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第9話 2つのロザリオ

 トルガ・ラグレイは、先ほどクラルシアと向き合った応接室によく似た客室へ通された。


 ただ、そこは先ほどの部屋よりも幾分か私的な空気を帯びていた。


 小さな寝台。


 机。


 柔らかそうな椅子。


 宿屋の一室にも似た造りだったが、磨かれた床と白い壁だけは、やはり王宮のものだった。


 クラルシアは、その部屋で彼を待っていた。


 ロゼは彼女のすぐそばに控えている。


 先ほどのように親衛隊を並べてはいない。


 だが、必要とあれば一息のうちにトルガを斬れる位置だった。


 その表情は硬い。


 トルガ・ラグレイを信用したわけではない。


 ただ、女王の命に従っているだけだった。


 クラルシアに促され、トルガは向かいの席に腰を下ろした。


 椅子が思いのほか柔らかく、わずかに眉をひそめる。


 王宮の白い壁にも、磨かれた床にも、その男はまるで馴染まなかった。


 全身を黒に包んだ姿は、この部屋に置かれた異物のようだった。


 クラルシアは小さく息を呑み、それから困ったように目を伏せた。


「……先ほどは、失礼いたしました」


 トルガは片眉を上げた。


「倒れたことを謝るのか」


「あなたを拘束させてしまいましたから」


「俺に謝る前に、自分の身体をどうにかしろ」


 あまりに遠慮のない言葉に、ロゼの視線が鋭くなる。


 だが、クラルシアは怒らなかった。


「あなたは、本当に……そのまま言うのですね」


 感心しているのか、呆れているのか、自分でも分からない声だった。


「回りくどい言い方は嫌いだ」


「王宮では、珍しい方です」


「だろうな」


 トルガは、興味があるのかないのか分からない顔で答えた。


 実際、興味はないのかもしれない。


 クラルシアは一度、胸の前で指を重ねた。


 言わなければならない。


 自分がこの男を呼んだ理由を。


 聖ルミナ教会の名を使った理由を。


 そして、この男が何に巻き込まれたのかを。


「トルガ・ラグレイ様。あなたには、隠さずにお話しします」


「急に整えるな」


「……え?」


「形式張られると気分が悪い」


 クラルシアは、ほんのわずかに目を伏せた。


 乱暴な言葉だった。


 けれど、否定はできなかった。


「では、できるだけ率直に申し上げます」


「ああ」


 クラルシアは息を吸った。


「わたくしは、あなたを……伴侶候補として、王宮へ呼びました」


 部屋の空気が止まった。


 ロゼでさえ、わずかに表情を引き締める。


 トルガだけが、一拍遅れて眉をひそめた。


「……は?」


「伴侶候補です」


「意味は分かる。分からねえのはそこじゃねえ」


 トルガは、心底理解できないものを見る目でクラルシアを見た。


「俺が?」


「はい」


「おまえの?」


「はい」


 トルガは黙った。


 怒るでもない。


 笑うでもない。


 ただ、目の前に差し出されたものをどう扱えばいいのか分からないような、なんとも言えない顔をした。


 眉間には皺が寄っているのに、目だけがどこか置き去りにされている。


 まるで、喧嘩を売られたと思って身構えたら、突然、花束を渡された男のようだった。


「……王宮は狂ってんのか」


 あまりに真顔で、しかも本気で困っているように言うので、クラルシアは思わず口元を押さえた。


 くすり、と小さな声がこぼれる。


 クラルシア自身が、遅れて驚いた。


 今、自分は笑ったのだろうか。


 王宮で求められる、絵に描いたような微笑ではない。


 誰かに見せるために整えた顔でもない。


 ふっと胸の隙間からこぼれた、年相応の少女の笑みだった。


 ロゼは息を呑んだ。


 陛下が、笑われた。


 ミリアム救貧院付属修道学校で、カレンに無理やり硬いパンを押しつけられて笑った時以来かもしれない。


 そんな記憶が、クラルシアの胸をかすめる。


 トルガはその笑みに、ほんのわずかだけ目を細めた。


 だが、すぐに顔をしかめる。


「悪いな」


「はい?」


「訳が分からねえ。説明しろ」


「はい」


 クラルシアは表情を改めた。


「わたくしは、王宮より婚姻を迫られております。王家の血を次代へ繋ぐために、各国の王子、貴族、身分ある方々との縁談が進められていました」


 トルガの表情から、先ほどの戸惑いが少しずつ消えていく。


 かわりに、冷たいものが宿った。


「わたくしは、それを受け入れたくありませんでした。けれど、ただ拒むこともできませんでした。ですから、条件を出したのです」


「聖ルミナ教会か」


「はい」


 クラルシアは頷いた。


「わたくしが最初に人として育てられた場所。あの教会に所縁のある者でなければ受け入れられない、と」


「見つからねえと思ったんだな」


 鋭い言葉に、クラルシアは隠さず頷いた。


「はい」


 ロゼが微かに視線を伏せる。


「聖ルミナ教会は戦で失われました。名簿も、人も、記録も、ほとんど残っていないと思っていました。わたくしは……時間を稼ごうとしたのです」


「それで俺が出た」


「はい」


「運が悪かったな。お互いに」


 トルガの声は荒くなかった。


 だが、クラルシアの胸には少し突き刺さった。


「あなたを、罠にかけるつもりはありませんでした」


「結果は同じだ」


「……はい。そうですね」


 クラルシアは静かに言った。


「わたくしは、自分が嫌だった婚姻を避けるために、今度はあなたを巻き込みました。あなたに望まぬ役割を押しつけようとしたのです。宰相たちと、同じことをしてしまいました」


 トルガは黙っていた。


 クラルシアは深く頭を下げる。


「非礼をお許しください。トルガ・ラグレイ」


 ロゼが思わず息を呑んだ。


 女王が、下層区の男に頭を下げている。


 ありえない光景だった。


 トルガはしばらく、その金の髪を見下ろしていた。


 やがて、低く言う。


「なるほどな」


 クラルシアは顔を上げる。


「おまえがお飾り女王ってのも納得だ」


「無礼な!」


 ロゼが剣の柄へ手をかけた。


「陛下! 今すぐ斬り捨てる許可を」


「ロゼ」


 クラルシアは静かに彼女を制した。


「本当のことです。反論はありません」


「陛下!」


「わたくしは、ずっとそうでした」


 その声は穏やかだった。


 穏やかすぎて、トルガにはかえって気に入らなかった。


「王宮へ戻され、女王と呼ばれ、笑って立っていればよいと言われました。わたくしは、それに従ってきました。ですから、お飾りと言われても仕方ありません」


「そうか」


 トルガは短く言った。


 クラルシアは少しだけ目を伏せた。


「ラグレイ。わたくしは、あなたに無理に婚姻を迫るつもりはありません」


「それは助かる」


「あなたは聖ルミナ教会を知る方です。テレサ様を覚えている方です。だからこそ、わたくしはあなたを利用したくありません。それに、こうしてテレサ様を知っている人に会えた。それで十分です」


 一拍置く。


「所詮、わたくしには何も選べませんから。あなたまで、わたくしの檻に引きずり込むことはできません」


 その言葉を聞いた瞬間、トルガの目が変わった。


「気に入らねえ」


「え?」


「その言い方だ」


 クラルシアは戸惑ったように彼を見る。


 トルガはまっすぐにクラルシアを見据えた。


「クラルシア」


 王宮の誰も決してしないように、トルガは女王の名を呼び捨てた。


 クラルシアの身体が、びくりと硬くなる。


「おまえはどうしたい」


「……わたくしが、ですか?」


「そうだ」


 トルガの声は低い。


「さっきから他人の話ばかりだ。宰相。王宮。俺。テレサ。国。責任。非礼。檻」


 クラルシアは息を呑む。


「おまえの話がねえ」


 言葉が、胸の奥を叩いた。


「クラルシア。おまえは、どうしたい」


 どうしたい。


 その問いは、クラルシアの奥深くまで届いた。


 誰も聞かなかった問いだった。


 王宮の者たちは、いつも告げた。


 女王として。


 王家の血として。


 国のために。


 未来のために。


 誰も、クラルシア個人の望みを聞かなかった。


 そしてクラルシア自身も、いつからか考えることをやめていた。


「わたしは……」


 声が出ない。


 何を望めばいいのか分からない。


 何を望んでよいのかも分からない。


 黙り込むクラルシアを見て、トルガは小さく舌打ちした。


「種馬扱いは気に入らねえ」


 ロゼの顔が一瞬で険しくなる。


「だが、それ以上に気に入らねえのは王宮だ」


 トルガは、部屋の壁を一瞥した。


「綺麗な部屋に閉じ込めて陛下と呼ぶ。頭を下げる。だがおまえには何も選ばせない」


 トルガはクラルシアを見る。


「気色悪い」


「トルガ・ラグレイ」


 ロゼが低く警告する。


「王宮への侮辱は――」


「見たままだろ」


 トルガはロゼを見ずに言った。


 そして、クラルシアへ視線を戻す。


「俺は王宮の連中みてえに、おまえの顔をありがたがる気はねえ」


 クラルシアの肩が、わずかに震えた。


「だが、おまえはどうだ」


「……わたくし?」


「王宮の連中に、腹は立たねえのか」


 クラルシアは答えなかった。


 答えられなかった。


 トルガの言葉は乱暴だった。


 けれど、その一つ一つが、心の奥に沈んでいた何かを無理やり掘り起こしてくる。


 悔しい。


 怖い。


 逃げたい。


 終わりにしたい。


 でも。


 腹が立っているのか。


 自分は、本当は怒っているのか。


 クラルシアには、まだ分からなかった。


 長い静寂が、部屋に満ちる。


 やがて、トルガは深く息を吐いた。


「……もういい」


 低い声だった。


 クラルシアは顔を上げる。


「え?」


「おまえが自分で何も選べねえなら、俺がここにいる理由はねえ」


「トルガ……」


「ばばあの名前で来た。それだけだ」


 彼は懐に手を入れた。


 ロゼが警戒して一歩前へ出る。


 だが、トルガが取り出したのは刃物ではなかった。


 古びたロザリオだった。


 銀色の鎖はくすみ、小さな十字は傷だらけだった。


 それでも、丁寧に扱われてきたことだけは分かった。


「……それは」


 クラルシアの声が震えた。


「ばばあが寄越した」


 トルガは忌々しげに言った。


「盗人のガキに、祈れってな」


 クラルシアは、無意識に胸元へ手を伸ばした。


 ドレスの内側。


 誰にも見せずに持ち続けてきた、小さなロザリオ。


 彼女はそれを取り出す。


 トルガのものと、よく似ていた。


 いや、同じものだった。


 こちらも古く、けれど大切に守られてきたものだった。


「わたくしも……いただきました」


 クラルシアの声は、思っていたよりも震えていた。


「八歳の誕生日に……テレサ様から」


 二人の間に、静けさが降りた。


 ロゼも言葉を失っていた。


 同じ人から渡された、同じ祈りの証。


 聖ルミナ教会は焼けた。


 テレサはいない。


 白鐘はもう鳴らない。


 それでも、二人はそれぞれに、あの場所の欠片を持っていた。


 トルガはしばらくクラルシアのロザリオに視線を落とした。


 やがて、ふいと顔を背ける。


「俺は下層に帰る」


「え……」


 クラルシアの指が、ロザリオを握りしめる。


「王宮の事情に付き合う気はねえ。婿探しにも興味はねえ」


「トルガ――」


「もう俺を呼ぶな」


 短い言葉だった。


 それだけで、クラルシアの胸の奥が冷たくなった。


 トルガは扉の方へ歩き出す。


 クラルシアは立ち上がりかけた。


 けれど、足が動かなかった。


 追いかけたい。


 そう思ったのかどうかさえ、分からなかった。


 ただ、胸の奥が急に冷えていく。


「トルガ・ラグレイ」


 ロゼが扉の前で立ちはだかろうとした。


 トルガは足を止めずに言う。


「通せ」


「陛下はまだ――」


「こいつが言った。無理に婚姻を迫る気はねえってな」


 ロゼはクラルシアを見る。


 クラルシアは何も言えなかった。


 言えないまま、ただロザリオを握っていた。


 ロゼは苦しげに唇を噛み、道を開ける。


 トルガは、振り返らなかった。


 黒い外套が扉の向こうへ消える。


 扉が閉まる。


 その音が、やけに大きく響いた。


 クラルシアは動けなかった。


 手の中には、テレサからもらったロザリオ。


 目の奥には、トルガが取り出した傷だらけのロザリオ。


 あの人は、持っていた。


 わたくしが大切にしていたものを。


 もう誰も覚えていないと思っていた場所の欠片を。


 テレサ様の祈りを。


 そして彼は、わたしを一人の少女として扱った。


 そんな人を、今ここで手放していいはずがない。


 けれど、声は出なかった。


 足も動かなかった。


 クラルシアはただ立ち尽くし、閉じられた扉を見つめていた。


 また、なにか大切なものを失った気がした。


 嫌だ。


 その言葉だけが、胸の奥に残った。


 失いたくない。


 行かないでほしい。


 けれど、それを誰に向けていいのか、クラルシアにはまだ分からなかった。


 トルガになのか。


 テレサ様の記憶になのか。


 それとも、何も選べないまま立ち尽くしている自分自身になのか。


 分からない。


 それでも、嫌だった。

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