がる。馬に乗るまではそう思っていたのだが、現実はあまり甘くなかった。
「ユニベル様、大丈夫ですか……?」
「な、なんとか……」
へたり込んでしまった私の背中を乗馬の先生がさすってくれる。あまりにも乗馬に向いていない自分に私はショックでいっぱいだった。
自分が引きこもりで体力がないということは自覚していたが、まさかここまでとは思わなかった。馬に乗るだけなら体力のない私にも向いているのではないかと思ったが全然そんなことはなく、むしろかなり壊滅的な有様だ。戦闘よりは希望が見えるが、あくまで戦闘よりはの話である。乗馬の才能は壊滅的と言えた。
顔を上げると、馬との格闘に敗北した私をモードリンが心配そうに見ている。ちなみにイリゼはモードリンの後ろでニヤニヤしていた。本性を表してからというもの、イリゼはたまにこのようにみんなにはバレないように私を揶揄う素振りを見せる。他の人には絶対バレないよう器用に生意気な態度を取ってくるので腹立たしいといったらありゃしない。
ただ馬に遊ばれる私の姿がかなりおかしいものだというのは自分でも分かってしまっている。今回に関しては笑わないでいてくれるモードリンと乗馬の先生が優しいのだ。
馬に乗っている間は先生が一緒に乗って支えてもらわないと重心があっちこっちにいってしまい、手綱を握り続けることもできず手の力が抜けてしまう。前世の普通の運動神経を知っている私からしてみれば、ユニベルの非力さと体力のなさははっきり言って異常だった。
「えーと……今日はこのくらいにしておかれますか?」
「いや、すみません、少ししたらまた頑張るので……」
モードリンの用意してくれた冷たい紅茶を飲みながら息を整える。剣術も体術もダメ、最後の頼みの綱だった乗馬も向いていない。
ふと、嫌な考えが頭をよぎる。ユニベルがゲームのストーリー上で裁かれるために、逃げられないように弱く作られているとしたら。ありえないだろうけど、もし本当にそうだとしたら。
「……どうしよう……」
つい不安がこぼれてしまった。小さなかすれ声だったので誰にも聞かれていないと思ったが、イリゼには聞こえていたみたいでハンカチを差し出してくれた。
「これで汗を拭ってください。……呼吸が乱れているので、深呼吸も」
「……ありがとう」
さっきまでモードリンにバレないようにニヤニヤしてたくせに、人前ではいつものすました顔で優秀なメイドでいるので文句も言えない。
「それでは少し休憩した後、もう一度馬に乗ってみましょうか。私も一緒に乗って支えさせていただきますね」
「よろしくお願いします」
乗馬の先生も見捨てないでくれるようだし、練習を続ければなんとか振り落とされなくはなるだろう。幸いゲーム本編のスタートがヒロイン十六歳、ユニベル十七歳なのであと八年ほどの猶予がある。八年もあれば私も馬で走れるようになれるはずだ。
「それではゆっくり歩いていきますね」
先生がしっかり支えてくれているので落ちる心配もない。いつもよりずっと高い目線はあまり落ち着かないが、風を感じるのは心地よかった。
「ところでユニベル様はなぜ乗馬を?」
「え?」
「あっ、すみません。気になってしまってつい……」
近年は令嬢も乗馬を嗜むことが増えているので怪しまれないと思ったのだがそんなことはないらしい。下手な理由をつけると後から面倒くさくなるので他のご令嬢たちと同じような理由を言うことにした。どうせ先生も父から探りを入れるように言われただけだろうから。
「ソレーナ様に憧れただけです。つまらない理由でしょうか」
「いえいえ! 最近はソレーナ様の影響か馬と触れ合ってくださる女性も多いので、僕も嬉しいんです」
「嬉しい?」
「はい、僕は馬が好きなので……」
ソレーナ様はこの国の三大公爵家のひとつ、エルディライト家のご令嬢だ。つまり、私と同じヒロインの前に立ちはだかるライバルポジションのキャラクターである。令嬢でありながら女騎士で、その姿は麗しく私と同じ九歳にしてあまたのご婦人を虜にしているんだとか。幼いながら剣の腕も立ち、同年代にソレーナ様に適う者はもういないらしい。つまり、男の子よりも強くてかっこいい麗人というわけだ。
ゲームでのユニベルやもう一人の悪役令嬢と違い、ソレーナ様がヒロインに恋を諦めさせようとするのは身分差や根も葉もない噂によって苦しむことになるであろうヒロインを心配してのことだった。元々ヒロインのシャーロットはソレーナ様に剣の腕を認められてゲームの舞台である貴族学園への推薦を受けやってきた。つまりソレーナ様はネタ枠令嬢でも悪役令嬢でもなく、お友達ポジションに近い存在である。一応恋愛の障害ではあるけれど。
「ユニベル様も、今日うまくできないからと言って諦めないでいてほしいんです。一人でも馬に乗れるように、僕も全力でお手伝いします!」
「……ありがとうございます」
私がここで投げ出したら、あなたの仕事も無くなるもんね……と一瞬思ったが、先生の顔は馬への愛おしさで満ち溢れていた。私が詮索だと思った乗馬をなぜ習おうと思ったのかの質問も、もしかしたら本当に先生の純粋な疑問だったのかもしれない。最近お父様のせいで深いところまで疑ってばかりだったから、もしそうなら悪いことをした。そもそもこの人は屋敷の外の人間なので、疑う必要はないのかもしれない。
「今日はありがとうございました」
「はい、また来週伺いますね!」
先生は朗らかな笑顔でそう言った。あまりにも人畜無害なその笑顔に、先ほどまで疑っていたのが馬鹿馬鹿しくなってくる。もし馬の話をする先生のこの表情まで演技だったら、彼はとんでもない名俳優だ。
初日の乗馬訓練を終え、フラフラになりながら着替えてベットに倒れ込んだ。もうすでに体が痛いので明日は相当な筋肉痛に苦しむことになるだろう。そのことが今から少し怖い。
「お嬢様、お疲れ様です。乗馬はいかがでしたか?」
「楽しかったです。難しかったですけど……」
乗馬の前に、体力をつけないといけないなと日頃の怠惰を反省した。乗馬なんて前世も含めて初めての経験だったので、楽しかったけどこのままでは逃亡中に馬に振り落とされて死んでしまう。宇宙の塵になるよりはよっぽど穏やかな死に方だけど。
「うふふ、お嬢様ったら本当に楽しかったんですねぇ」
「はい、まぁ」
「先生も爽やかで素敵な方でしたし、馬に乗るお二人はとても絵になっていましたわ」
モードリンの言い方に含みを感じたがあえて無視することにした。私は宇宙の塵にならないためにも恋愛ごとから極力離れて生きていくべきなので、モードリンの期待しているようなことは起きない。
「馬って結構可愛いんですね。遠くから見ると少し怖そうだなって思ってたんですけど」
「うふふ、そうなんですねぇ」
駄目だ、何を言っても微笑ましいような顔で見られてしまうのでもう黙ろう。こうなった年上のお姉さんのからかいには絶対に勝てないことを前世の親戚付き合いで実証済みだ。